日時 | 2022年7月16日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | dreams for system change, IV WMPM 教皇メッセージ後半 |
配付資料
日時 | 2022年7月16日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | dreams for system change, IV WMPM 教皇メッセージ後半 |
配付資料
日時 | 2022年5月21日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | system change |
配付資料
日時 | 2022年3月19日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | peopleとは何か |
配付資料
質問:国家権力が暴走したとき、これを止められなくなるのは四つの社会類型の内どれか。
ディアスポラ型はそもそも「国家」というものを排除している。イスラム型(単一宗教優位型)は国家よりも宗教が優位に置かれている。また、デュオスント型では拮抗する宗教がいざとなれば国家の暴走を止められる。だから、答え:ケイサロパピズム型、であることが分かる。
こう考えると、国家権力暴走の危険があるケイサロパピズ(皇帝教皇主義、caesaropapism)を「禁断」とすべきだ、という命題が導かれる。こう、ウクライナ情勢を見ていて思った。
以前この資料の5pageに述べたように、今から千五百年前、教皇ジェラシウスは東ローマ皇帝アナスタシウスに宛ててDuo Sunt書簡を送り、ケイサロパピズムを諫(いさ)めた。
いま、教皇フランシスコはプーチン露大統領に宛てて、現代版Duo Sunt書簡を書き送るべきではないだろうか。早朝、こう思いついたのでメモしておく。
20220228 追記:「宗教が暴走したとき止められなくなるのはどれか」と考えると、イスラム型とディアスポラ型は「危ない」ことが分かる。こう考えてくると、デュオスント型が一番安全なようだが、これももし、宗教も国家も暴走してしまったら止めようがない。(トランプ政権の米国?!)恐らく、「絶対的fail safe」は人間には実現不可能なのだろう。「地上の旅」を慎重の上にも慎重に進めたい、と私は思うが皆さんはどうだろうか。
20220228 更に追記:宗教と国家と科学とを三つ巴あるいは「三すくみ」にすれば、どれかの暴走に対して抑止力が働く「より安全な」社会構造が得られるような気がする。ただ、そういう精神構造をもった人間はとても少ない。・・・いちにもににも「人育て」が鍵だな…。(Tria Sunt)
economic substance doctrine ー 経済の本質を伴う営みには国家は課税しないという法理 ー は、両権社会(church and state, Duo Sunt)に特有な法理。これを確認するために:『2016年Kluwar出版社発行Comparative Tax Law, 2nd edition 4章9節 Religion and Religious Law(原英文はここ)』を半訳し精読した。確証を得るとともに他にも知見が得られたのでメモしておく。なお、「economic substance doctrineは、両権社会に特有な法理」の確認は、以下を読めば自然な論理展開となるので、ここには記さない。
「国家税制と宗教税制の拮抗併存」
世界中の国(country)は、国家倫理(state ethics)と宗教倫理(religious ethics)の包含関係の違いによって、四種類に分類できる。(承前。例えばここ)。
即ち、ケイサロパピズム型 (国家倫理 ⊃ 宗教倫理); 単一宗教優位型 (国家倫理 ⊂ 宗教倫理、以下「イスラム型」と呼ぶ); デュオスント型 (包含関係なし、且つ、国家倫理 ∩ 宗教倫理 ≠ 空集合。両権社会とも呼ぶ); ディアスポラ型(宗教倫理のみ)の四種類。
この四種類の内、「国家税制と宗教税制の拮抗併存」が起きるのは、イスラム型とデュオスント型に限る。なぜならば:
「税」とは何なのか。それは、国家ではなく社会の維持・発展のためのresource (資源)。このことに注意したい。この「発展」の意味するところ、すなわち「社会が目指すべき方向」は、その社会がどの様な倫理を持つのかに依存する。だから当然、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会では、「税」を徴収する「徴税権」あるいは「税制」を、それぞれの倫理が持つことになる。
20220215 追記:確かに、上掲資料にある様な偽装宗教税問題という厄介ごとが増えるかもしれない。discernment(ホンモノかどうか識別すること)はとても難しい。しかし、もしそれがホンモノの倫理であるならば、倫理それぞれが、それぞれの「徴税権」「税制」を持つべきだ。
そして、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会はデュオスント型とイスラム型だけ。結果、この二つの型の社会においてのみ国家税制と宗教税制の拮抗併存が起きる。
・・・さて、私達が生活する日本社会は、優位に置かれた国家倫理が宗教倫理を内包するケイサロパピズム型。カエサル(皇帝、国家首長)がポープ(教皇、宗教指導者)を選ぶ権限を持つタイプ。ウェーバーが名付けた社会類型であり、国家支配層がconceiveした宗教を持つ社会の多くがこれに分類される。国策宗教が不可抗力的に作られてしまう危険があり、徴税権は国家に属し宗教には属さない。
