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clm.282:日本語でも優れたreality解説本がある

reality解説本として既に、カルロ・ロヴェッリのReality Is Not What It Seemsと、ペンローズのThe Road To Realityとを紹介した(コラム257267)。

日本語でも優れた<現実>解説本があるのを見つけた。まだ読みかけだが、皆さんにも知ってもらいたいのでメモしておく。

〈現実〉とは何か ― 数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書)、西郷甲矢人 (著), 田口茂 (著) 2019年12月刊。

既に紹介した前二書が欧米の物理学者が書いたものであるのに対して、本書は日本人、圏論(数学)を専門とする西郷甲矢人(はやと)と、現象学(哲学)を専門とする田口茂の共著。〈現実〉という具合にカギ括弧でくくって、普通の日本語で言いう「現実」とは違うことを表している。英語で言う「無冠詞のreality」。

興味を引いた点のメモ書き:
本書は、集合論に「選択公理」という議論百出の公理があることを紹介している。「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」(wikipedia「選択公理」)というとても単純な「公理」。しかしひとたびこの公理を認めると、「球を適当に分割して、組み替えることで、元と同じ球を2つ作ることができる」(wikipedia「バナッハ=タルスキーのパラドックス」)となってしまうとのこと。私としては「この選択公理を量子論の「波束の収縮」に適用すると、hidden realitiesから、私達がいると感じているようなa naive realityが沢山できることになるのだろうか?」と、多世界解釈(many-worlds interpretation)を思い出してしまった。(^o^)

clm.281:wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」

最近、wellbeingという英語が日本でも散見されるようになった。例えばここ。wellbeingを日本では「よく在る」「よく居る」という、極めてworldly (現世的、世俗的)な意味をあらわす概念ととらえているが、少し違うように私は感じている。メモしておく。

西洋では、wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」に変化しつつあると私は感じている。その背景には、最近起きつつある二つの西洋社会意識変化がある。

一つ目は、コラム270「beingとexistence」で示した「beingは形而上存在、existenceは形而下存在」という意味の分離が起きつつあること。二つ目は、コラム279「Is virtue better than happiness?」に書いた「the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らない」という様に、現行社会構造の屋台骨であるutilitarian ethics(効用主義倫理)に対する疑問が大きくなってきたこと。

なお、ネット上の語源辞典によれば、wellbeingは1610年代に作られた概念。当時の西洋社会は、宗教改革(1517年~)によって一人一人のconscienceの重要性に力点を移すvirtue ethicsが主流になっていく時代。utilitarian ethics(効用主義倫理)はまだ形成されていない。

wellが意味する「善」と、beingが意味する「存在」とを、worldly (現世的、世俗的)に捕らえるのは誤りであると私は感じている。

20210905追記:コラム264で、wellbeingを「霊的幸福」と和訳した。和訳するならこれだが、意味するところは「virtue ethics的に善な形而上存在」であり、このニュアンスを日本語で表せるようになるにはまだ時間がかかるだろう。当面、wellbeingと残す半訳が良いと思う。

clm.280:自分達で地域を中心に経済と社会と文化を創造する

迫力のある本だった。結論部(Kindle位置No.860-862):

もはや国家や資本に依存して仕事と暮らしと文化と教育の将来を展望する思考は捨て去った方がいいのかもしれません。自分たちで地域を中心に経済と社会と文化を創造し、学校を中心に子どもたちの未来と地域社会の未来を創出する、その発想に立った改革の展望を拓くべきでしょう。

・・・が印象に残った。

clm.279:Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)

帯にある「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立するのか?」に惹かれ購入し一気に読んだ。関口正司によるJ.S.Mill, Utilitarianism(原英文1871年第四版)の新訳、岩波文庫『功利主義』2021年5月新刊。

この設問は、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)という質問に置き換えられる。つまり、この質問への答えが、No, virtue is not better than happiness.(いや、徳は幸福よりも善だとは言えない)となるとき、幸福を追求する生き方が有徳な生き方を内包する。

本書44,45頁(原英文第二章のここ)で、この質問に対しJ.S.Millは「有徳な生き方、あるいは自己犠牲の生き方は、世の中の幸福の総量(the amount of happiness in the world)を増加(increase)させるならば名誉(honour)あるものとされるが、増加させないならば、(関口訳補:苦しむこと自体を目的にして)柱の上に乗っている苦行僧と同様に、なんら賞賛に値しない」と言い切っている。つまり、No, virtue is not better than happiness.と言っている。

