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clm.274:帰属家賃(imputed rent)

前回コラムで紹介した、帰属家賃(imputed rent)とは、持ち家を自分が自分に貸した貸家(かしや)だと仮定して、自分が自分に払う仮想的「家賃」のこと。実際にはお金は動かない。それなのにこんなややこしい計算をしてGDP額を見積もる。日本でいえば500兆円GDPの5%、25兆円をこの仮想的「生産」は稼ぎ出す。

家事仕事は生産境界内に入れないのに、こんな虚事(そらごと)を生産境界内に入れるとはなんたること! そもそも生産境界を設けることに疑問を持つが、設けるにしてももう少しましな生産境界を設けたらどうか! …マッツカートの意を汲みすぎかもしれないが、その様に憤慨する彼女の『全てにそれぞれ価値がある』から、帰属家賃の解説部分を拾った。半訳したのでご覧下さい。

なお、日本語でも、作間逸雄「生産境界再考」の第三章に、帰属家賃について説明がある。帰属家賃の起源が、18世紀末に始まったindividual income tax(個人所得税)の制度設計にあることなどが説明されていて興味深い。併せてご覧下さい。

clm.273:生産境界(production boundary)

前回コラムでproduction boundary(生産境界)という概念を紹介した。それは左図 ― マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』Fig.1 ― にある様に、あらかじめ価値(value)の定義が決められたうえで、様々な人間が何かを生み出そうとするいろいろな、その人にとっての価値の生産活動を、他者が、これは価値を生む(productive)/これは価値を生まない(unproductive)と、勝手に決めつける「選別」境界を意味する。

具体例を再掲すると、或る人が自分の家族のために食事をつくるのは「生産」ではないが、その人がどこかの料理店で販売用の食事をつくれば「生産」とみなす。同様に、或る人が自宅で子供を子育てしても「生産」ではないが、その人がたまたま保育士でどこかの保育園で子供を保育(子育て)すればそれは「生産」とみなされるといった具合。(deligability criterion、委任可能性基準、他の人に代わってもらえるかどうか、代わってもらえるものが「生産」だとする考え方。)

マッツカートは、この様な生産境界が、現行経済システムの「病根」であり、差別や格差を生み出す「元凶」だと論じた。

いったいどうしてこの様な差別概念が生まれたのだろうか? 実は、奇妙なことに、経済に公平性(eauality)ばかりを求めると、いずれ生産境界という差別的「選別」という「魔物」に辿り着く。人間界にはこの様な或る種「皮肉な運命」が組み込まれている。今回はこの話をしてみよう。まず、近代経済学のはじまりから。それは一見、公平性(eauality)を実現したかに見えた…。

左に示したのは、近代経済学の父、アダム・スミス『諸国民の富』(1776年)のことば。(マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』第一章の冒頭に引用されていることば):

There is one sort of labour which adds to the value of the subject upon which it is bestowed: there is another which has no such effect.  The former, as it produces a value, may be called productive; the latter, unproductive labour.
                                                                                          Adam Smith, The Wealth of Nations (1776)

半訳:或る種の労働は、その労働に賦課された課題にthe value(該課題に関し相応の価値)を付け加える一方で、他の種類の労働にはその様な効果がない。従って前者を、それがa value(或る種の価値)を生むという意味で生産的(productive)労働と呼び、後者を非生産的(unproductive)労働と呼ぶのがいいだろう。(訳註:ここではsubjectを「課題」と訳したが、18世紀西洋という時代背景を考えると「国王権威ないし教会権威の下にある臣下」と訳すこともできる。)

つまり、生産的/非生産的の差別がはじまったのは、アダム・スミスの時代、則ち、二百数十年前、18世紀後半、産業革命が始まり、大量生産される規格商品が市場における「需要」と「供給」のバランスによって価額(price)という「数字で表現できる価値」をもつようになってから。

