clm.310:霊的資本(spiritual capital)は、近代資本主義揺籃期、最重要資本だった。そして今再び最重要に…。
spiritual capital(霊的資本)という日本人には耳慣れない用語が、来月の分科会用に私が用意した教皇メッセージ対訳資料4頁目に出てきた。調べてみた。メモしておく。
1st finding:近代資本主義揺籃期、霊的資本(spiritual capital)は最重要資本だったのかもしれない。
近代資本主義(modern capitalism)という用語の初出をGoogle Ngramで調べると、1797年、18世紀最終盤であることが分かる。つまり19世紀の百年間が近代資本主義揺籃期。この百年間、1800年から1900年の間、文献が各種資本を引用する頻度を調べてみる(下図)と、霊的資本(spiritual capital)が金融資本(financial capital)を抑えて最頻で言及されていたことが分かる。なお、期間を1900年から2019年にして調べると、21世紀現在の最頻引用資本は金融資本だが、霊的資本も二番目の頻度で言及されていることが分かる。また近年は、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本も生まれ、それらを含めて調べるとこの二種類の資本が現在では最重要視されているが、それでも霊的資本は金融資本の次の頻度、即ち頻度四位で言及されていることが分かる。
1900年から2019年の間、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本と金融資本(financial capital)を除いて調べてみると、21世紀に入って霊的資本の引用頻度が急激に上がっていることが分かる。その理由は以下の様に推察されている。
2nd finding:Spiritual capital has come to prominence in recent years due to the combination of three related trends: the failure of secularization/modernization theories to account for reality; a rise in religiosity globally; and, the lack of ethics and virtue evidenced in the financial crisis and an ongoing plague of corporate scandals.
(出典:左掲書籍第24章論文「Spiritual Capital」Abstract)
半訳:霊的資本(spiritual capital)は近年、関連する次の三つの傾向が組み合わさったために、卓越して注目を集めるようになっている。 「世俗化理論または近代化理論ではrealityを説明しきれなくなった」「世界的な宗教性の興隆」「金融危機、および現在も続いている複数のcorporate不祥事で証明される、ethics(倫理)とvirtue(美徳)の欠如」。
3rd finding:霊的資本(spiritual capital)の現在での定義の例。
The notion of “spiritual capital” has been the subject of growing interest in recent years; however, the concept remains poorly defined. Based on a review of the academic literature and on interviews and focus groups conducted with leaders and volunteers of over fifteen NGOs and community groups in Hong Kong, Macau and Taiwan, this paper proposes a preliminary conceptual framework for understanding, generating and applying spiritual capital. We discuss the problematic aspects of the concept and its potential for offering a critical, engaged perspective on the social relations of capital and identifying the means for transforming them through the application of spiritual motivations and values. We define spiritual capital as “the individual and collective capacities generated through affirming and nurturing people as having intrinsic spiritual value”. In contrast to some other definitions and theorizations of spiritual capital, this conceptual framework stresses (1) that spiritual capital is an autonomous form of value which is not merely a subset of social, cultural or religious capital; (2) that spiritual capital is based on the affirmation of intrinsic value and, as such, offers a critical perspective on instrumental concepts of capital and its conversion; (3) that spiritual capital generates and transforms social and material relations. Spiritual capital is generated through the affirmation and nurturing of each human being as having intrinsic, infinite spiritual value. When this affirmation and nurturing are built into the organizational culture of a third sector organization, it enhances individual and group capacity to pursue intrinsic goals and serve the common good.
