投稿者「junsaito」のアーカイブ

clm.290:『サイエンス炎上』

Harvard UPから興味をそそる本が出ていることを見つけた。Science under Fire(サイエンス炎上)、Andrew Jewett著、2020年12月刊。買おうかどうか迷っている。とりあえず、descriptionを半訳しておく。


科学専門家や科学エリートに対する猜疑心をアメリカ人は長年にわたり持っている。即ち、科学がアメリカ文化を破壊する力を持っていると多くのアメリカ人が今も昔も感じている。理由は何か? 本書は新たな歴史観で説明する。

科学が権威を持つこと自体あり得ないと感じているアメリカ人は少なくない。保守派の多くは、気候変動とダーウィニズムをリベラルなフィクションであるとして却下し、”tenured radicals“(終身在職権を得た急進派の大学教授達)が保身のために科学や関連分野を取り込んでいるだけだと主張している。一方の進歩派、特に大学関係の進歩派には、科学を客観的中立的だと礼賛する者は、実はその人が持つヨーロッパ中心主義と家父長制価値観への愛着をただ覆い隠しているだけではないか、と懸念する意見もある。気候変動の含意と、バイオテクノロジーからロボット工学はたまたコンピューティングまでの分野における華々しい技術革新との対比を考察するためには、科学が持つ権威が、どのように機能するのか、今までどこで政治と文化の障壁に衝突してきたのか、理解することが極めて重要だ。

本書Science under Fire(サイエンス炎上)は、the United Statesにおいて科学がその文化にどの様な影響をもたらしたのかをめぐる論戦の模様を一世紀にわたって再構築する。そして著者Andrew Jewettは、或る批判の永続流が存在することを顕わにする。即ち、中立の覆いをまとった科学者達が誤った社会哲学をthe nationの血流に注入した、とする批判の永続流があることを明らかにする。この嫌疑は様々な形をとる。社会的、政治的、神学的見解の幅広い範囲に様々な批判となって現れてきた。しかしその全てに共通しているのは、或る種のイデオロギーに歩み寄った科学が一連の病的社会状況を生み出したという主張だ。 科学に関するこの様な嫌疑が、1920年代以降のアメリカの政治と文化の中に、様々な形をとりながらどの様に発展し爪痕を残したのか、Jewettはその航跡を追う。そして科学に関するこの様な嫌疑が、今も昔もアメリカの政治と文化における主要な力であることを示す。

科学をめぐる論争の現在の様相を見てJewettは、citizens and leadersがとるべき議論の方向を示す。即ち科学は、一方では純粋で価値中立的な知識形態だとする素朴なイメージがあり、他方では科学者達が主張する真実を装った単なるイデオロギーだとする見解があるが、その中間に議論の方向をとるべきだとJewettは考えている。

clm.289:科学はpeopleをつなぐ最良の言語

米国光学会(OSA)の機関誌(OPN)2021年9月号を読んでいて目にとまったのでメモしておく。

学会長、台湾出身のコンスタンス チャン-ハスナインの巻頭言。「私は常にこう考えています。科学はpeopleをつなぐ最良の言語、科学者は諸文化にかかる最良の橋だと」。左のアイコンをクリックすると全文を読める。

フランシスコ教皇の言葉づかいとソックリ。コンスタンス(節操)と言う名前からして彼女はカトリックのひとかもしれない。彼女はまた、OSAを米国に留めるのでなく国際学会OPTICAにしようと規約などの改訂を進めている。

この言葉を聞いて私は、日頃からの思い:「ポスト世俗(postsecular)の社会思想の基礎は、再びのsacred(聖)ではなく、形而上学(metaphysics)に歩みを進めたscience。」 これを強めた。

20211003追記:peopleの定義を、フランシスコ教皇はLet Us Dreamの第3章で詳細に述べている。その最初は:
   What does it mean, to be “a people”?   It is a thought category, a mythical concept, not in the sense of a fantasy or a fable but as a particular story that makes a universal truth tangible and visible. (79page, kindle No.1154)
   “a people”であるとはどういう意味でしょうか? それは思想の範疇に属します。或る種の神話的概念、しかしおとぎ話やファンタジーではなく一つの普遍的真実を、手に触れ目に見えるものにするために特別なstoryを描く者達です。
・・・教皇の博士論文の用語を使えば、「形而上界の知見を、形而下界で知覚する/しようとする者達」といえるだろう。

秋ナス、元気。

区民農園の一本だけのナス、根切りをサボったのに元気に「秋ナス」モードに入ってくれた。ありがとう(^o^)。

このナスの周りには、ダイコンの種を蒔いた。70日後の11月下旬には収穫できるはずだがそれは天候次第。3年の農園使用期間がこの冬で終了するので、天候が順調であって欲しいが,,,。

clm.288:a co-produced naive reality(共作素朴現実)

前コラム「amorphose cryatalline論争」は、科学と宗教にまたがる問題であり、やはり簡単には決着しないようだ。現時点での私の考えを「reality構成図 rev.3」にまとめてみたのでアップしておく。(ちなみに、前コラムのURLは、battle-over-amorphous-crystalline-is-still-going-on)

キーポイントは、宗教的hidden realitiesと科学的hidden realitiesとの双方から遷移(transition)が行われる中で、このa naive realityが作られているのではないか、としたこと。

すなわち、communion(霊的交わり)と波束の収縮(reduction of wave packet)の二種類の遷移によって、私達がその中にexistしているというdata(感覚与件)を受けとっているこのa naive reality、則ちこのa tangible and visible reality(触れること見ることができる一つの現実)が「共作」されているのではないか。

