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clm.298:禁断、ケイサロパピズム

質問:国家権力が暴走したとき、これを止められなくなるのは四つの社会類型の内どれか。

ディアスポラ型はそもそも「国家」というものを排除している。イスラム型(単一宗教優位型)は国家よりも宗教が優位に置かれている。また、デュオスント型では拮抗する宗教がいざとなれば国家の暴走を止められる。だから、答え:ケイサロパピズム型、であることが分かる。

こう考えると、国家権力暴走の危険があるケイサロパピズ(皇帝教皇主義、caesaropapism)を「禁断」とすべきだ、という命題が導かれる。こう、ウクライナ情勢を見ていて思った。

以前この資料の5pageに述べたように、今から千五百年前、教皇ジェラシウスは東ローマ皇帝アナスタシウスに宛ててDuo Sunt書簡を送り、ケイサロパピズムを諫(いさ)めた。

いま、教皇フランシスコはプーチン露大統領に宛てて、現代版Duo Sunt書簡を書き送るべきではないだろうか。早朝、こう思いついたのでメモしておく。

20220228 追記:「宗教が暴走したとき止められなくなるのはどれか」と考えると、イスラム型とディアスポラ型は「危ない」ことが分かる。こう考えてくると、デュオスント型が一番安全なようだが、これももし、宗教も国家も暴走してしまったら止めようがない。(トランプ政権の米国?!)恐らく、「絶対的fail safe」は人間には実現不可能なのだろう。「地上の旅」を慎重の上にも慎重に進めたい、と私は思うが皆さんはどうだろうか。

20220228 更に追記:宗教と国家と科学とを三つ巴あるいは「三すくみ」にすれば、どれかの暴走に対して抑止力が働く「より安全な」社会構造が得られるような気がする。ただ、そういう精神構造をもった人間はとても少ない。・・・いちにもににも「人育て」が鍵だな…。(Tria Sunt

clm.295:国家税制と宗教税制の拮抗併存

economic substance doctrine ー 経済の本質を伴う営みには国家は課税しないという法理 ー は、両権社会(church and state, Duo Sunt)に特有な法理。これを確認するために:『2016年Kluwar出版社発行Comparative Tax Law, 2nd edition 4章9節 Religion and Religious Law(原英文はここ)』を半訳し精読した。確証を得るとともに他にも知見が得られたのでメモしておく。なお、「economic substance doctrineは、両権社会に特有な法理」の確認は、以下を読めば自然な論理展開となるので、ここには記さない。


「国家税制と宗教税制の拮抗併存」

世界中の国(country)は、国家倫理(state ethics)と宗教倫理(religious ethics)の包含関係の違いによって、四種類に分類できる。(承前。例えばここ)

即ち、ケイサロパピズム型 (国家倫理  宗教倫理); 単一宗教優位型 (国家倫理 ⊂ 宗教倫理、以下「イスラム型」と呼ぶ); デュオスント型 (包含関係なし、且つ、国家倫理 ∩ 宗教倫理 ≠ 空集合。両権社会とも呼ぶ); ディアスポラ型(宗教倫理のみ)の四種類。

この四種類の内、「国家税制と宗教税制の拮抗併存」が起きるのは、イスラム型とデュオスント型に限る。なぜならば:

「税」とは何なのか。それは、国家ではなく社会の維持・発展のためのresource (資源)。このことに注意したい。この「発展」の意味するところ、すなわち「社会が目指すべき方向」は、その社会がどの様な倫理を持つのかに依存する。だから当然、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会では、「税」を徴収する「徴税権」あるいは「税制」を、それぞれの倫理が持つことになる。

20220215 追記:確かに、上掲資料にある様な偽装宗教税問題という厄介ごとが増えるかもしれない。discernment(ホンモノかどうか識別すること)はとても難しい。しかし、もしそれがホンモノの倫理であるならば、倫理それぞれが、それぞれの「徴税権」「税制」を持つべきだ

そして、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会はデュオスント型とイスラム型だけ。結果、この二つの型の社会においてのみ国家税制と宗教税制の拮抗併存が起きる。

・・・さて、私達が生活する日本社会は、優位に置かれた国家倫理が宗教倫理を内包するケイサロパピズム型。カエサル(皇帝、国家首長)がポープ(教皇、宗教指導者)を選ぶ権限を持つタイプ。ウェーバーが名付けた社会類型であり、国家支配層がconceiveした宗教を持つ社会の多くがこれに分類される。国策宗教が不可抗力的に作られてしまう危険があり、徴税権は国家に属し宗教には属さない。

結果日本では、例えば、宗教者が「死刑反対」「自衛隊の海外派遣、反対」「原発反対」と主張しても、社会をその方向に持っていく実効力はほとんど無い。このことに「慣れ」た私達には、にわかには信じがたいかもしれないが、他のcountry(国)ー イスラム社会とデュオスント(両権社会)では、確かに宗教が社会を変えていく実効力を持つ。このことが、この資料を読むと良く分かる。

