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clm.293:相続税・贈与税の廃止はeconomic substance doctrineの「当然の帰結」

2019年における相続税・贈与税の税収(出典:Inheritance Taxation in OECD Countries)

OECD38加盟国では、一般的に相続税が軽微または皆無(上図の左11ヶ国)。例えば米国では相続する遺産が約10億円以下であれば相続税はかからない。日本(上図右から4番目)は例外的に高い相続税の部類。(出典はここ, Exelイメージ)・・・ 昨年11月の国税庁税務大学校公開セミナーの渋谷雅弘氏講義『相続税・贈与税の動向と課題』でこう聞いてから、なんだかモヤモヤしている。一見、格差平準化や公財政充実に逆行している様で簡単には腑に落ちない。

ひょっとしたら、経済的実体法理(economic substance doctrine) ― 経済実体を持つ事業体にはcorporate income taxが課されないという法理。非国家経済であるpopular economyの発達を促す。オバマが2009年にcodifyした。 ― の「当然の帰結」なのかもしれない。まだ思いつきの段階。忘れないようにメモしておくことにした。

20220204追記:economic substance (経済的実体、経済の本質)とは、いったい何なのだろうか。今、現行経済システムではそれは、利益追求であり「社会における効用関数の総和の最大化」だが、かつて、即ち、産業革命が効用主義倫理(utilitarian ethics)を生み出して、economyの意味を一変させる前は、economic substance(経済の本質)の意味は今とは全く違っていた。それは:

the Greek oikos and nomos, from where we get the word “economics”: the art of household management.       — Francis, Pope. Let Us Dream (p.67).

即ち、オイコス(家)をノモス(切り盛り)すること、家庭経営、を意味していた。従って、親から子へ家庭経営を引き継ぐための遺産相続は、economic substance(経済の本質)の1丁目1番地。決して国家が、現行経済運営のために取り上げてはならない。こう、economic substance doctrineでは考えられる。以上、とりあえず、考えの道筋をザックリとまとめてみた。

神と人間との協働

コラム288「a co-produced naive reality」と似た考え方を見つけたのでメモしておく。

それは、神と人間との協働。一昨年フランシスコ教皇によって列聖されたジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)の信条を表すことば。

詳しくは、~ARCHIVESの資料・グラフにアップした記事を読んで頂きたいが、私なりに要約すると:

ニューマンが生きた19世紀西洋は、a secular age(世俗の時代)が次第に隆盛となっていく時期。salvation(救済)に必要なのは、①人間のthe world(この地上世界)における努力だとするペラギウス的考え方と、②人間は根本的に堕落しているので、神の恩寵に頼るしか道は残されていないというジャンセニズム的考え方との、二つがするどく対立しはじめた。

こうした中ニューマンは、独自の第三の考え方を開いた。つまり、③神の恩寵に信頼しつつも人間の自由意志で出来うる限りの努力を積み重ねることが重要だと考えた。神と人間との協働。

この考え方、コラム288「a co-produced naive reality」で示した考え方と似ている…。

分科会2021#5 (11月20日) 開催通知および配付資料

日時2021年11月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」  英語版の精読
9. Preparing the future together with Jesus who saves and heals

配付資料

clm.291:Economy of Francesco 2021大会

フランシスコ教皇が主催するEof Global Eventが今年も開催された。Economy of Francesco 2021オンライン会議(10月2日)

ジェフリー・サックス(左)が四人の若手研究者のプレゼンを聞いた後にディスカション。斬新なアイデアが幾つも聞けて興味深い。

セッションの最後は、フランシスコ教皇からのビデオメッセージで締めくくられた。「おそらく皆さんが、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません」と教皇は青年達に語りかけた。