(出典:Clarifying the Concept of Spiritual Capital – Abstract, David Alexander Palmer)
半訳:「霊的資本」概念は近年、日増しに関心を集める対象であり続けている。しかしながら、この概念は未だにほとんど定義づけられていない。本論文では、香港、マカオ、台湾の15団体以上のNGOsとcommunity groupsの、leaders and volunteersが集まって2013年7月に開催された「宗教に関する社会科学研究会議」での集中討議、および諸インタビューと学術文献に基づいて、霊的資本の適用・生成・理解のための予備概念的枠組みを提案する。ここにおいて私達は、この概念の未だ問題含みの側面と、各種資本を社会的に関係づける上で不可欠な実視野を提供する潜在力とを考察し、霊的価値観と諸々の霊的動機を実際に適用する際に用いられる、霊的資本変革方法を同定した。私達は霊的資本を「peopleを、本質的に固有な霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出されるthe individual and collective capacities(個人的・集団的潜在能力)」と定義する。他にも色々ある霊的資本の定義づけ・理論づけと異なり、この概念枠組みは以下の点を強調する。『(1)霊的資本は或る一つの自律的形態を持つ価値であって、他の社会資本・文化資本・宗教資本の単なる部分集合ではない。(2)霊的資本は、本質的に固有な価値の肯定に基づくものであって、そうであるからこそ、諸々の資本概念が有する器機性とその収束に関してとても重要な視野を提供する。(3)霊的資本は、社会と物財との諸関係を創出・変革する。』 霊的資本は、each human beingを、本質的に固有で無限の霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出される。例えばこのような肯定・養成が、或る第三セクター有機組織の、有機組織的文化の中に構築されるならば、本質的に固有なゴールの追求と共通善への奉仕に関する、個人的団体的潜在能力は強化される。
ズッキーニになろうとしたキュウリ
分科会2023#4 (9月16日) 開催通知および配付資料
日時 | 2023年9月16日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | “フランチェスコの経済 – 今問われているのは、人殺しの経済を生命の経済に、全ての面において変革すること” |
配付資料
夏薔薇、珍しい
今朝の収穫野菜顔
アンネの薔薇と煙突
今日の収穫 20230706
もうちょっと待とう
clm.309:実数とは、確率100%で起こる波束の収縮によって認識される概念なのかもしれない!?
更にコラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。
前回コラム308では、実数 x の量子状態ベクトル |x>は、その実数関連部分を抽出して、複素平面上で半径をxとする円( つまり xeiθ )として表すことが出来るのでは、と考えた。
勿論、量子の全貌は、少なくとも今の人間の力ではconceive出来ない。だから、実数 x の量子状態ベクトル |x>を xeiθとして捉えてみるというのは、「便宜上の表式」あるいは「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分に限った話」だ。
けれどもこの「便宜上の表式」は、標題に記したようなチョット面白いことを想起させる。どういうことかというと…。
いま、 |x>に左から演算すると実数 x を返す実数演算子Xというものを定義してみる。即ち
X |x> = x |x>
である。さらに量子論の公理系から、
X |x> = Σ k番目の固有値・k番目の固有ベクトル
と、X によって |x>がスペクトル分解できることが分かる。
スペクトル分解の上式を、先程の「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分は xeiθと置くことができる」というのと並べて見比べてみる。すると、|x> はXを演算されることによって一つだけの固有値 x と一つだけの固有ベクトルeiθ を持つ、ということが浮かび上がってくる。式で表せば、
X |x> = xeiθ
ということ。
ここまで「そうだ」と思ってくれれば、あとは、Bornの確率規則により、
|x>が固有値 xに向かって「波束の収縮」を起こす確率
= || 対応する固有ベクトル ||2
= (e-iθeiθの平方根 )2
= 1
以上により、「実数 x の量子状態ベクトル|x>が、実数 として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収縮を起こすとき、確率100%で、実数 x が現れる。」と想定できる。
もしこれが本当なら、「実数x の、ヒルベルト空間におけるsubstance(実体、本体、本質)は、量子状態ベクトル |x>、あるいはその実数関連部分を抽出して xeiθである」ということが、「人間には杳(よう)として知れぬ」というのが、当然のこととなる。
つまりこれは「本当かどうか証明できない」。また、それ以前に「こんなこと思いつきもしない。疑問が湧かないから、証明する必要も無い」。
量子論のことばで説明すると、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を複数もつ量子が背後にあるならば、複数回の観測をするとその可観測量の値(あたい)がばらつき、「測定精度が悪いのか、それとももっと根本的な問題か???」と疑問が湧く。けれども、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を一つしか持たない量子が背後にあるときは、何度観測してもその可観測量の値(あたい)が(測定精度が悪くないのであれば)一つの確定値となり、「何か見落としているのかな?」という疑問が湧いてこない。
今の場合でいうと、実数で表現されるa naive realityにいる人間(a human existence)が、或る実数 x を「想起」しようとすると、その実数 x の起源である実数量子が実数 x に対し固有ベクトルと固有値の組を「eiθと x 」という具合に一つしか持たないので、何度「想起」してもその実数の値が常に一つの確定値 x に「波束の収縮」をする。「背後があるかも」なんて思いもしない。疑問の余地が無い。
恐らく本当。でも、受け入れるなら「公理」として受け入れるしかない、のだろう…。きっと…。