更にコテンパンに、「こういう生き方(柱の上に乗っている苦行僧)をする人は、人間は何ができる(can)かを示す点で刺激的かもしれないが、人間が何をすべき(should)かを示す模範例でないことは確かである」とまで述べている。

さて、この考え方の何がマズいのか。それは、量子論によってhidden realitiesの存在が明らかとなった現在、明かだ。つまり、the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らないと分かった今となっては、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)に、J.S.Millの様に「No」と答えることはできない。

J.S.Millが Utilitarianism(第四版)を書いた1871年から150年経った現在、分かったことは多い。最早「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立する」とは必ずしも言えない。

なお、『功利主義』という邦題訳は不適切。関口正司氏も「今回は思い切って効用主義という代案はどうだろうなどと考えたが..」と本書巻末250頁で述べている。私としてはきっぱりと「思い切って」欲しかった。チョット残念!

20210811追記:上記ではJ.S. MillがNo, virtue is not better than happiness.と言っているとしたが、実はそこまで直截な表現はされていない。彼が直截を避けた理由は恐らく、キリスト教教義としては、virtueは地上世界的なものよりもgoodであるとされているからだ。彼は、正確には、
 It is noble to be capable of resigning entirely one’s own portion of happiness, or chances of it: but,  after all, this self-sacrifice must be for some end; it is not its own end; and if we are told that its end  is not happiness, but virtue, which is better than happiness, I ask, would the sacrifice be made  if the hero or martyr did not believe that it would earn for others immunity from similar sacrifices?
という具合に、virtueにかかる関係代名詞whichにコンマ付き非制限用法を使って、「virtue, それは一般的には幸福よりも善であるが」と、巧(たくみ)にキリスト教教義に反抗することを避けている。しかし注意深く読めば「地上世界の幸福の総量を増加させないのであればvirtueのgoodnessは認められない」という極めて帰結主義(consequentialism)的な発言をしていることが分かる。これは「virtueは、それが地上世界的帰結をもたらさなくともその価値は認められる」というキリスト教教義に反している。

clm.278:「安全安心」というfictionは、structural sinの一つ

日本対米国 3回裏日本2死二塁、吉田正の適時打で生還しベンチ前で笑顔を見せる坂本(撮影・河野匠)オリンピック、昨晩の野球「侍ジャパンが米国にサヨナラ勝ち!」は、今(午前四時、64歳は早起き!)ネットで知った。良かった!野球観戦好きな私としては嬉しい。しかし一方でコロナ禍の第五波が猛烈な勢いで襲ってきている。オリンピックをしている場合だろうか、なにか腑に落ちない。

…で少し考えた。オリンピックが「安全安心」というfictionのもとに行われているのではないか。そして、この「安全安心」というfiction、ここで紹介したstructural sin(社会構造による罪)の一つなのではないか。

つまり、現行の社会構造のもとに、コロナ禍の中オリンピックを強行しようとすれば、どうしても「安全安心」というfictionを必要としてしまうのではないか?

ひとつ、考えるヒントを書き残しておく。 sinとguiltの違いに着目する。すると、structural guilt(社会構造によるguilt、法律を犯す罪)というのは概念の定義上ありえないと分かる。なぜなら、人間の行為の(或る倫理学によって判断される)正当性(legitimacy)を規定するよう組み立てたものが「法律」であり、この様な「法律」を構成要素の一つとして組み立てたものが「社会構造」なのだから…。法律の中に「法律を破る行為を誘導する/強制する」法律が混じることはないと考えられる。

この「或る倫理学」の所にutilitarian ethics(効用主義倫理と私は訳す。功利主義倫理という和訳を私は使わない)を代入すると、この「社会構造」は「現行社会構造」となる。つまり、utilitarian ethicsが効用のあるものだけを是とし、「安全安心」というfictionというか嘘というか虚妄というか,,,を生み出しているのが現状だろう。

問題の解決には、恐らく、コラム264で紹介したsalutary unrest(健全な不安)の気づきが鍵となるのではないか。則ち、コロナ禍でオリンピックをするのは、安全安心だからではなく、健全な不安と、そして希望があるからだという気がする。ただそれには、健全な不安という、効用をすぐには「売り」に出来ない「お荷物」の価値や善を認識する新たな価値観倫理観が必要になるはずだ…。マッ、早朝の頭の体操はここまでかな? (^o^)