この「数字で表現できる価値」は、公平な経済を実現する上で大変重要だった。しかし「価値」のもう一つの側面、subjective factor(主観的要因)が抜けおちてしまった。「数字で表現できる価値」は、主にobjective factor(客観的要因)から計測された価値であり、人間社会におけるeverythingがそれぞれに持つ「価値」の一部しかとらえていない。一見「公平」な経済を形成するために役に立つように見えるが、それは各人間のpersonalな多くの側面を考慮から外して成立させたequality(公平、平等)であり、早晩、破綻を迎えることが予想された価値評価方法による公平(equality)だった。

先程のアダム・スミスの言葉にも、注意してみれば、この「破綻」を予想していたかのような、ニュアンスが読み取れる。the value of the subjectとa valueとを考察対象とし、the value of everythingではなく限定された特定の価値(the specified value)だけを考察していることを明確にしている。

・・・さて、長くなるので今回はここまで。次回は、生産境界が生み出す不思議のもう一つの例、帰属家賃(imputed rent)について説明する予定。短く言うと、持家(もちいえ)が「自分が自分に貸す貸家(かしや)」だと想定して、自分が自分に払う仮想的「家賃」のことを帰属家賃(imputed rent)と呼ぶ。チンプンカンプン極まりない。請うご期待。

最後に、マッツカート『全てにそれぞれ価値がある』の最終章最終節「万人のためのより良き未来」の三段落を半訳したのでご覧に入れる。価値のsubjective factor(主観的要因)とobjective factor(客観的要因)との使い分けが出てくる。確認頂きたい。


A BETTER FUTURE FOR ALL 「万人のためのより良き未来」

Mazzucato, Mariana. The Value of Everything: Making and Taking in the Global Economy (p.279). PublicAffairs. Kindle 版. 第九章第三節

The concept of value must once again find its rightful place at the centre of economic thinking. More fulfilling jobs, less pollution, better care, more equal pay–what sort of economy do we want? When that question is answered, we can decide how to shape our economic activities, thereby moving activities that fulfill these goals inside the production boundary so they are rewarded for steering growth in the ways we deem desirable. And in the meantime we can also make a much better job of reducing activities that are purely about rent-seeking and calibrating rewards more closely with truly productive activity.

価値という概念は今一度、その本来の位置、経済学研究の中心に戻す必要がある。いったいどの様な種類の経済を目指すのか? 則ち、もっと自己実現に適った仕事、もっと低い環境汚染、もっと充実した健康保険、もっと平等な賃金 ―どれを私達は欲しているのだろうか? この質問に答えられてはじめて、どのような経済活動を具体化すればいいのか私達は知ることになる。そうしたうえで、これらのゴールに向かう活動が内側に入るよう生産境界を設定すれば、確かに、私達が望む方向に経済成長を向かわせる活動が報酬を得ることになるし、利潤追求だけに偏った活動を矯正することも、真に生産的な活動に対し好意的な報酬を払うよう調整することも、できるようになる。

I began the book stating that the goal was not to argue that one value theory is better than another. My aim is for the book to stir a new debate, putting value back at the centre of economic reasoning. This is not about drawing firm and static fences around the production boundary, arguing that some actors are parasitic or takers, while others are glorious producers and makers. Rather we should have a more dynamic understanding of what making and taking are in the context of the societal objectives we have. Both objective and subjective factors will no doubt come into play, but the subjective ones should not reduce everything to an individual choice, stripped from the social, political and economic context in which decisions are made. It is those very contexts that are affected by the (objective) dynamics of technological change and corporate governance structures. The latter will affect the way that income distribution is determined, as will the strength of workers to bargain their share. These structural forces are results of decision-making inside organizations. There is nothing inevitable or deterministic about it.