・・・この辺りに、フランシスコ教皇が最新刊『兄弟の皆さん』で、さかんにイスラムへの接近を図る要因があるのかもしれない。

20220212 訂正:上記全体で、「規範」と記載していたものを「倫理」に訂正した。具体的には、国家倫理はutilitarian ethics(効用主義倫理)であり、宗教倫理は、宗教を進歩派カトリックと想定すれば virtue ethics(徳倫理)であることは、当ブログ読者には明かだろう。コラム251で、「倫理が変われば経済も変わる」というようなことを述べたが、この考えの下に訂正を行った。

20220212 追記:日本政府の「新しい資本主義実現会議」も、もし本当に新しい経済を考えたいなら、まず先に「新たな倫理」についてconceiveする必要があるのではないだろうか。

clm.293:相続税・贈与税の廃止はeconomic substance doctrineの「当然の帰結」

2019年における相続税・贈与税の税収(出典:Inheritance Taxation in OECD Countries)

OECD38加盟国では、一般的に相続税が軽微または皆無(上図の左11ヶ国)。例えば米国では相続する遺産が約10億円以下であれば相続税はかからない。日本(上図右から4番目)は例外的に高い相続税の部類。(出典はここ, Exelイメージ)・・・ 昨年11月の国税庁税務大学校公開セミナーの渋谷雅弘氏講義『相続税・贈与税の動向と課題』でこう聞いてから、なんだかモヤモヤしている。一見、格差平準化や公財政充実に逆行している様で簡単には腑に落ちない。

ひょっとしたら、経済的実体法理(economic substance doctrine) ― 経済実体を持つ事業体にはcorporate income taxが課されないという法理。非国家経済であるpopular economyの発達を促す。オバマが2009年にcodifyした。 ― の「当然の帰結」なのかもしれない。まだ思いつきの段階。忘れないようにメモしておくことにした。

20220204追記:economic substance (経済的実体、経済の本質)とは、いったい何なのだろうか。今、現行経済システムではそれは、利益追求であり「社会における効用関数の総和の最大化」だが、かつて、即ち、産業革命が効用主義倫理(utilitarian ethics)を生み出して、economyの意味を一変させる前は、economic substance(経済の本質)の意味は今とは全く違っていた。それは:

the Greek oikos and nomos, from where we get the word “economics”: the art of household management.       — Francis, Pope. Let Us Dream (p.67).

即ち、オイコス(家)をノモス(切り盛り)すること、家庭経営、を意味していた。従って、親から子へ家庭経営を引き継ぐための遺産相続は、economic substance(経済の本質)の1丁目1番地。決して国家が、現行経済運営のために取り上げてはならない。こう、economic substance doctrineでは考えられる。以上、とりあえず、考えの道筋をザックリとまとめてみた。

神と人間との協働

コラム288「a co-produced naive reality」と似た考え方を見つけたのでメモしておく。

それは、神と人間との協働。一昨年フランシスコ教皇によって列聖されたジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)の信条を表すことば。

詳しくは、~ARCHIVESの資料・グラフにアップした記事を読んで頂きたいが、私なりに要約すると:

ニューマンが生きた19世紀西洋は、a secular age(世俗の時代)が次第に隆盛となっていく時期。salvation(救済)に必要なのは、①人間のthe world(この地上世界)における努力だとするペラギウス的考え方と、②人間は根本的に堕落しているので、神の恩寵に頼るしか道は残されていないというジャンセニズム的考え方との、二つがするどく対立しはじめた。

こうした中ニューマンは、独自の第三の考え方を開いた。つまり、③神の恩寵に信頼しつつも人間の自由意志で出来うる限りの努力を積み重ねることが重要だと考えた。神と人間との協働。

この考え方、コラム288「a co-produced naive reality」で示した考え方と似ている…。

分科会2021#5 (11月20日) 開催通知および配付資料

日時2021年11月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」  英語版の精読
9. Preparing the future together with Jesus who saves and heals

配付資料

clm.291:Economy of Francesco 2021大会

フランシスコ教皇が主催するEof Global Eventが今年も開催された。Economy of Francesco 2021オンライン会議(10月2日)

ジェフリー・サックス(左)が四人の若手研究者のプレゼンを聞いた後にディスカション。斬新なアイデアが幾つも聞けて興味深い。

セッションの最後は、フランシスコ教皇からのビデオメッセージで締めくくられた。「おそらく皆さんが、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません」と教皇は青年達に語りかけた。