早朝は、頭の回転に文章化スピードが追いつかないが、とにかく、「安全安心」を強弁する菅首相が悪いのではなく、utilitarian ethics(効用主義倫理)のもとに組み立てられた現行社会構造が悪いのでは? そういう気がする。(^o^)

20210804追記:ネットで調べたところstructural guiltという用語使いは、案の定、見つけられなかった。ただ、structurally guiltyという副詞+形容詞が、BLM関連の記事で「黒人は、社会構造的に法律的罪の状態とされている」というように使われているのは見つけた。また、意味的にはconsciencious objection(良心的拒否)がstructural guilt(社会構造によるguilt)に近いかなとも思ったが、良心は社会構造がどうであろうと普遍的なものだから、「社会構造による」という部分は当てはまらない。従ってconsciencious objection(良心的拒否)とstructural guilt(社会構造によるguilt)は違う概念だとした方が良いと思う。

20210919追記:BLM関連の記事で使われていた副詞+形容詞”structurally guilty”から、ふと思いついたのでメモしておく。日本の皇族は、職業選択の自由、選挙権、被選挙権など幾つかのhuman rightsが著しく制限されている。これは、structurally guiltyとは言えないが、制度としてstructurally illegal(社会構造による法律違反)とは言えるのではないだろうか。また、皇族の方々に申し訳ないことをしているという点で良心がうずく。日本社会が持つstructural sinとも言えるかもしれない。

clm.277:持ち家促進政策の終焉は間近か

前前々回コラムで、持ち家が帰属家賃という仮想的「生産」を行っているとする現行経済システムの虚事を批判したマッツカートの主張を紹介した。

その矢先、昨日(20210705)の日経新聞夕刊一面に、現行経済システムにおける景気刺激策の一つである「持ち家促進政策」が終焉を迎えているのではと思わせる記事が載った。(日経有料会員ならここからアクセスできる)

記事のポイント:
 2002年から2020年の約20年間で、住宅ローン返済世帯の収入は約5%の増加に留まっているが、住宅価格は約40%上昇した。結果、住宅ローン返済世帯が抱える負債が貯蓄を上回る「負債超過」の額が約20年間で4割増えた。また、日銀の低金利政策と政府の住宅ローン優遇税制などによって住宅ローン借入額が膨らんでおり、家計が長期的に抱えるリスクが増している。住宅ローンが老後の生活を圧迫する虞(おそ)れもありそうだ。

記事の注目部分(金融緩和策と住宅ローン減税):
 金融緩和策によって住宅ローン金利は歴史的な低水準にあり、借入のハードルが下がった。中でも変動金利は銀行の優遇策もあって年0.5%を切る金融機関も珍しくなくなっている。住宅金融支援機構の21年4月の調査では住宅ローンを借りた人の68%が変動金利を選択した。/ 一方、住宅ローン優遇税制では条件を満たせば当初10年間(消費税10%が適用される住宅では一定条件を満たせば13年間)、年末の借入残高の最大1%の税額控除が適用され、返済金利より減税額の方が大きい「逆ざや」状態になりやすいことも借入額の増加につながっている可能性がある。

私の感想:
 今、住宅ローンを組もうかと考えている若い世代に是非読んでもらいたい記事だ。かつて住宅ローンを組んだ熟年世代でも、定年退職しても住宅ローンを完済していないケースは増えている。こうした場合、ローンが残っている持ち家を「リバースモーゲージ」あるいは「セール&リースバック」して老後の生活資金を工面することが「既に」常態化している。アクチュアリー数学を駆使する金融機関が、総体的には「儲けにつながる」と見ているから成立している話であり、こういった老後資金工面方法ですら、いつ「終焉」を迎えるか分からない。上記の「住宅ローンが老後の生活を圧迫する虞(おそ)れ」は既に現実のものとなっている。若い世代は、こういった「現行経済システム崩壊の予震」に感度良くアンテナを張り巡らして、「住まう家」を決めていって欲しい。

clm.275:三体Ⅲ science and stateの足音

[劉 慈欣, 大森 望, ワン チャイ, 光吉 さくら, 泊 功]の三体Ⅲ 死神永生 上コラム256で取り上げた中国SF、劉慈欣『三体』。この三部作の最終巻『死神永生』を読んだ。