しかしながら、この本の冒頭で私は、唯一のベストな価値理論を見いだすのがゴールではないと述べた。今一度、価値理論を経済学的理論作りの中心に戻し、新たな議論を巻き起こす、これが本書で私が目的としたこと。それは、びくともしない固い壁を生産境界に持たせることでも、一方の者達を経済に寄生する富の掠奪者だと断ずることでも、他方の者達を栄誉ある生産者・富の生成者だと称賛することでもない。そうではなく私達は、今ある社会目的の文脈の中で、富の生成と取得とはそもそも何であるのか、より動的なunderstandingを持つべきだ。そしてこの議論の中で、価値の客観的要因も主観的要因も両方が重要となってくるのは疑いようがない。ただここで注意喚起したい。価値の主観的要因は、全てを個人的選択に帰すものではない。則ち、価値の主観的要因によって、その背景にある社会的・政治的・経済的な意志決定の文脈の全てを剥ぎ取られるわけではない。価値の主観的要因によって剥ぎ取られるのは、該(価値評価対象に関する)技術変化とcorporate governance構造が織りなす動力学によって影響を受ける文脈だけだ。特に後者のcorporate governance構造は、組織所得の分配に影響を与えるので、そのcorporateの従業員達が分け前交渉する強度に影響を与える。しかしながらこれらの構造的影響力は、その特定の組織内での意志決定の結果に過ぎない。そこには逃れようのない決定的なものは何も無い。

I have tried to open the new dialogue by showing that the creation of value is collective, that policy can be more active around co-shaping and co-creating markets, and that real progress requires a dynamic division of labour focused on the problems that twenty-first-century societies are facing. If I have been critical, it’s because such criticism is badly needed; it is, moreover, a necessary preliminary to the creation of a new economics: an economics of hope. After all, if we cannot dream of a better future and try to make it happen, there is no real reason why we should care about value. And this perhaps is the greatest lesson of all.

以上、本書において私は、価値の創造はcollectiveに行われること、政策はco-shaping and co-creating marketsを巡ってより活発に実行に移される可能性が高まること、本来の社会進歩には、21世紀社会が直面する諸問題に焦点をあてて労働力を動的に分割する必要があること、これらを示すことによって、新たな対話を開こうと試みた。批判的過ぎるとの誹りを受けるとするのならば、これら批判は必要悪だと答えたい。いやそれ以上だ。これは、新たな経済、希望の経済を創造するにあたって必要な準備だ。なぜなら、とどのつまり、もしも私達がより良い未来を夢見てそれを実現しようと努力することが不可能ならば、実の所、価値について思いを巡らすべき本当の理由は何もないからだ。そしてこれこそが、万人にとって最も大きな教訓なのかもしれない。

tuntum quantum:as much as quantities:その同じ量だけ(副詞句)

現在では「量子」という意味で使われる「quantum」というラテン語。これが、イエズス会創設者イグナチウス・ロヨラによって約五百年前、重要語句として使われていた。「”pope Francis” +”quantum”」とググっていて気づいたのでメモしておく。

左掲を半訳すると:

tuntum quantum
 so much as(その同じ量だけ、副詞句) 聖イグナチウスの著書『霊操の基礎と原理』(1548年発刊、ラテン語)の中で、被造物のright useを説明するために、次の様に使われたラテン語用語。「私達は、被造物を、それが私達を最終目的へと導く量(quantum)だけ使い、私達が創造された目的の達成を邪魔する量(quantum)だけ脱却することが可能です。」

(半訳注意点:be to 不定詞は、予定、義務、意図、可能、運命の意味で和訳することが出来るが、ここでは可能の意味で訳してみた。)

・・・フランシスコ教皇は、若い頃は大学で化学を学び関連の研究所で働き、黎明期の量子力学を学んだだろう。そしてその後イエズス会に入った。彼にはquantum theory(量子論)が、二つの意味を持っていると感じられるのかもしれない。

clm.272:マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』

コラム260で「教皇、新経済学の指南役に二人の女性経済学者を推挙」と書いた。ケイト・ラワースとマリアナ・マッツカート。ラワースについては、著書「Doughnut Economics」の和訳本「ドーナツ経済学が世界を救う」も出ていて日本でも良く知られている。しかし、マッツカートについてはあまり知られていない。彼女について教皇はこういっている。(ロンドン大学記事2020年11月30日

The Pope also states that Mazzucato’s The Value of Everything “provoked a lot of reflection” within him as the book issues a direct challenge to the wealth creators of our world, urging them to reprioritise ‘value’ over ‘price’. In other words, ‘taking’ wealth is not the same as ‘making’ wealth, and the world has lost sight of what value really means.