岸田首相は「新しい資本主義実現会議」を立ち上げると言っているが、こういった世界の動きを果たして知っているのだろうか。

20211021追記:フランシスコ教皇ビデオメッセージ英語版がVaticanからアップされた。上述部は5段落目:
 Today our Mother Earth is lamenting and warning us that we are approaching dangerous thresholds. You are perhaps the last generation that can save us: I am not exaggerating.  In the light of this emergency, your creativity and resilience imply a great responsibility. I hope you can use those gifts to correct the mistakes of the past and lead us towards a new economy that is more inclusive, sustainable and supportive.
  今日母なる地球は、私たちが危険な限界に近づいていることを嘆いています。そして私たちに警告を発しています。 おそらく皆さんは、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません。 この緊急事態に際し、皆さんの創造性と強靭性には重大な応答責任が課されています。 皆さんがこれらの賜物を使って、先達が冒した過去の過ちをcorrectし、より包摂的で持続可能で人々に支援を与えるa new economyに私たちを導いてくれることを、私は切に願っています。

clm.290:『サイエンス炎上』

Harvard UPから興味をそそる本が出ていることを見つけた。Science under Fire(サイエンス炎上)、Andrew Jewett著、2020年12月刊。買おうかどうか迷っている。とりあえず、descriptionを半訳しておく。


科学専門家や科学エリートに対する猜疑心をアメリカ人は長年にわたり持っている。即ち、科学がアメリカ文化を破壊する力を持っていると多くのアメリカ人が今も昔も感じている。理由は何か? 本書は新たな歴史観で説明する。

科学が権威を持つこと自体あり得ないと感じているアメリカ人は少なくない。保守派の多くは、気候変動とダーウィニズムをリベラルなフィクションであるとして却下し、”tenured radicals“(終身在職権を得た急進派の大学教授達)が保身のために科学や関連分野を取り込んでいるだけだと主張している。一方の進歩派、特に大学関係の進歩派には、科学を客観的中立的だと礼賛する者は、実はその人が持つヨーロッパ中心主義と家父長制価値観への愛着をただ覆い隠しているだけではないか、と懸念する意見もある。気候変動の含意と、バイオテクノロジーからロボット工学はたまたコンピューティングまでの分野における華々しい技術革新との対比を考察するためには、科学が持つ権威が、どのように機能するのか、今までどこで政治と文化の障壁に衝突してきたのか、理解することが極めて重要だ。

本書Science under Fire(サイエンス炎上)は、the United Statesにおいて科学がその文化にどの様な影響をもたらしたのかをめぐる論戦の模様を一世紀にわたって再構築する。そして著者Andrew Jewettは、或る批判の永続流が存在することを顕わにする。即ち、中立の覆いをまとった科学者達が誤った社会哲学をthe nationの血流に注入した、とする批判の永続流があることを明らかにする。この嫌疑は様々な形をとる。社会的、政治的、神学的見解の幅広い範囲に様々な批判となって現れてきた。しかしその全てに共通しているのは、或る種のイデオロギーに歩み寄った科学が一連の病的社会状況を生み出したという主張だ。 科学に関するこの様な嫌疑が、1920年代以降のアメリカの政治と文化の中に、様々な形をとりながらどの様に発展し爪痕を残したのか、Jewettはその航跡を追う。そして科学に関するこの様な嫌疑が、今も昔もアメリカの政治と文化における主要な力であることを示す。

科学をめぐる論争の現在の様相を見てJewettは、citizens and leadersがとるべき議論の方向を示す。即ち科学は、一方では純粋で価値中立的な知識形態だとする素朴なイメージがあり、他方では科学者達が主張する真実を装った単なるイデオロギーだとする見解があるが、その中間に議論の方向をとるべきだとJewettは考えている。

clm.289:科学はpeopleをつなぐ最良の言語

米国光学会(OSA)の機関誌(OPN)2021年9月号を読んでいて目にとまったのでメモしておく。

学会長、台湾出身のコンスタンス チャン-ハスナインの巻頭言。「私は常にこう考えています。科学はpeopleをつなぐ最良の言語、科学者は諸文化にかかる最良の橋だと」。左のアイコンをクリックすると全文を読める。

フランシスコ教皇の言葉づかいとソックリ。コンスタンス(節操)と言う名前からして彼女はカトリックのひとかもしれない。彼女はまた、OSAを米国に留めるのでなく国際学会OPTICAにしようと規約などの改訂を進めている。

この言葉を聞いて私は、日頃からの思い:「ポスト世俗(postsecular)の社会思想の基礎は、再びのsacred(聖)ではなく、形而上学(metaphysics)に歩みを進めたscience。」 これを強めた。