中国社会が、表面的には習近平共産党政権により全体主義色を強める中、その奥深く着々と、劉慈欣のような最新科学を知る人々によって、science and state社会構造作りが深く静かに進められている、と私は感じた。

西洋社会に見られるchurch and stateではない。science and state。則ち、宗教ではなく科学が生み出す倫理観価値観と、国家(state)が生み出す倫理観価値観とを拮抗併存させ、freedom(一人一人それぞれのconscienceが許す範囲の自由)を人々が獲得していく社会構造。この構築が中国社会において深く静かに進められている、と私は感じた。

巻末のあとがきから、劉慈欣の発言を二つ拾うと:

科学技術が急速に発展する現代、SFの想像力の役目について尋ねられた劉慈欣は、「(表面に)見えているのは技術の変化に過ぎない。その奥底にある科学の原理は解明の途上にある。新たな原理が世界観に変革を強いるときにこそ、SFの出番」と答えたそうだ。

2020年8月には、日本のSFファンが投票で選ぶ第51回星雲賞海外長編部門を『三体』日本語版が受賞。その「受賞の言葉」の中で劉慈欣は次の様に語っている。
「この小説のテーマは、人類と異星文明とのコンタクトです。本書を通じて、それが単なる絵空事ではなく、非常に現実的な問題だということを描こうとしたつもりです。なぜならそれは、いつ起きてもおかしくないからです。
 もちろん、本書が描いているのは無数の可能性のうちのひとつでしかありません。他にも様々なシナリオがありうるでしょう。しかし、その全てに共通していることがひとつあります。それは、全人類がともに直面しなければならない問題だということです。人類がどの様な未来にたどり着くかは、いまの私達全員に共通する選択と努力に大きく左右されます。もし『三体』がこの点において皆さんの共感を得ることが出来たら、著者としてはこれ以上の喜びはありません」。

…前者の発言は、量子論が世界観を大きく変えることを、後者の発言は「現代の社会問題の解決に国家は無力」とのフランシスコ教皇の発言を、彷彿とさせる。

なお、『三体Ⅲ 死神永生 下巻』に『三体Ⅱ』の主人公・羅輯(ルオ・ジー)が、長期保存がきく情報ストレージとして「ぼくらの時代の光磁気ディスクは、とりわけ復元性が高かった」と発言している。私(齋藤)は、実は、35年間の会社生活の前半半分を光磁気ディスク開発エンジニアとして送った。劉慈欣、ありがとう! うん、光磁気ディスクは21世紀に入って間もなく世の中から消えたけど、素晴らしいストレージデバイスだったと私も思う。

clm.274:帰属家賃(imputed rent)

前回コラムで紹介した、帰属家賃(imputed rent)とは、持ち家を自分が自分に貸した貸家(かしや)だと仮定して、自分が自分に払う仮想的「家賃」のこと。実際にはお金は動かない。それなのにこんなややこしい計算をしてGDP額を見積もる。日本でいえば500兆円GDPの5%、25兆円をこの仮想的「生産」は稼ぎ出す。

家事仕事は生産境界内に入れないのに、こんな虚事(そらごと)を生産境界内に入れるとはなんたること! そもそも生産境界を設けることに疑問を持つが、設けるにしてももう少しましな生産境界を設けたらどうか! …マッツカートの意を汲みすぎかもしれないが、その様に憤慨する彼女の『全てにそれぞれ価値がある』から、帰属家賃の解説部分を拾った。半訳したのでご覧下さい。

なお、日本語でも、作間逸雄「生産境界再考」の第三章に、帰属家賃について説明がある。帰属家賃の起源が、18世紀末に始まったindividual income tax(個人所得税)の制度設計にあることなどが説明されていて興味深い。併せてご覧下さい。

clm.273:生産境界(production boundary)

前回コラムでproduction boundary(生産境界)という概念を紹介した。それは左図 ― マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』Fig.1 ― にある様に、あらかじめ価値(value)の定義が決められたうえで、様々な人間が何かを生み出そうとするいろいろな、その人にとっての価値の生産活動を、他者が、これは価値を生む(productive)/これは価値を生まない(unproductive)と、勝手に決めつける「選別」境界を意味する。