半訳:マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』(2018年9月発刊)は多くの省察を「私(フランシスコ教皇)の中に呼び起こしました」。例えばこの本は、この地上世界の富の創造者達に挑戦状を突き付けています。彼らに「価額(price)」よりも「価値(value)」を優先するよう迫っています。言い換えればこの地上世界では、富(wealth)を取得(take)することは富を生成(make)することと同じではない。則ち、この地上世界は価値(value)の本当の意味を見失っています。

ロンドン大学記事の説明は続く:

The impact of Professor Mazzucato’s work on the Pope’s thinking on the most effective ways to construct a more equitable economy post-COVID was demonstrated earlier this year when the Pope invited her to sit on the Vatican COVID-19 Commission’s Economy Taskforce. She formed a group within IIPP, led by PhD student Asker Voldsgaard, tasked with preparing briefings for the Pope and the Vatican Directorate on key aspects of the economic response to COVID-19 ahead of the Pope’s weekly speeches. The Vatican and IIPP are currently working to their broaden relationship beyond the Taskforce to include work in the areas of public health, executive education and the Common Good.

半訳:マッツカート教授のこの著作(2018年9月発刊)は教皇に衝撃を与えた。そして、コロナ後のa more equitable economy(より衡平な経済)を最も効率的に構築する諸策に関する教皇の考えが、2020年前半に、マッツカート臨席のthe Vatican COVID-19 Commission’s Economy Taskforceにおいて披露された。彼女(マッツカート)は自身が2017年から所長を務めるIIPP(ロンドン大学)において或る研究グループを持っている。その研究グループが、2020年8月9月に行われた教皇の一般謁見講話「新カテケーシス、この地上世界を癒すために」に向けて、教皇と、「コロナ後の新たな経済に関する主要観点」バチカン理事会とに、報告書を事前に提出していた。またバチカンとIIPP(ロンドン大学)は現在、先のTaskforceよりも範囲を拡大した分野:公衆衛生、経営者教育、the Common Good、で関係を強め共同研究を行っている。

・・・ということで、このマッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』(2018年9月発刊)が、教皇提唱の「新たな社会経済システム」の主要部分を成すことが分かる。そしてこの本に81回も頻出するのが、production boundary(生産境界)という現行経済学に特有な専門用語であり、それが現行経済システムの「病根」だというのが、本書の趣旨

次回コラムは、production boundary(生産境界)について説明する予定。少し予告編を流すと…。

production boundary(生産境界)とは、先ず前提に、価値を生む生産と生まない生産を区別できるという考え方がある。その上で、或る生産が或る経済システムにおいて、或る定義によって定義される付加価値(added value)を生む生産か、それとも生まない生産かを区別する。そしてこの様に区別された価値を生む生産を、改めて「経済的生産」あるいは単に「生産」と呼ぶ。例えば現行経済システムにおいては、或る人が自分の家族のために食事をつくるのは「生産」ではないが、その人がどこかの料理店で販売用の食事をつくれば「生産」とみなす。同様に、或る人が自宅で子供を子育てしても「生産」ではないが、その人がたまたま保育士でどこかの保育園で子供を保育(子育て)すればそれは「生産」とみなされるといった具合。

これら認められた「生産」だけが、所謂GDP(国内総生産 gross domestic product)に組み込まれるというのが、現行経済システムにおけるproduction boundary(生産境界)の考え方。…次回、請うご期待。

