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clm.291:Economy of Francesco 2021大会

フランシスコ教皇が主催するEof Global Eventが今年も開催された。Economy of Francesco 2021オンライン会議(10月2日)

ジェフリー・サックス(左)が四人の若手研究者のプレゼンを聞いた後にディスカション。斬新なアイデアが幾つも聞けて興味深い。

セッションの最後は、フランシスコ教皇からのビデオメッセージで締めくくられた。「おそらく皆さんが、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません」と教皇は青年達に語りかけた。

岸田首相は「新しい資本主義実現会議」を立ち上げると言っているが、こういった世界の動きを果たして知っているのだろうか。

20211021追記:フランシスコ教皇ビデオメッセージ英語版がVaticanからアップされた。上述部は5段落目:
 Today our Mother Earth is lamenting and warning us that we are approaching dangerous thresholds. You are perhaps the last generation that can save us: I am not exaggerating.  In the light of this emergency, your creativity and resilience imply a great responsibility. I hope you can use those gifts to correct the mistakes of the past and lead us towards a new economy that is more inclusive, sustainable and supportive.
  今日母なる地球は、私たちが危険な限界に近づいていることを嘆いています。そして私たちに警告を発しています。 おそらく皆さんは、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません。 この緊急事態に際し、皆さんの創造性と強靭性には重大な応答責任が課されています。 皆さんがこれらの賜物を使って、先達が冒した過去の過ちをcorrectし、より包摂的で持続可能で人々に支援を与えるa new economyに私たちを導いてくれることを、私は切に願っています。

clm.290:『サイエンス炎上』

Harvard UPから興味をそそる本が出ていることを見つけた。Science under Fire(サイエンス炎上)、Andrew Jewett著、2020年12月刊。買おうかどうか迷っている。とりあえず、descriptionを半訳しておく。


科学専門家や科学エリートに対する猜疑心をアメリカ人は長年にわたり持っている。即ち、科学がアメリカ文化を破壊する力を持っていると多くのアメリカ人が今も昔も感じている。理由は何か? 本書は新たな歴史観で説明する。

科学が権威を持つこと自体あり得ないと感じているアメリカ人は少なくない。保守派の多くは、気候変動とダーウィニズムをリベラルなフィクションであるとして却下し、”tenured radicals“(終身在職権を得た急進派の大学教授達)が保身のために科学や関連分野を取り込んでいるだけだと主張している。一方の進歩派、特に大学関係の進歩派には、科学を客観的中立的だと礼賛する者は、実はその人が持つヨーロッパ中心主義と家父長制価値観への愛着をただ覆い隠しているだけではないか、と懸念する意見もある。気候変動の含意と、バイオテクノロジーからロボット工学はたまたコンピューティングまでの分野における華々しい技術革新との対比を考察するためには、科学が持つ権威が、どのように機能するのか、今までどこで政治と文化の障壁に衝突してきたのか、理解することが極めて重要だ。

本書Science under Fire(サイエンス炎上)は、the United Statesにおいて科学がその文化にどの様な影響をもたらしたのかをめぐる論戦の模様を一世紀にわたって再構築する。そして著者Andrew Jewettは、或る批判の永続流が存在することを顕わにする。即ち、中立の覆いをまとった科学者達が誤った社会哲学をthe nationの血流に注入した、とする批判の永続流があることを明らかにする。この嫌疑は様々な形をとる。社会的、政治的、神学的見解の幅広い範囲に様々な批判となって現れてきた。しかしその全てに共通しているのは、或る種のイデオロギーに歩み寄った科学が一連の病的社会状況を生み出したという主張だ。 科学に関するこの様な嫌疑が、1920年代以降のアメリカの政治と文化の中に、様々な形をとりながらどの様に発展し爪痕を残したのか、Jewettはその航跡を追う。そして科学に関するこの様な嫌疑が、今も昔もアメリカの政治と文化における主要な力であることを示す。

科学をめぐる論争の現在の様相を見てJewettは、citizens and leadersがとるべき議論の方向を示す。即ち科学は、一方では純粋で価値中立的な知識形態だとする素朴なイメージがあり、他方では科学者達が主張する真実を装った単なるイデオロギーだとする見解があるが、その中間に議論の方向をとるべきだとJewettは考えている。

clm.289:科学はpeopleをつなぐ最良の言語

米国光学会(OSA)の機関誌(OPN)2021年9月号を読んでいて目にとまったのでメモしておく。

学会長、台湾出身のコンスタンス チャン-ハスナインの巻頭言。「私は常にこう考えています。科学はpeopleをつなぐ最良の言語、科学者は諸文化にかかる最良の橋だと」。左のアイコンをクリックすると全文を読める。