具体例を再掲すると、或る人が自分の家族のために食事をつくるのは「生産」ではないが、その人がどこかの料理店で販売用の食事をつくれば「生産」とみなす。同様に、或る人が自宅で子供を子育てしても「生産」ではないが、その人がたまたま保育士でどこかの保育園で子供を保育(子育て)すればそれは「生産」とみなされるといった具合。(deligability criterion、委任可能性基準、他の人に代わってもらえるかどうか、代わってもらえるものが「生産」だとする考え方。)

マッツカートは、この様な生産境界が、現行経済システムの「病根」であり、差別や格差を生み出す「元凶」だと論じた。

いったいどうしてこの様な差別概念が生まれたのだろうか? 実は、奇妙なことに、経済に公平性(eauality)ばかりを求めると、いずれ生産境界という差別的「選別」という「魔物」に辿り着く。人間界にはこの様な或る種「皮肉な運命」が組み込まれている。今回はこの話をしてみよう。まず、近代経済学のはじまりから。それは一見、公平性(eauality)を実現したかに見えた…。

左に示したのは、近代経済学の父、アダム・スミス『諸国民の富』(1776年)のことば。(マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』第一章の冒頭に引用されていることば):

There is one sort of labour which adds to the value of the subject upon which it is bestowed: there is another which has no such effect.  The former, as it produces a value, may be called productive; the latter, unproductive labour.
                                                                                          Adam Smith, The Wealth of Nations (1776)

半訳:或る種の労働は、その労働に賦課された課題にthe value(該課題に関し相応の価値)を付け加える一方で、他の種類の労働にはその様な効果がない。従って前者を、それがa value(或る種の価値)を生むという意味で生産的(productive)労働と呼び、後者を非生産的(unproductive)労働と呼ぶのがいいだろう。(訳註:ここではsubjectを「課題」と訳したが、18世紀西洋という時代背景を考えると「国王権威ないし教会権威の下にある臣下」と訳すこともできる。)

つまり、生産的/非生産的の差別がはじまったのは、アダム・スミスの時代、則ち、二百数十年前、18世紀後半、産業革命が始まり、大量生産される規格商品が市場における「需要」と「供給」のバランスによって価額(price)という「数字で表現できる価値」をもつようになってから。

この「数字で表現できる価値」は、公平な経済を実現する上で大変重要だった。しかし「価値」のもう一つの側面、subjective factor(主観的要因)が抜けおちてしまった。「数字で表現できる価値」は、主にobjective factor(客観的要因)から計測された価値であり、人間社会におけるeverythingがそれぞれに持つ「価値」の一部しかとらえていない。一見「公平」な経済を形成するために役に立つように見えるが、それは各人間のpersonalな多くの側面を考慮から外して成立させたequality(公平、平等)であり、早晩、破綻を迎えることが予想された価値評価方法による公平(equality)だった。

先程のアダム・スミスの言葉にも、注意してみれば、この「破綻」を予想していたかのような、ニュアンスが読み取れる。the value of the subjectとa valueとを考察対象とし、the value of everythingではなく限定された特定の価値(the specified value)だけを考察していることを明確にしている。

・・・さて、長くなるので今回はここまで。次回は、生産境界が生み出す不思議のもう一つの例、帰属家賃(imputed rent)について説明する予定。短く言うと、持家(もちいえ)が「自分が自分に貸す貸家(かしや)」だと想定して、自分が自分に払う仮想的「家賃」のことを帰属家賃(imputed rent)と呼ぶ。チンプンカンプン極まりない。請うご期待。

最後に、マッツカート『全てにそれぞれ価値がある』の最終章最終節「万人のためのより良き未来」の三段落を半訳したのでご覧に入れる。価値のsubjective factor(主観的要因)とobjective factor(客観的要因)との使い分けが出てくる。確認頂きたい。


A BETTER FUTURE FOR ALL 「万人のためのより良き未来」

Mazzucato, Mariana. The Value of Everything: Making and Taking in the Global Economy (p.279). PublicAffairs. Kindle 版. 第九章第三節

The concept of value must once again find its rightful place at the centre of economic thinking. More fulfilling jobs, less pollution, better care, more equal pay–what sort of economy do we want? When that question is answered, we can decide how to shape our economic activities, thereby moving activities that fulfill these goals inside the production boundary so they are rewarded for steering growth in the ways we deem desirable. And in the meantime we can also make a much better job of reducing activities that are purely about rent-seeking and calibrating rewards more closely with truly productive activity.