20210518追記:全てのそれぞれの価値を認める新たな経済は、自然に、公平性(equality)だけを重視した経済ではなく衡平性(equity)も重視した経済、則ち、より衡平な経済(a more equitable economyになる、と気づいた。理由は、二つ前の段落をよく読んで頂ければお分かりと思う。コラム252:価値の可測性、virtueとutility、も参考にされたい。

20210519追記:教皇提唱の「新たな社会経済システム」の制度設計方針の一つを:
   Everything is interconnected.  So, everything has the value.
   全ては相互接続されている。従って、全てはそれぞれに価値を持つ。
としたら良いのではと思った。
教皇が良く使う二重否定文で言えば、
   Nothing has no value! 価値のないものはない!
といったところだろうか。

20210522追記:物理屋の表現としては、
   Everything is interconnected.  So, everything has the correlated value.
   全てはinterconnectされている。従って、全ては相関的な価値を持つ。
のほうがシックリくる。

分科会2021#2(5月15日) 開催通知および配付資料

日時2021年5月15日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」  英語版の精読
3.preferencial option for the poor、 4. universal destination of goods

配付資料

clm.270:beingとexistence

前回コラムで、realityにはa naive realityとhidden realitiesがあることを説明した。同様に、人間存在にも二様ある。a naive realityにおける人間存在(a human existence)と、hidden realitiesにおける人間存在(a human being)。大まかに示すためにとりあえず図にしてみた。これも、考えが整理できたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。

20210501追記:フランシスコ教皇が2015年訪米した際行ったreligious libertyに関する論考の第6段落にあるthe transcendent dimension of human existence。意味するところを私はこの様にとらえている。

20210503追記:beingの意味を英辞郎で調べると、3番目に「本質」が出て来る。ここでは「本質存在」と訳してみたい。existenceの方は、「地上世界的存在」「俗世存在」あたりがいいかな? あるいは、beingを「形而上存在」、existenceを「形而下存在」、と和訳するのもいいかもしれない。

20210503追記:そうすると教皇の新カテケーシス「この地上世界を癒すために その2」にある:
The human being, indeed, in his or her personal dignity, is a social being, created in the image of God, One and Triune.  は、
人間の形而上存在はまさに、his or her personal dignityの中にあって、三位一体の神の似姿に創られた、(形而下界に)社会を構築する形而上存在です。  と半訳できるかな。

clm.269:reality構成図

“structure of reality”とググると、出るわ出るわ、Springer, Oxford, Cambridge,,,と名うての学術出版がテキストを出している。これに習って私もまだメモ書き程度だが、reality構成図を書いてみた。

頭の中を整理するために書いたので、説明は無し。考えがまとまってきたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。(^o^)

20210422追記:フランシスコ教皇の言う religions in dialogue with science が「科学という共通言語で対話する諸宗教」という意味だと思うのは、私の頭の中がこう整理されているからかな。(^_^;)

clm.268:サイエンスとは…

scienceとは何か? 説明を求められることが多くなってきたので私の考えを短くまとめておく。scienceとは、realityをunderstandするための反証可能な仮説検証作業。

前半は、フランシスコ教皇が使う英語表現で、後半は、カール・ポパーが使う用語となっている。カール・ポパーの用語も英語表現を示しておく。
反証:contrary evidence
反証可能:falsifiable ← 「誤りだったと認めることが可能」という意味
仮説検証:hypothesis test

つまり、色々な仮説(あるいは命題、主張、公理)を立ててはその真偽を検証するために実験を継続的に行いrealityをunderstandしていく。これがscienceの「定義」だと私は考えている。