フランシスコ教皇の言葉づかいとソックリ。コンスタンス(節操)と言う名前からして彼女はカトリックのひとかもしれない。彼女はまた、OSAを米国に留めるのでなく国際学会OPTICAにしようと規約などの改訂を進めている。

この言葉を聞いて私は、日頃からの思い:「ポスト世俗(postsecular)の社会思想の基礎は、再びのsacred(聖)ではなく、形而上学(metaphysics)に歩みを進めたscience。」 これを強めた。

20211003追記:peopleの定義を、フランシスコ教皇はLet Us Dreamの第3章で詳細に述べている。その最初は:
   What does it mean, to be “a people”?   It is a thought category, a mythical concept, not in the sense of a fantasy or a fable but as a particular story that makes a universal truth tangible and visible. (79page, kindle No.1154)
   “a people”であるとはどういう意味でしょうか? それは思想の範疇に属します。或る種の神話的概念、しかしおとぎ話やファンタジーではなく一つの普遍的真実を、手に触れ目に見えるものにするために特別なstoryを描く者達です。
・・・教皇の博士論文の用語を使えば、「形而上界の知見を、形而下界で知覚する/しようとする者達」といえるだろう。

clm.288:a co-produced naive reality(共作素朴現実)

前コラム「amorphose cryatalline論争」は、科学と宗教にまたがる問題であり、やはり簡単には決着しないようだ。現時点での私の考えを「reality構成図 rev.3」にまとめてみたのでアップしておく。(ちなみに、前コラムのURLは、battle-over-amorphous-crystalline-is-still-going-on)

キーポイントは、宗教的hidden realitiesと科学的hidden realitiesとの双方から遷移(transition)が行われる中で、このa naive realityが作られているのではないか、としたこと。

すなわち、communion(霊的交わり)と波束の収縮(reduction of wave packet)の二種類の遷移によって、私達がその中にexistしているというdata(感覚与件)を受けとっているこのa naive reality、則ちこのa tangible and visible reality(触れること見ることができる一つの現実)が「共作」されているのではないか。

こうだとすると「存在の二様:beingとexistence」の図も修正する必要がでてくる。しかしそれは、「二様ある」と言う大筋に変更を加えるものではないので、もう少し考えてからにしたい。

reality構成図、(果てなく?)考察途中だが、アップしておく。科学者は、宗教者の直観を「検討の俎上」に必ず載せる。自分の特徴を忘れないようにしようと改めて思った。

20210925追記:reality構成図でのa naive realityの説明を、a partly crystalline and partly amorphous reality(部分的に結晶質で部分的に非晶質な或る一つの現実)と変更してrev3.1とした。

clm.287:amorphous crystalline論争は決着していると思うが…

amorphous crystalline論争は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)により決着していると私は思うが、保守派からの反発はまだ続くかもしれない。

例えば、保守派が勢力を持つ米カトリック司教団と米国聖公会が1999年に出した文書に、”The gift of communion from God is not an amorphous reality but an organic unity that requires a canonical form of expression”.(神からのcommunionの賜りはan amorphous realityではない。それはa canonical formで必ず表現されるan organic unityである。)とあったのをみつけた。

”amorphous reality” +”pope francis”でググると、フランシスコ教皇がan amorphous realityについて言及しているサイトを多数見つけることが出来るが、上記の様な「保守派からの反論」も多数見つかる。

この件に関しては科学的には一応の決着を迎えたと思うが、反論は常に歓迎される。

ただこの件(科学的な一応の決着)に関しては、今後は両意見の間で、教皇の言うdialogue with scienceが進むことを期待したい。つまり双方が、explicit specification of conceptualization(概念の明示的仕様)を提示し合う努力を続けるなかで、議論を進めていって欲しい。でないと、反証を提示することも反証を検証することもできず、科学の側面からは議論が先へ進まない。

私達がその中にexistしていると感じている、この a tangible and visible realityを含むrealityの全容の解明に、見果てぬ夢かと思いつつも希望を持ってchallengeする。宗教も科学もアプローチの仕方は違えどこの目的を共有している。お互いの方法を尊重し合って解明を進めたい。

