clm.308:量子の世界 (ヒルベルト空間)では、3+4は7ではなく1から7で変化する!?

コラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。

今回の要点:全てが実数で表されるa naive realityにいる私達が認識する実数 c の、一つ外側の高次空間においてbeingするその実体は、一次元ヒルベルト空間内の一成分複素ベクトル |c>、つまり、複素平面上の円をなす複素数集合 x + iy, (ただしx2 + y2 = c2 )ではないのか。

図をジックリとご覧頂ければイメージが掴めると思う。

更に言えば、私達がa naive realityにおいて認識する実数 c は、波束 |c> が実軸上にreduction of wave packet(波束の収縮)をしたものではないのか…。

・・・昨日コロナワクチン第6回目を受けて身体の節々が少し痛い。今はこれ以上考えがまとまらない。続きは後日。

20230611追記:これに似た考えは、須藤靖著『解析力学・量子論 第二版』207頁にもある。

20230627追記:position operator(位置演算子)の記事も参考になる。

clm.307:自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか

Not only natural numbers but all real numbers are squared beings in another universe? 

去年4月に、NHK「数学者は宇宙をつなげるか ー abc予想証明をめぐる数奇な物語」で左図を見た。それは「私達の宇宙では、…3,4,5,6…の様にexistしている自然数は、別の宇宙では、…9,16,25,36…の様に二乗値としてbeingしているのではないか」という問題提起。以来、私の頭から離れないのは「いや、そういった宇宙Bでは、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」ということ。一年間以上頭から離れないので現時点でメモを残すことにした。・・・

・・・コラム255「量子論の公理系」で紹介したように、量子は、ヒルベルト空間内の複素ベクトルとして表される。ヒルベルト空間とは、{1} 内積が定義される、{2} 完備な、{3} 複素ベクトル空間のこと。ヒルベルト空間の元(element)は、x+iyの様に実数部と虚数部  (iは虚数単位、i2=-1) を持つ複素数で表される成分を持つ複素ベクトル。ヒルベルト空間には「実数で全容が表される存在」は無い。例えば長さ30.5センチ重さ56.9グラムのように全て実数で表されるa naive realityにいる私達には、「量子」の全貌を捉えることはできない。

しかし、ヒルベルト空間内の複素ベクトル  |φ>は、その大きさ || |φ>||が、以下の様に正の実数値として定義できる。またここでは詳しくは陳べないが、大きさ || |φ>||から導出される量は、公理3「Bornの確率規則」によって、測定値 akが得られる確率として実際に観測することが可能だ。

(厳密に言うと、量子を表す複素ベクトルを顕(あら)わに数式で表すことは出来ない。一般的には、さまざまな複素関数を使って「波動関数」をつくり出し「量子の表式」として使うことが多いが、その様な「波動関数」は「量子」の全貌を捉えたものではない。a naive realityにいる私達には「量子」の全貌を捉えることはできない。以下の表式も、あくまで便宜的なものだ。)

|φ>の成分を x1+iy1, x2+iy2, ・・・xn + iyn   として
自分自身との内積 = <φ|φ> = (x1-iy1)(x1+iy1)+(x2-iy2)(x2+iy2)+・・・+(xn – iyn)(xn + iyn)
                                               = x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 
大きさ = <φ|φ> の平方根 = (x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 ) の平方根

ここでは、複素数 x+iy にその共役複素数 x-iyを掛け算し、(x-iy)(x+iy) = x2 – i2y2 = x2 + y2 と、正の実数値となる点に注意したい。

つまりここが肝腎なところだが、「実数で全容が表される存在」が無いヒルベルト空間に、複素ベクトルの「大きさ」という正の実数値で表せる量を、a naive realityにいる私達は見いだすことが出来る。

私達がいると感じているa naive realityの、一つ外側の高次空間であるヒルベルト空間には、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか、と考える所以。

分科会2023#2 (5月20日) 開催通知および配付資料

日時2023年5月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ“フランチェスコの経済 – young people, a commitment, the future”