「反証可能」とは、ある仮説(あるいは命題、主張、公理)に反する事実(あるいは証拠)、つまり「反証」が、もしも確認されたならば、その仮説(あるいは命題、主張、公理)がfalse(偽)であることを認めることが可能、ということ。例えば、万有引力の法則(the law of universal gravitation)という仮説(あるいは命題、主張、公理)には今のところ「反証」は見つかっていないが、もし見つかったならば、万有(universal)については取り下げる用意があるということ。「まちがってました。ゴメンナサイ」と謝る心の準備は出来ているということ。

scienceと宗教の違いについても質問されることがあるので、私なりの考えをメモしておく。両者はとても似ている。どちらも目的はrealityをunderstandすること。違いは、当該仮説(あるいは命題、主張、公理)が意味するところの「深遠さ」。

例えば量子論の公理系の意味するところは、物理学を学べばそれなりにconceive(捕捉)出来る。しかし例えば「神」の意味するところは、汲めども尽きぬ井戸のようで、「心」では何となく分かるが「頭」では「分かった!」と言いきることが出来ない。conceive出来ない。従って反証探しに至らない。(20210416追記:conceivabilityは人によって異なるかもしれない。例えば神をハッキリとconceive出来る人もいるかもしれない。マッ、私には今のところ当てはまらないようだが…。)

けれども、scienceも宗教も、realityのphenomena (様々な現象)をそれなりに上手く説明できる。

いまのところ私はこの様にscienceと宗教をundertstandしている。

clm.267:objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能。

前回コラムが中途半端だった。フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いておきながら、その理由を述べていなかった。追記の形で書こうかと思ったが、重要な論理展開なので、別立てコラムにすることにした。

一文で説明するなら、標題:「objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能」、となる。もしもこれで、「齋藤が言わんとすること十分に分かった」という方は、以下、読み飛ばし可。

なお、”objective reality is inconceivable”(客観的現実は人間には捕捉不可能)をGoogle検索すると、上掲したキャッチアイ画像のように一件だけヒットする。カントが、キリスト教神学上の大問題である義認justification)を論じた部分。これで分かるが、客観的現実のconceivability(人間が持つ捕捉能力)の有無は、justificationを論ずる上で鍵となる問題。ここでは深入りしない。

では、本論に戻る。まず「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する」という教皇発言について補足する。

量子力学には長年懸案だった「観測問題」というのがある。「量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まるのか、それとも観測者(subject、主体)の観測行為に依存するのか」という問題。この問題は、左掲のGoogle量子コンピューター実証実験によって「波束の収縮は観測行為に依存する」と決着した。

量子コンピュータとは、古澤明『光の量子コンピュータ』160頁の記述をもとに説明すれば、『あらかじめ「答えの候補」となり得るあらゆる量子状態の重ね合せを量子コンピュータ内で生成し、量子力学的な干渉や測定に依存する波束の収縮を用いて、その「答えの候補」のなかから「答え」を浮かび上がらせる』観測装置。つまり、波束の収縮が観測(干渉や測定)に依存することを利用して観測装置を工夫することにより、波束の収縮の行き着く先をコントロールできる。これが前提になっている。

仮説:「波束の収縮は私達の観測行為に依存するらしい」。ならば逆手にとってコントロールしてみよう。試した結果、コンピュータを作れるほど正確且つ確実に波束の収縮はコントロールできた。言い換えれば、波束の収縮は観測依存性が相当程度に強いと仮説検証された。こう、Google実験発表(2019年10月)が周知され、この教皇発言(2019年12月)「…に依存する」につながったのだろう。

[Roger Penrose]のThe Road to Reality: A Complete Guide to the Laws of the Universe (English Edition)またrealityについて、現在のところ量子力学は以下の様に説明する。私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)は、ミクロスケールでは全て、様々な量子状態の波束の収縮が作り出したもの。則ち、多数の様々な量子状態から構成される様々なhidden realitiesが、次々と波束の収縮を行って、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)をつくり出している。