20210922追記:私自身が科学者と宗教者の両側面を持つので推敲に時間がかかっている。このamorphous crystalline問題は科学と宗教にまたがっているので、ひょっとしたら、両側面同時決着は無い事柄なのかもしれない。また、むしろその方が議論が進むのかもしれない。つまり、宗教が科学に直感と希少体験談を提供し、科学が宗教に理論と実験結果を提供する。そういった形が上手く取れるとき、こういった問題に進展が見られ、Questが進むのかもしれない。・・・同じ悩みは、科学と宗教の両バックボーンを持つフランシスコ教皇も?…。

20210924追記:長くなるので別立てコラムにした。コラム288「a co-produced naive reality? (共作素朴現実?)」をご覧下さい。

clm.286:更新「reality構成図」「存在の二様:beingとexistence」(both rev.2)

an amorphous realityなど新たに得た知見を入れて、「reality構成図」「beingとexistence」の二つのパワポ図をrev.2に更新した。˜archivesの資料・グラフコーナーにもアップしておいた。

clm.285:いいも わるいも リモコン次第、敵にわたすな大事なリモコン

an amorphous realityとかけて何ととく? 鉄人28号ととく。その心は? 「いいも わるいも リモコン次第、敵にわたすな大事なリモコン」♫ 

フランシスコ教皇の言う
「自然の内側から観想することによって私達は、an amorphous realityをただ傍観して不当利用されるがままにするのでなく、そのprotagonists (主導者、主人公)となることができるのです。」(このパワポの4頁目)

・・・の意味は、大雑把に言うとこういうことかな。だとすると、リモコン=「自然の内側から観想する」ってことになるのかな。(^o^)

♫「あーるときは 正義の味方、あーるときは 悪魔の手先」。みんな、責任重大だー。(^_^;)

♫「鉄人!鉄人!どこへゆく」→「an amorphous reality! an amorphous reality!どこへゆく」

20210915早朝追記:鉄人28号は、金田正太郎君「ひとり」がリモコンでしっかりコントロールしていれば悪の手先になることはない。他方、私達がその中にexistしていると感じているこのan amorphous realityは、私達「全員」が、則ちeach and every oneが、内部者としてしっかりとcontemplate(観想)していないと、あらぬ方向へビューンと飛んでいってしまう。こんなことを早朝思いついた。(vigilance ←これもメモ書き。思いついたので忘れないように。)

200210917追記:an amorphous realityと鉄人28号は、「いいもわるいもコントロール次第」という点で似ているが、大きな違いもある。鉄人28号が、ビューンとどこかへ飛んでいってしまっても、私達には大した害は無い。しかし、an amorphous realityがあらぬ方向へビューンと飛んでいってしまうと、その中にexistしている(と感じている)内部者である私達としては大変困ることになる。もっとも、日経新聞夕刊に連載中のSF小説『ワンダーランド急行』の様に「私は私の世界に帰るのだ」なんてひとがもしいるならば、そのひとは別。そんな「外部者」がもしいるならば、その人は涼しい顔をしていられる。しかし恐らく(と言っても私には確かめようがないのだが)私達全員が「内部者」だから、私達全員が困ることになってしまう。鉄人28号はリモコン、つまり外部からコントロールできるが、an amorphous realityは、内部からコントロールするしか遣り様(やりよう)がないのだから。

clm.284:新たな社会経済システムを、どの倫理で制度設計するつもりなのか

フランシスコ教皇の思想が立脚するvirtue(徳と訳されることが多い)が、倫理(ethics、善悪に関する学術)の研究対象として取り上げられることが(日本ではそうでもないが)多くなってきている。その隆盛はいつ始まったのか。Google Ngramを使って調べてみた。結果「virtue ethicsの隆盛は20世紀終盤から始まった」ことが分かった。以下、メモしておく。

先ず三大倫理(virtue ethics, utilitarian ethics, deontological ethics)が西暦1500年から2019年までどの位取り上げられたかを調べた。このNgramから「倫理が学問の対象になったのは19世紀、則ち1800年代初頭から」と分かる。なお、deontological ethics(義務論倫理)は「嘘は絶対いけない」「盗みは絶対いけない」といった行為固定的規範を持つためか、18世紀カントの時代には人気があったがそれ以降は下火。追記で触れるまで割愛する。