結果日本では、例えば、宗教者が「死刑反対」「自衛隊の海外派遣、反対」「原発反対」と主張しても、社会をその方向に持っていく実効力はほとんど無い。このことに「慣れ」た私達には、にわかには信じがたいかもしれないが、他のcountry(国)ー イスラム社会とデュオスント(両権社会)では、確かに宗教が社会を変えていく実効力を持つ。このことが、この資料を読むと良く分かる。
・・・この辺りに、フランシスコ教皇が最新刊『兄弟の皆さん』で、さかんにイスラムへの接近を図る要因があるのかもしれない。
20220212 訂正:上記全体で、「規範」と記載していたものを「倫理」に訂正した。具体的には、国家倫理はutilitarian ethics(効用主義倫理)であり、宗教倫理は、宗教を進歩派カトリックと想定すれば virtue ethics(徳倫理)であることは、当ブログ読者には明かだろう。コラム251で、「倫理が変われば経済も変わる」というようなことを述べたが、この考えの下に訂正を行った。
20220212 追記:日本政府の「新しい資本主義実現会議」も、もし本当に新しい経済を考えたいなら、まず先に「新たな倫理」についてconceiveする必要があるのではないだろうか。
OECD38加盟国では、一般的に相続税が軽微または皆無(上図の左11ヶ国)。例えば米国では相続する遺産が約10億円以下であれば相続税はかからない。日本(上図右から4番目)は例外的に高い相続税の部類。(出典はここ, Exelイメージ)・・・ 昨年11月の国税庁税務大学校公開セミナーの渋谷雅弘氏講義『相続税・贈与税の動向と課題』でこう聞いてから、なんだかモヤモヤしている。一見、格差平準化や公財政充実に逆行している様で簡単には腑に落ちない。
ひょっとしたら、経済的実体法理(economic substance doctrine) ― 経済実体を持つ事業体にはcorporate income taxが課されないという法理。非国家経済であるpopular economyの発達を促す。オバマが2009年にcodifyした。 ― の「当然の帰結」なのかもしれない。まだ思いつきの段階。忘れないようにメモしておくことにした。
20220204追記:economic substance (経済的実体、経済の本質)とは、いったい何なのだろうか。今、現行経済システムではそれは、利益追求であり「社会における効用関数の総和の最大化」だが、かつて、即ち、産業革命が効用主義倫理(utilitarian ethics)を生み出して、economyの意味を一変させる前は、economic substance(経済の本質)の意味は今とは全く違っていた。それは:
the Greek oikos and nomos, from where we get the word “economics”: the art of household management. — Francis, Pope. Let Us Dream (p.67).
即ち、オイコス(家)をノモス(切り盛り)すること、家庭経営、を意味していた。従って、親から子へ家庭経営を引き継ぐための遺産相続は、economic substance(経済の本質)の1丁目1番地。決して国家が、現行経済運営のために取り上げてはならない。こう、economic substance doctrineでは考えられる。以上、とりあえず、考えの道筋をザックリとまとめてみた。
今年の分科会も、恐らくオンライン勉強会になります。(ZOOMを予定) 参加される方は事前に私まで連絡ください。追ってURLをお知らせします。
コラム288「a co-produced naive reality」と似た考え方を見つけたのでメモしておく。
それは、神と人間との協働。一昨年フランシスコ教皇によって列聖されたジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)の信条を表すことば。
詳しくは、~ARCHIVESの資料・グラフにアップした記事を読んで頂きたいが、私なりに要約すると:
ニューマンが生きた19世紀西洋は、a secular age(世俗の時代)が次第に隆盛となっていく時期。salvation(救済)に必要なのは、①人間のthe world(この地上世界)における努力だとするペラギウス的考え方と、②人間は根本的に堕落しているので、神の恩寵に頼るしか道は残されていないというジャンセニズム的考え方との、二つがするどく対立しはじめた。
こうした中ニューマンは、独自の第三の考え方を開いた。つまり、③神の恩寵に信頼しつつも人間の自由意志で出来うる限りの努力を積み重ねることが重要だと考えた。神と人間との協働。
この考え方、コラム288「a co-produced naive reality」で示した考え方と似ている…。
日時 | 2021年11月20日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | 教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」 英語版の精読 9. Preparing the future together with Jesus who saves and heals |
配付資料
THE ECONOMY OF FRANCESCO(EoF)第二回大会(2021.10.02)教皇メッセージを半訳した。危機感迫るメッセージ。お読み下さい。