配付資料

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clm.306:ペルソナ、ペルソナ状態(person, personhood)概念形成外史

教皇フランシスコの思想はthe peopleの神学[SJ Scannone, Juan Carlos]のTheology of the People: The Pastoral and Theological Roots of Pope Francis (English Edition)と表される。この神学の内容は、詳しくは左掲書を参照されたいが、端的に言えば「the peopleがsovereigntyを持つ」というもの。

通常の英文和訳では、peopleは国民と、sovereigntyは主権と、和訳されてしまう。従って、しばしば耳にする「国民主権」のことかな、と勘違いする日本人は多いかもしれないが、否、それは大間違い、という話から始める。

sovereigntyについては、2018年分科会#2で説明した。以来5年経つので補足する。sovereignty(主権)とは、形而上概念と形而下概念とをdiscern(識別)するcapacity。例えば、freedomとliberty、rightとjust、obligationとduty、lawとlegal、sinとguilty、covenantとcontract、benefitとprofit、beingとexistence、等をdiscernする為にhuman beingsが本来持つ能力を意味する。今の日本語ではこれら術語は、自由、正、義務、法、罪、契約、益、存在、と一つの訳語に納まってしまう。言葉としても意味としてもdiscernできない。この様に語彙が足りない日本語では、sovereigntyが何を意味しているのか、説明するのは難しい。

また「peopleとは何か」については、2022年分科会#1において、教皇自身による解説を半訳しておいた。「a peopleとは、経験と希望を分かち合い、一つの共通の神意(a common destiny)からの呼びかけに耳を澄ますものです。」「the people has a soul.」「a peopleとは、高次統合原則の共有により結実するrealityを生きていく、一つの生命体(a living) 」などが印象的だった。

しかしまだ、「the peopleがsovereigntyを持つ」で教皇が何を言いたいのか、私達日本人には判然としない。なぜだろうか…。おそらくそれは、peopleの語源であるpersonの意味を私達日本人がキチンと掴めていないからだ。

personは通常の日本語訳では、「ひと」あるいは「人間」となってしまう。しかしそう意味薄弱な言葉でないことは、分科会2020#1で山本芳久著『トマス・アクィナスにおけるペルソナの存在論』の解説を引用して説明した。personはペルソナと訳すべきだ。

神学議論を嫌う人向けには、例えば英語版WikipediaのPersonを見てもらえば、一般欧米人が持つ英語personの意味深長さが伝わってくる。Wikipedia創設2年後の2003年から、20年以上、世界中の73言語で活発な議論が交わされているスレッド。例えば、

In ancient Rome, the word persona (Latin) or prosopon (πρόσωπον; Ancient Greek) originally referred to the masks worn by actors on stage. The various masks represented the various “personae” in the stage play.[12] The concept of person was further developed during the Trinitarian and Christological debates of the 4th and 5th centuries in contrast to the word nature.[13] 

半訳: 古代ローマ帝国において、羅語persona、あるいは古代ギリシャ語prosopon (πρόσωπον)は元々、舞台俳優達がつける顔マスクを意味していた。即ち様々な顔マスクで、劇中現れる様々な”personae” を表現していた。四世紀五世紀の三位一体論とキリスト論の議論の中で、person概念は、この言葉が本来持つ性質と著しく異なった更なる展開を見せた。

・・・と、キリスト教の、特に、三位一体論(Trinitarianism)に関する、西暦325年のニカイア宗教会議以来続いている議論展開と、ペルソナ(person)は関係が深いことが分かる。