19世紀はutilitarian ethics(効用主義倫理)が突然現れて人気急上昇になる。utilitarian ethicsが概念発明された直後だけ、あわてたようにvirtue ethicsが少しだけ取り上げられるがそれもすぐ終わってしまう。以降19世紀の間は「飛ぶ鳥を落とす勢い」でutilitarian ethicsが人気を上げていく。ちなみに、日本が幕府から天皇に政権を戻して「西洋に追いつき追い越せ」を開始したのは1868年 (Meiji Restoration、明治維新)。このNgramから分かるが、それは西洋がutilitarian ethics(効用主義倫理)を屋台骨にして社会構造作りを本格化させた頃。当然日本は「西洋といえばutilitarian ethics」と思ってしまった。本当は、西洋にとってutilitarian ethicsは「異常な倫理」「忌避すべき倫理」だったのかもしれないのに…。

さて、その様なutilitarian ethicsの「一人勝ち」人気は20世紀中盤まで続くが、20世紀終盤になるとvirtue ethicsが、社会変革根本要因の研究対象として突然現れて「桁違い」の急上昇カーブを描いていく。21世紀になった今も、その勢いは続いている。

このNgramを見ていると「何故日本には根本的社会変革が起きないのか」が分かる気がする。


20210910追記:上述で「20世紀終盤になるとvirtue ethicsが社会変革根本要因の研究対象として突然現れた」と書いたが、詳細に見ると少し違う。20世紀「中盤」にutilitarian ethics対抗馬として先に登場したのはvirtue ethicsではなくdeontological ethics (義務論倫理)だった。

「嘘は絶対いけない」「盗みは絶対いけない」といった行為固定的規範を持つこの「お堅い」義務論倫理(deontological ethics)は、「現世的、世俗的」倫理であるutilitarian ethicsを懲(こ)らしめる「懲戒師」の役割を担うべく先に登場したが、「形而上界」も考慮した倫理であるvirtue ethicsにその役目をすぐに譲っている。しかしながら21世紀現在deontological ethics (義務論倫理) の人気はまだ根強いものがあり、virtue ethicsには遙かに及ばないもののutilitarian ethicsに対しては上回っている。つまりdeontological ethics は、utilitarian ethicsをそれなりに懲らしめている。この辺りに「トランプ登場」「米カトリック保守化」(コラム265)など諸般の保守反動の要因があった/あるのかもしれない。

・・・とここまで書いてきて、私(齋藤)自身とても驚いているのだが、三大倫理のこの様な混乱に意外なことに「科学」が光明を差しいれたようだ。いやだけど驚くことはないか。フランシスコ教皇が言うように「科学も宗教も、realityをunderstandしようとする試み (challenge)」だから「倫理、すなわちrealityにおけるa human being, a human existence(コラム270)の真っ当な振る舞い方」の解明に繫がるのは、科学にとって自然なことなのかもしれない。マッ、とにかくまだ整理し切れていないが、メモしておく。

量子コンピュータ実証実験(コラム267)により「私達がその中にexistしていると感じているa naïve reality(一つの素朴現実)は、a crystalline realityではなくan amorphous realityである」(コラム283)という科学的知見が2019年10月には既に確定している。則ち、行為固定的規範を持つdeontological ethics (義務論倫理)の根本前提は既に崩れている。だから、この科学的知見が人々にキチンと広まれば、様々な「保守反動」の動きは阻止できるはず。つまり、deontological ethics (義務論倫理)を前提とした保守反動も、そしてworldly(現世的、世俗的)なutilitarian ethics(効用主義倫理)を前提とした保守反動も、どちらも阻止できるはず。従って、私を含めて科学者達あるいはconscientists(コラム261)からの、人々への活発な働きかけ(リテラシーづくり、シンパシーづくり)が、大袈裟でなく「人類文明の存続」にとって最大要諦なのだと、「こりゃー大変なことになってきたぞ」と思いながら、気づいた次第。 (^_^;) 

20210912追記:用語の定義にもよるので慎重な表現が必要だが、量子コンピュータ実証実験(コラム267)によって「ある種の形而上界が存在する」「その形而上界における知見の幾つかを、人間は入手可能」という二つの事柄が検証された(testified)と言える。

[Pope Francis, Austen Ivereigh]のLet Us Dream: The Path to a Better Future (English Edition)

20210912更に追記:左掲のフランシスコ教皇近著から、上記に関連する箇所を転記しておく。それは78頁:

Understanding how apparent contradictions could be resolved metaphysically, through discernment, was the topic of my thesis on Guardini, which I went to Germany to research.
   Francis, Pope. Let Us Dream: The Path to a Better Future

(訳補:形而下界における)見かけ上の矛盾が、形而上界において、即ちdiscernmentによって、どの様に解決されるのかunderstandする。これが、私がドイツに行って研究し執筆したグアルディーニ思想に関する博士論文のテーマでした。