こうだとすると「存在の二様:beingとexistence」の図も修正する必要がでてくる。しかしそれは、「二様ある」と言う大筋に変更を加えるものではないので、もう少し考えてからにしたい。

reality構成図、(果てなく?)考察途中だが、アップしておく。科学者は、宗教者の直観を「検討の俎上」に必ず載せる。自分の特徴を忘れないようにしようと改めて思った。

20210925追記:reality構成図でのa naive realityの説明を、a partly crystalline and partly amorphous reality(部分的に結晶質で部分的に非晶質な或る一つの現実)と変更してrev3.1とした。

clm.287:amorphous crystalline論争は決着していると思うが…

amorphous crystalline論争は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)により決着していると私は思うが、保守派からの反発はまだ続くかもしれない。

例えば、保守派が勢力を持つ米カトリック司教団と米国聖公会が1999年に出した文書に、”The gift of communion from God is not an amorphous reality but an organic unity that requires a canonical form of expression”.(神からのcommunionの賜りはan amorphous realityではない。それはa canonical formで必ず表現されるan organic unityである。)とあったのをみつけた。

”amorphous reality” +”pope francis”でググると、フランシスコ教皇がan amorphous realityについて言及しているサイトを多数見つけることが出来るが、上記の様な「保守派からの反論」も多数見つかる。

この件に関しては科学的には一応の決着を迎えたと思うが、反論は常に歓迎される。

ただこの件(科学的な一応の決着)に関しては、今後は両意見の間で、教皇の言うdialogue with scienceが進むことを期待したい。つまり双方が、explicit specification of conceptualization(概念の明示的仕様)を提示し合う努力を続けるなかで、議論を進めていって欲しい。でないと、反証を提示することも反証を検証することもできず、科学の側面からは議論が先へ進まない。

私達がその中にexistしていると感じている、この a tangible and visible realityを含むrealityの全容の解明に、見果てぬ夢かと思いつつも希望を持ってchallengeする。宗教も科学もアプローチの仕方は違えどこの目的を共有している。お互いの方法を尊重し合って解明を進めたい。

20210922追記:私自身が科学者と宗教者の両側面を持つので推敲に時間がかかっている。このamorphous crystalline問題は科学と宗教にまたがっているので、ひょっとしたら、両側面同時決着は無い事柄なのかもしれない。また、むしろその方が議論が進むのかもしれない。つまり、宗教が科学に直感と希少体験談を提供し、科学が宗教に理論と実験結果を提供する。そういった形が上手く取れるとき、こういった問題に進展が見られ、Questが進むのかもしれない。・・・同じ悩みは、科学と宗教の両バックボーンを持つフランシスコ教皇も?…。

20210924追記:長くなるので別立てコラムにした。コラム288「a co-produced naive reality? (共作素朴現実?)」をご覧下さい。

clm.286:更新「reality構成図」「存在の二様:beingとexistence」(both rev.2)

an amorphous realityなど新たに得た知見を入れて、「reality構成図」「beingとexistence」の二つのパワポ図をrev.2に更新した。˜archivesの資料・グラフコーナーにもアップしておいた。

clm.285:いいも わるいも リモコン次第、敵にわたすな大事なリモコン

an amorphous realityとかけて何ととく? 鉄人28号ととく。その心は? 「いいも わるいも リモコン次第、敵にわたすな大事なリモコン」♫ 

フランシスコ教皇の言う
「自然の内側から観想することによって私達は、an amorphous realityをただ傍観して不当利用されるがままにするのでなく、そのprotagonists (主導者、主人公)となることができるのです。」(このパワポの4頁目)

・・・の意味は、大雑把に言うとこういうことかな。だとすると、リモコン=「自然の内側から観想する」ってことになるのかな。(^o^)

♫「あーるときは 正義の味方、あーるときは 悪魔の手先」。みんな、責任重大だー。(^_^;)

♫「鉄人!鉄人!どこへゆく」→「an amorphous reality! an amorphous reality!どこへゆく」

20210915早朝追記:鉄人28号は、金田正太郎君「ひとり」がリモコンでしっかりコントロールしていれば悪の手先になることはない。他方、私達がその中にexistしていると感じているこのan amorphous realityは、私達「全員」が、則ちeach and every oneが、内部者としてしっかりとcontemplate(観想)していないと、あらぬ方向へビューンと飛んでいってしまう。こんなことを早朝思いついた。(vigilance ←これもメモ書き。思いついたので忘れないように。)

200210917追記:an amorphous realityと鉄人28号は、「いいもわるいもコントロール次第」という点で似ているが、大きな違いもある。鉄人28号が、ビューンとどこかへ飛んでいってしまっても、私達には大した害は無い。しかし、an amorphous realityがあらぬ方向へビューンと飛んでいってしまうと、その中にexistしている(と感じている)内部者である私達としては大変困ることになる。もっとも、日経新聞夕刊に連載中のSF小説『ワンダーランド急行』の様に「私は私の世界に帰るのだ」なんてひとがもしいるならば、そのひとは別。そんな「外部者」がもしいるならば、その人は涼しい顔をしていられる。しかし恐らく(と言っても私には確かめようがないのだが)私達全員が「内部者」だから、私達全員が困ることになってしまう。鉄人28号はリモコン、つまり外部からコントロールできるが、an amorphous realityは、内部からコントロールするしか遣り様(やりよう)がないのだから。