clm.295:国家税制と宗教税制の拮抗併存

economic substance doctrine ー 経済の本質を伴う営みには国家は課税しないという法理 ー は、両権社会(church and state, Duo Sunt)に特有な法理。これを確認するために:『2016年Kluwar出版社発行Comparative Tax Law, 2nd edition 4章9節 Religion and Religious Law(原英文はここ)』を半訳し精読した。確証を得るとともに他にも知見が得られたのでメモしておく。なお、「economic substance doctrineは、両権社会に特有な法理」の確認は、以下を読めば自然な論理展開となるので、ここには記さない。


「国家税制と宗教税制の拮抗併存」

世界中の国(country)は、国家倫理(state ethics)と宗教倫理(religious ethics)の包含関係の違いによって、四種類に分類できる。(承前。例えばここ)

即ち、ケイサロパピズム型 (国家倫理  宗教倫理); 単一宗教優位型 (国家倫理 ⊂ 宗教倫理、以下「イスラム型」と呼ぶ); デュオスント型 (包含関係なし、且つ、国家倫理 ∩ 宗教倫理 ≠ 空集合。両権社会とも呼ぶ); ディアスポラ型(宗教倫理のみ)の四種類。

この四種類の内、「国家税制と宗教税制の拮抗併存」が起きるのは、イスラム型とデュオスント型に限る。なぜならば:

「税」とは何なのか。それは、国家ではなく社会の維持・発展のためのresource (資源)。このことに注意したい。この「発展」の意味するところ、すなわち「社会が目指すべき方向」は、その社会がどの様な倫理を持つのかに依存する。だから当然、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会では、「税」を徴収する「徴税権」あるいは「税制」を、それぞれの倫理が持つことになる。

20220215 追記:確かに、上掲資料にある様な偽装宗教税問題という厄介ごとが増えるかもしれない。discernment(ホンモノかどうか識別すること)はとても難しい。しかし、もしそれがホンモノの倫理であるならば、倫理それぞれが、それぞれの「徴税権」「税制」を持つべきだ

そして、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会はデュオスント型とイスラム型だけ。結果、この二つの型の社会においてのみ国家税制と宗教税制の拮抗併存が起きる。

・・・さて、私達が生活する日本社会は、優位に置かれた国家倫理が宗教倫理を内包するケイサロパピズム型。カエサル(皇帝、国家首長)がポープ(教皇、宗教指導者)を選ぶ権限を持つタイプ。ウェーバーが名付けた社会類型であり、国家支配層がconceiveした宗教を持つ社会の多くがこれに分類される。国策宗教が不可抗力的に作られてしまう危険があり、徴税権は国家に属し宗教には属さない。

結果日本では、例えば、宗教者が「死刑反対」「自衛隊の海外派遣、反対」「原発反対」と主張しても、社会をその方向に持っていく実効力はほとんど無い。このことに「慣れ」た私達には、にわかには信じがたいかもしれないが、他のcountry(国)ー イスラム社会とデュオスント(両権社会)では、確かに宗教が社会を変えていく実効力を持つ。このことが、この資料を読むと良く分かる。

・・・この辺りに、フランシスコ教皇が最新刊『兄弟の皆さん』で、さかんにイスラムへの接近を図る要因があるのかもしれない。

20220212 訂正:上記全体で、「規範」と記載していたものを「倫理」に訂正した。具体的には、国家倫理はutilitarian ethics(効用主義倫理)であり、宗教倫理は、宗教を進歩派カトリックと想定すれば virtue ethics(徳倫理)であることは、当ブログ読者には明かだろう。コラム251で、「倫理が変われば経済も変わる」というようなことを述べたが、この考えの下に訂正を行った。

20220212 追記:日本政府の「新しい資本主義実現会議」も、もし本当に新しい経済を考えたいなら、まず先に「新たな倫理」についてconceiveする必要があるのではないだろうか。