なお和訳本による当該部の訳 (108頁)は不適切。それは「表出している矛盾を、識別を通して形而上学的に解決する方法を理解することを論文のテーマとしていた私は、研究のためにドイツまで赴きました。」 例えばこの様にdiscerrnmentを「識別」と和訳してしまうと、本来の意味「形而上界における知見を、形而下界から入手すること」が失われてしまう。

20210913追記:新たな社会経済システムを考察する上でとても重要なので、改めて「三大倫理のNgram、1800年~2019年」を載せておく。是非ともクリックしスクリーンを大きくして、特に、20世紀中盤から2019年までの三大倫理のつばぜり合いをジックリとご覧になり、新たな社会経済システムがどうなっていくのか、思いを馳せて頂きたい。

例えば1964年、第二ヴァチカン公会議が佳境を迎えた頃、日本でいえば東京オリンピックの年、圧倒的勢力を持っていたutilitarian ethicsに対抗しうる倫理としてvirtue ethicsではなくdeontological ethicsが想定されていただろう、ということが分かる。

現在のvirtue ethicsの隆盛を見ると「昔の人は何を考えていたんだ」と批判したくなるが、いやいや「未来は常に想定外」。私達も、新たな社会経済システムを考える上で、何が飛び込んでくるか分からない。心をopenにして考えたい。virtue ethicsよりも新しい倫理だってあるのかもしれないのだから…。

clm.283:amorphous reality, crystalline reality(非晶質現実、結晶質現実)

amorphous reality (非晶質現実)とcrystalline reality (結晶質現実)という、realityの性質や構造を論ずる上で重要な概念が、20世紀の初頭に作られたことを、Google Ngramを調べていて見つけた。メモしておく。

amorphous reality (非晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、非晶質である粘土や溶融ガラスの形や構造を造形家が自由に作り変えるように、作り変えることが出来る。(量子状態の波束の収縮は、観測者(subject、主体)の観測行為に依存する)

crystalline reality (結晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、結晶が自律的にその分子配列や原子配列を決めて形や構造が「結晶化」していくように、その変化はあらかじめ決まっている。(量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まる)

・・・という意味。ネットを調べると、論理学(数学)の専門家などがこの様に盛んに論じているのが分かる。

20210903追記:私達がいると感じているこのa naïve reality は、an amorphous reality なのか、それともa crystalline realityなのか? この問題は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)によって既に決着している。「an amorphous realityである」と。つまり、この形而下界社会構造をどのようにするのか、今のままutilitarian ethicsを続けるのかそれともvirtue ethicsを新たに導入するのか、私達自身が決めて動かない限り、待っていても変化は起こらない。

20210907追記:「私達はan amorphous realityを、ただ傍観して不当利用されるがままにしてはいけない。an amorphous realityのprotagonists (主導者、主人公)に私達はならなければいけない。」ということを、フランシスコ教皇は言っている。(このパワポの4頁目)

clm.282:日本語でも優れたreality解説本がある

reality解説本として既に、カルロ・ロヴェッリのReality Is Not What It Seemsと、ペンローズのThe Road To Realityとを紹介した(コラム257267)。

日本語でも優れた<現実>解説本があるのを見つけた。まだ読みかけだが、皆さんにも知ってもらいたいのでメモしておく。

〈現実〉とは何か ― 数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書)、西郷甲矢人 (著), 田口茂 (著) 2019年12月刊。

既に紹介した前二書が欧米の物理学者が書いたものであるのに対して、本書は日本人、圏論(数学)を専門とする西郷甲矢人(はやと)と、現象学(哲学)を専門とする田口茂の共著。〈現実〉という具合にカギ括弧でくくって、普通の日本語で言いう「現実」とは違うことを表している。英語で言う「無冠詞のreality」。

興味を引いた点のメモ書き:
本書は、集合論に「選択公理」という議論百出の公理があることを紹介している。「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」(wikipedia「選択公理」)というとても単純な「公理」。しかしひとたびこの公理を認めると、「球を適当に分割して、組み替えることで、元と同じ球を2つ作ることができる」(wikipedia「バナッハ=タルスキーのパラドックス」)となってしまうとのこと。私としては「この選択公理を量子論の「波束の収縮」に適用すると、hidden realitiesから、私達がいると感じているようなa naive realityが沢山できることになるのだろうか?」と、多世界解釈(many-worlds interpretation)を思い出してしまった。(^o^)