20211003追記:peopleの定義を、フランシスコ教皇はLet Us Dreamの第3章で詳細に述べている。その最初は:
   What does it mean, to be “a people”?   It is a thought category, a mythical concept, not in the sense of a fantasy or a fable but as a particular story that makes a universal truth tangible and visible. (79page, kindle No.1154)
   “a people”であるとはどういう意味でしょうか? それは思想の範疇に属します。或る種の神話的概念、しかしおとぎ話やファンタジーではなく一つの普遍的真実を、手に触れ目に見えるものにするために特別なstoryを描く者達です。
・・・教皇の博士論文の用語を使えば、「形而上界の知見を、形而下界で知覚する/しようとする者達」といえるだろう。

clm.288:a co-produced naive reality(共作素朴現実)

前コラム「amorphose cryatalline論争」は、科学と宗教にまたがる問題であり、やはり簡単には決着しないようだ。現時点での私の考えを「reality構成図 rev.3」にまとめてみたのでアップしておく。(ちなみに、前コラムのURLは、battle-over-amorphous-crystalline-is-still-going-on)

キーポイントは、宗教的hidden realitiesと科学的hidden realitiesとの双方から遷移(transition)が行われる中で、このa naive realityが作られているのではないか、としたこと。

すなわち、communion(霊的交わり)と波束の収縮(reduction of wave packet)の二種類の遷移によって、私達がその中にexistしているというdata(感覚与件)を受けとっているこのa naive reality、則ちこのa tangible and visible reality(触れること見ることができる一つの現実)が「共作」されているのではないか。

こうだとすると「存在の二様:beingとexistence」の図も修正する必要がでてくる。しかしそれは、「二様ある」と言う大筋に変更を加えるものではないので、もう少し考えてからにしたい。

reality構成図、(果てなく?)考察途中だが、アップしておく。科学者は、宗教者の直観を「検討の俎上」に必ず載せる。自分の特徴を忘れないようにしようと改めて思った。

20210925追記:reality構成図でのa naive realityの説明を、a partly crystalline and partly amorphous reality(部分的に結晶質で部分的に非晶質な或る一つの現実)と変更してrev3.1とした。

clm.287:amorphous crystalline論争は決着していると思うが…

amorphous crystalline論争は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)により決着していると私は思うが、保守派からの反発はまだ続くかもしれない。

例えば、保守派が勢力を持つ米カトリック司教団と米国聖公会が1999年に出した文書に、”The gift of communion from God is not an amorphous reality but an organic unity that requires a canonical form of expression”.(神からのcommunionの賜りはan amorphous realityではない。それはa canonical formで必ず表現されるan organic unityである。)とあったのをみつけた。

”amorphous reality” +”pope francis”でググると、フランシスコ教皇がan amorphous realityについて言及しているサイトを多数見つけることが出来るが、上記の様な「保守派からの反論」も多数見つかる。

この件に関しては科学的には一応の決着を迎えたと思うが、反論は常に歓迎される。

ただこの件(科学的な一応の決着)に関しては、今後は両意見の間で、教皇の言うdialogue with scienceが進むことを期待したい。つまり双方が、explicit specification of conceptualization(概念の明示的仕様)を提示し合う努力を続けるなかで、議論を進めていって欲しい。でないと、反証を提示することも反証を検証することもできず、科学の側面からは議論が先へ進まない。

私達がその中にexistしていると感じている、この a tangible and visible realityを含むrealityの全容の解明に、見果てぬ夢かと思いつつも希望を持ってchallengeする。宗教も科学もアプローチの仕方は違えどこの目的を共有している。お互いの方法を尊重し合って解明を進めたい。

20210922追記:私自身が科学者と宗教者の両側面を持つので推敲に時間がかかっている。このamorphous crystalline問題は科学と宗教にまたがっているので、ひょっとしたら、両側面同時決着は無い事柄なのかもしれない。また、むしろその方が議論が進むのかもしれない。つまり、宗教が科学に直感と希少体験談を提供し、科学が宗教に理論と実験結果を提供する。そういった形が上手く取れるとき、こういった問題に進展が見られ、Questが進むのかもしれない。・・・同じ悩みは、科学と宗教の両バックボーンを持つフランシスコ教皇も?…。

20210924追記:長くなるので別立てコラムにした。コラム288「a co-produced naive reality? (共作素朴現実?)」をご覧下さい。