昨年のノーベル物理学賞受賞者ペンローズ『The Road to Reality』には、更に複雑で難解な説明がある。数学的プラトニズム界、形而下界、精神界、これらが相互に「入れ子」になって、ミヒャエル・エンデ流にいえば「三匹の蛇が輪になって尻尾を噛み合っている」という様な説明。ネヴァー エンディング ストーリー。或る種の輪廻とも言えるか? Three worlds and three deep mysteries Roger Penrose でググれば関連記事多数。ここでは深入りしない。

現在の量子力学によるrealityの説明と、先程の「波束の収縮は観測行為に依存する」とを踏まえて教皇発言をより正確にするなら、「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する。その依存率はゼロにはならない。」となる。

(ではweak measurement(弱測定)はどうよ? これなら依存しない? というような意見が量子論専門家からは出てきそうだが、そういう議論はまた別の所で…。今は、ご勘弁を。)

更に言い換えると「objective reality(客観的現実)は(正確には)人間には捕捉不可能」となる。教皇の言う「realityを無菌室から眺(なが)める誘惑に陥ってはならない。そもそもそれは実行不可能(impossible)」に重なる。

あとは「objective reality(客観的現実)が捕捉不可能なとき、equality(公平、平等)は実現不可能、あるいは、たとえ実現したとしても「実現した」と確認することができない」と了解してもらえれば説明はほとんど完了。ここの部分、自然な論理。なので、詳しい説明はしない。

equality(公平)が実現できなくても、あるいは、実現できたと確認できなくとも、equity(衡平)を実現すること、あるいは、実現できたと当事者達が思うことは出来る。なぜなら、equity(衡平)とは、当事者達の「思い」あるいは価値観・倫理観で「つり合った」「平衡になった」と感じることだからだ。一般的に成り立たなくていい。当事者間だけで成り立てば十分。

…以上が、フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いた理由。まだ整理し切れていないかもしれない。ゴメンナサイ。ただ、equality and equity(公平と衡平)問題は、このブログの通奏低音の様なテーマなので、この後も何回も取り上げると思う。現段階では、整理はここまで。(^_^;)

(20210324追記):equalityは、厳密に言えば実現不可能であることを今回は説明した。しかしだからといって「equalityを追い求めるな」と言っているのではない。教皇がしばしば使う用語で言えば、the correct balance(共にrightなバランス)が大事だというのが今回の眼目。つまり、equalityとequityどちらかだけを求めるのでなく、それらのthe correct balance(共にrightなバランス)を保ちつつ、社会全体のsustanable and integral developmentを図るのが良いと思う。日本社会は、equalityばかり注目されているのが、私は気になる。同質社会であると自分達を理解(誤解?)してしまうと、どうしてもequality偏重になってしまうのだろうか…。

(20210327追記):神を愛し人を愛せ (マタイ22:34-40)。equalityもequityも大切に。忘れてはならないthe correct balanceだと思う。

(20210329追記):波束の収縮をコントロールすることにより、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)を変えていく力を、人間は持てるのか/既に持っているのか? この点に関心を持った方もいるかもしれない。祈ること、観想(contemplation、イエズス会では霊操(spiritual exercise)ともいう)の重要性、この話題もできたらまた別の機会に…。

(20210403追記):2008年に帰天された栁瀬睦男司祭と、もう叶わぬ事だけれど、もう一度心行くまで、物理談義・カトリック談義を出来たならば…とつくづく思う。師匠の域には及びませんが、この不肖の弟子、頑張りますので、天国から見守っていて下さい。(復活徹夜祭の日、64歳の誕生日)

clm.266:reality観 (the view of reality)

量子力学の教科書に、そのまま載せても何ら違和感のない記述を、フランシスコ教皇が書いた文章の中に見つけた。半訳しておく。

その記述は:
(原英文)The view of reality always depends on the gaze of the observer and the position in which it is placed.
(半訳)the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見)とに依存する
第五段落にある。

ちなみに第四段落には、inequality and inequity(不公平と不衡平)問題、という言葉も出てくる。「やっぱりね!」と思った次第。