ここで注意しなければならないのは、キリスト教発展の歴史が持つ、他の宗教にはあまり見られない特異性。clm.296:困惑! 国税庁発行「宗教法人の税務」で説明したように、支配層でなく奴隷層が主導したキリスト教発展には、国家支配者や神学者が正式に記した「正史」と、被支配者である民間あるいは平信徒達が公然の秘密として語り継ぐhidden secretsである「外史」とがある。

personは、キリスト教「正史」としては、三位一体論において父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(Holy Spirit)が持つ位格(ペルソナ)とされている。その一方、キリスト教「外史」としては、「ローマ皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗することによって」(イエズス会司祭のN.P.タナー著『教会会議の歴史 ニカイア会議から第二バチカン公会議まで』28頁)、開催を主導したニカイア宗教会議(西暦325年)において、それまでローマ帝国の禁教であったキリスト教を「国教」として正式に認める見返りに、父と子と同格のペルソナを、聖霊に持たせることを要求した、ということが「外史」として語り継がれている。

即ち外史的には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、自身の支配力の裏打ちとして、キリスト教の洗礼を受けることによって得られる聖霊(Holy Spirit)が、父と子と同格のペルソナを持つと、キリスト教に教義拡張を迫った、と考えられている。

つまり古代ローマ皇帝コンスタンティヌスは、ペルソナを持つことにより神のrighteousnessを体現できるとしたかった。所謂、神寵帝理念。類似のことは、ヨーロッパ中世に頻繁に起こった。16世紀末から17世紀初頭にイングランドで起きた王権神授説(divine right of kings)は、その典型例。

前置きが長くなった。ここからが本コラムの本題であるpersonhood(ペルソナ状態:the status of being a person。これは、違憲(unconstitutional)と違憲状態(unconstitutional state)の違いよりも、扱うのが厄介かもしれない。というか、personよりも更に意識的に意味曖昧なまま使われている言葉だろう。なので、以下に、personhoodという概念の発生経緯、更に、大きく取り上げられることになった局面幾つかをGoogle Ngramを使って探していく。これらヒントから、personhood(ペルソナ状態)という言葉のニュアンスを掴んで頂きたい。

ご覧の様に、personhoodという言葉は1774年、つまり、1775年に始まる米独立戦争の前年、1789年のフランス革命の15年前に、初めて造語された。更に、1774年に「何の」ペルソナ状態を主張したいがためにpersonhood概念が発明されたのかをNgramを使って調べると:

human personhood、即ち、支配者でも貴族でもない普通の人間(human)がペルソナ状態であることを主張するために造語されたことが分かる。平民が、貴族や支配者から権力を奪う。米国が英国王による支配から独立する。フランスがフランス国王による支配から脱する。このことの正当性が裏打ちされた。

しかし、敵もさるもの引っ掻くもの。ただでは引き下がらない。その後、personhoodという言葉が現れるのは:

1786年、イギリス国王の支配から独立した米国という「元植民地」を実効支配する事業組織体corporate、特にイギリス国王の勅令状を得たchartered corporateが、ペルソナ状態であることを主張するために、corporate personhoodという言葉がつくられた。国王による支配は終わったが、その手先であるcorporateによる支配の正当性が認められてしまった。

corporate personhood概念は、20世紀になった1980年代に再び取り上げられた。これは当時米国で「LLCはentityなのかaggregateなのか」つまり「LLCはpersonhoodを持ちcorporate income taxが課されるべきなのか」が議論された際、改めてcorporate personhoodとは何だったのかが議論されたためだ。

その後21世紀にかけて、ますますcorporate personhood概念は取り上げられるようになったが、これは、分科会2023年#1の資料の訳註で陳べたように、corporate personhoodに疑問符をつける潮流が勢いを増していったからだ。

human personhood概念が1970年代後半から1980年代前半に、特異的に取り上げられている。これについてはWikipedia英語版の「Beginning of human personhood]を読んで頂いて、皆さんの方で「何故か」を考えていただきたい。

6月のQuantum 2.0に、アスペとクラウザーがキーノート予定。

速報! 今年6月、二年ぶりで開催されるQuantum 2.0学会に、アスペとクラウザーがKeynote speakerとして登壇する。去年秋、彼らがノーベル物理学賞を受賞したことは記憶に新しい。

in person and virtual開催。私のような退職者にはデンバーまで出向くのはチト難しい。オンライン参加で、我慢しよう。(^o^)