岸田首相は「新しい資本主義実現会議」を立ち上げると言っているが、こういった世界の動きを果たして知っているのだろうか。

20211021追記:フランシスコ教皇ビデオメッセージ英語版がVaticanからアップされた。上述部は5段落目:
 Today our Mother Earth is lamenting and warning us that we are approaching dangerous thresholds. You are perhaps the last generation that can save us: I am not exaggerating.  In the light of this emergency, your creativity and resilience imply a great responsibility. I hope you can use those gifts to correct the mistakes of the past and lead us towards a new economy that is more inclusive, sustainable and supportive.
  今日母なる地球は、私たちが危険な限界に近づいていることを嘆いています。そして私たちに警告を発しています。 おそらく皆さんは、私たちを救うことのできる最後の世代です。大げさな話ではありません。 この緊急事態に際し、皆さんの創造性と強靭性には重大な応答責任が課されています。 皆さんがこれらの賜物を使って、先達が冒した過去の過ちをcorrectし、より包摂的で持続可能で人々に支援を与えるa new economyに私たちを導いてくれることを、私は切に願っています。

clm.290:『サイエンス炎上』

Harvard UPから興味をそそる本が出ていることを見つけた。Science under Fire(サイエンス炎上)、Andrew Jewett著、2020年12月刊。買おうかどうか迷っている。とりあえず、descriptionを半訳しておく。


科学専門家や科学エリートに対する猜疑心をアメリカ人は長年にわたり持っている。即ち、科学がアメリカ文化を破壊する力を持っていると多くのアメリカ人が今も昔も感じている。理由は何か? 本書は新たな歴史観で説明する。

科学が権威を持つこと自体あり得ないと感じているアメリカ人は少なくない。保守派の多くは、気候変動とダーウィニズムをリベラルなフィクションであるとして却下し、”tenured radicals“(終身在職権を得た急進派の大学教授達)が保身のために科学や関連分野を取り込んでいるだけだと主張している。一方の進歩派、特に大学関係の進歩派には、科学を客観的中立的だと礼賛する者は、実はその人が持つヨーロッパ中心主義と家父長制価値観への愛着をただ覆い隠しているだけではないか、と懸念する意見もある。気候変動の含意と、バイオテクノロジーからロボット工学はたまたコンピューティングまでの分野における華々しい技術革新との対比を考察するためには、科学が持つ権威が、どのように機能するのか、今までどこで政治と文化の障壁に衝突してきたのか、理解することが極めて重要だ。

本書Science under Fire(サイエンス炎上)は、the United Statesにおいて科学がその文化にどの様な影響をもたらしたのかをめぐる論戦の模様を一世紀にわたって再構築する。そして著者Andrew Jewettは、或る批判の永続流が存在することを顕わにする。即ち、中立の覆いをまとった科学者達が誤った社会哲学をthe nationの血流に注入した、とする批判の永続流があることを明らかにする。この嫌疑は様々な形をとる。社会的、政治的、神学的見解の幅広い範囲に様々な批判となって現れてきた。しかしその全てに共通しているのは、或る種のイデオロギーに歩み寄った科学が一連の病的社会状況を生み出したという主張だ。 科学に関するこの様な嫌疑が、1920年代以降のアメリカの政治と文化の中に、様々な形をとりながらどの様に発展し爪痕を残したのか、Jewettはその航跡を追う。そして科学に関するこの様な嫌疑が、今も昔もアメリカの政治と文化における主要な力であることを示す。

科学をめぐる論争の現在の様相を見てJewettは、citizens and leadersがとるべき議論の方向を示す。即ち科学は、一方では純粋で価値中立的な知識形態だとする素朴なイメージがあり、他方では科学者達が主張する真実を装った単なるイデオロギーだとする見解があるが、その中間に議論の方向をとるべきだとJewettは考えている。

clm.289:科学はpeopleをつなぐ最良の言語

米国光学会(OSA)の機関誌(OPN)2021年9月号を読んでいて目にとまったのでメモしておく。

学会長、台湾出身のコンスタンス チャン-ハスナインの巻頭言。「私は常にこう考えています。科学はpeopleをつなぐ最良の言語、科学者は諸文化にかかる最良の橋だと」。左のアイコンをクリックすると全文を読める。

フランシスコ教皇の言葉づかいとソックリ。コンスタンス(節操)と言う名前からして彼女はカトリックのひとかもしれない。彼女はまた、OSAを米国に留めるのでなく国際学会OPTICAにしようと規約などの改訂を進めている。

この言葉を聞いて私は、日頃からの思い:「ポスト世俗(postsecular)の社会思想の基礎は、再びのsacred(聖)ではなく、形而上学(metaphysics)に歩みを進めたscience。」 これを強めた。

20211003追記:peopleの定義を、フランシスコ教皇はLet Us Dreamの第3章で詳細に述べている。その最初は:
   What does it mean, to be “a people”?   It is a thought category, a mythical concept, not in the sense of a fantasy or a fable but as a particular story that makes a universal truth tangible and visible. (79page, kindle No.1154)
   “a people”であるとはどういう意味でしょうか? それは思想の範疇に属します。或る種の神話的概念、しかしおとぎ話やファンタジーではなく一つの普遍的真実を、手に触れ目に見えるものにするために特別なstoryを描く者達です。
・・・教皇の博士論文の用語を使えば、「形而上界の知見を、形而下界で知覚する/しようとする者達」といえるだろう。