価値という概念は今一度、その本来の位置、経済学研究の中心に戻す必要がある。いったいどの様な種類の経済を目指すのか? 則ち、もっと自己実現に適った仕事、もっと低い環境汚染、もっと充実した健康保険、もっと平等な賃金 ―どれを私達は欲しているのだろうか? この質問に答えられてはじめて、どのような経済活動を具体化すればいいのか私達は知ることになる。そうしたうえで、これらのゴールに向かう活動が内側に入るよう生産境界を設定すれば、確かに、私達が望む方向に経済成長を向かわせる活動が報酬を得ることになるし、利潤追求だけに偏った活動を矯正することも、真に生産的な活動に対し好意的な報酬を払うよう調整することも、できるようになる。

I began the book stating that the goal was not to argue that one value theory is better than another. My aim is for the book to stir a new debate, putting value back at the centre of economic reasoning. This is not about drawing firm and static fences around the production boundary, arguing that some actors are parasitic or takers, while others are glorious producers and makers. Rather we should have a more dynamic understanding of what making and taking are in the context of the societal objectives we have. Both objective and subjective factors will no doubt come into play, but the subjective ones should not reduce everything to an individual choice, stripped from the social, political and economic context in which decisions are made. It is those very contexts that are affected by the (objective) dynamics of technological change and corporate governance structures. The latter will affect the way that income distribution is determined, as will the strength of workers to bargain their share. These structural forces are results of decision-making inside organizations. There is nothing inevitable or deterministic about it.

しかしながら、この本の冒頭で私は、唯一のベストな価値理論を見いだすのがゴールではないと述べた。今一度、価値理論を経済学的理論作りの中心に戻し、新たな議論を巻き起こす、これが本書で私が目的としたこと。それは、びくともしない固い壁を生産境界に持たせることでも、一方の者達を経済に寄生する富の掠奪者だと断ずることでも、他方の者達を栄誉ある生産者・富の生成者だと称賛することでもない。そうではなく私達は、今ある社会目的の文脈の中で、富の生成と取得とはそもそも何であるのか、より動的なunderstandingを持つべきだ。そしてこの議論の中で、価値の客観的要因も主観的要因も両方が重要となってくるのは疑いようがない。ただここで注意喚起したい。価値の主観的要因は、全てを個人的選択に帰すものではない。則ち、価値の主観的要因によって、その背景にある社会的・政治的・経済的な意志決定の文脈の全てを剥ぎ取られるわけではない。価値の主観的要因によって剥ぎ取られるのは、該(価値評価対象に関する)技術変化とcorporate governance構造が織りなす動力学によって影響を受ける文脈だけだ。特に後者のcorporate governance構造は、組織所得の分配に影響を与えるので、そのcorporateの従業員達が分け前交渉する強度に影響を与える。しかしながらこれらの構造的影響力は、その特定の組織内での意志決定の結果に過ぎない。そこには逃れようのない決定的なものは何も無い。

I have tried to open the new dialogue by showing that the creation of value is collective, that policy can be more active around co-shaping and co-creating markets, and that real progress requires a dynamic division of labour focused on the problems that twenty-first-century societies are facing. If I have been critical, it’s because such criticism is badly needed; it is, moreover, a necessary preliminary to the creation of a new economics: an economics of hope. After all, if we cannot dream of a better future and try to make it happen, there is no real reason why we should care about value. And this perhaps is the greatest lesson of all.

以上、本書において私は、価値の創造はcollectiveに行われること、政策はco-shaping and co-creating marketsを巡ってより活発に実行に移される可能性が高まること、本来の社会進歩には、21世紀社会が直面する諸問題に焦点をあてて労働力を動的に分割する必要があること、これらを示すことによって、新たな対話を開こうと試みた。批判的過ぎるとの誹りを受けるとするのならば、これら批判は必要悪だと答えたい。いやそれ以上だ。これは、新たな経済、希望の経済を創造するにあたって必要な準備だ。なぜなら、とどのつまり、もしも私達がより良い未来を夢見てそれを実現しようと努力することが不可能ならば、実の所、価値について思いを巡らすべき本当の理由は何もないからだ。そしてこれこそが、万人にとって最も大きな教訓なのかもしれない。