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clm.267:objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能。

前回コラムが中途半端だった。フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いておきながら、その理由を述べていなかった。追記の形で書こうかと思ったが、重要な論理展開なので、別立てコラムにすることにした。

一文で説明するなら、標題:「objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能」、となる。もしもこれで、「齋藤が言わんとすること十分に分かった」という方は、以下、読み飛ばし可。

なお、”objective reality is inconceivable”(客観的現実は人間には捕捉不可能)をGoogle検索すると、上掲したキャッチアイ画像のように一件だけヒットする。カントが、キリスト教神学上の大問題である義認justification)を論じた部分。これで分かるが、客観的現実のconceivability(人間が持つ捕捉能力)の有無は、justificationを論ずる上で鍵となる問題。ここでは深入りしない。

では、本論に戻る。まず「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する」という教皇発言について補足する。

量子力学には長年懸案だった「観測問題」というのがある。「量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まるのか、それとも観測者(subject、主体)の観測行為に依存するのか」という問題。この問題は、左掲のGoogle量子コンピューター実証実験によって「波束の収縮は観測行為に依存する」と決着した。

量子コンピュータとは、古澤明『光の量子コンピュータ』160頁の記述をもとに説明すれば、『あらかじめ「答えの候補」となり得るあらゆる量子状態の重ね合せを量子コンピュータ内で生成し、量子力学的な干渉や測定に依存する波束の収縮を用いて、その「答えの候補」のなかから「答え」を浮かび上がらせる』観測装置。つまり、波束の収縮が観測(干渉や測定)に依存することを利用して観測装置を工夫することにより、波束の収縮の行き着く先をコントロールできる。これが前提になっている。

仮説:「波束の収縮は私達の観測行為に依存するらしい」。ならば逆手にとってコントロールしてみよう。試した結果、コンピュータを作れるほど正確且つ確実に波束の収縮はコントロールできた。言い換えれば、波束の収縮は観測依存性が相当程度に強いと仮説検証された。こう、Google実験発表(2019年10月)が周知され、この教皇発言(2019年12月)「…に依存する」につながったのだろう。

[Roger Penrose]のThe Road to Reality: A Complete Guide to the Laws of the Universe (English Edition)またrealityについて、現在のところ量子力学は以下の様に説明する。私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)は、ミクロスケールでは全て、様々な量子状態の波束の収縮が作り出したもの。則ち、多数の様々な量子状態から構成される様々なhidden realitiesが、次々と波束の収縮を行って、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)をつくり出している。

昨年のノーベル物理学賞受賞者ペンローズ『The Road to Reality』には、更に複雑で難解な説明がある。数学的プラトニズム界、形而下界、精神界、これらが相互に「入れ子」になって、ミヒャエル・エンデ流にいえば「三匹の蛇が輪になって尻尾を噛み合っている」という様な説明。ネヴァー エンディング ストーリー。或る種の輪廻とも言えるか? Three worlds and three deep mysteries Roger Penrose でググれば関連記事多数。ここでは深入りしない。

現在の量子力学によるrealityの説明と、先程の「波束の収縮は観測行為に依存する」とを踏まえて教皇発言をより正確にするなら、「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する。その依存率はゼロにはならない。」となる。

(ではweak measurement(弱測定)はどうよ? これなら依存しない? というような意見が量子論専門家からは出てきそうだが、そういう議論はまた別の所で…。今は、ご勘弁を。)

更に言い換えると「objective reality(客観的現実)は(正確には)人間には捕捉不可能」となる。教皇の言う「realityを無菌室から眺(なが)める誘惑に陥ってはならない。そもそもそれは実行不可能(impossible)」に重なる。

あとは「objective reality(客観的現実)が捕捉不可能なとき、equality(公平、平等)は実現不可能、あるいは、たとえ実現したとしても「実現した」と確認することができない」と了解してもらえれば説明はほとんど完了。ここの部分、自然な論理。なので、詳しい説明はしない。

equality(公平)が実現できなくても、あるいは、実現できたと確認できなくとも、equity(衡平)を実現すること、あるいは、実現できたと当事者達が思うことは出来る。なぜなら、equity(衡平)とは、当事者達の「思い」あるいは価値観・倫理観で「つり合った」「平衡になった」と感じることだからだ。一般的に成り立たなくていい。当事者間だけで成り立てば十分。

…以上が、フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いた理由。まだ整理し切れていないかもしれない。ゴメンナサイ。ただ、equality and equity(公平と衡平)問題は、このブログの通奏低音の様なテーマなので、この後も何回も取り上げると思う。現段階では、整理はここまで。(^_^;)

(20210324追記):equalityは、厳密に言えば実現不可能であることを今回は説明した。しかしだからといって「equalityを追い求めるな」と言っているのではない。教皇がしばしば使う用語で言えば、the correct balance(共にrightなバランス)が大事だというのが今回の眼目。つまり、equalityとequityどちらかだけを求めるのでなく、それらのthe correct balance(共にrightなバランス)を保ちつつ、社会全体のsustanable and integral developmentを図るのが良いと思う。日本社会は、equalityばかり注目されているのが、私は気になる。同質社会であると自分達を理解(誤解?)してしまうと、どうしてもequality偏重になってしまうのだろうか…。

(20210327追記):神を愛し人を愛せ (マタイ22:34-40)。equalityもequityも大切に。忘れてはならないthe correct balanceだと思う。

(20210329追記):波束の収縮をコントロールすることにより、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)を変えていく力を、人間は持てるのか/既に持っているのか? この点に関心を持った方もいるかもしれない。祈ること、観想(contemplation、イエズス会では霊操(spiritual exercise)ともいう)の重要性、この話題もできたらまた別の機会に…。

(20210403追記):2008年に帰天された栁瀬睦男司祭と、もう叶わぬ事だけれど、もう一度心行くまで、物理談義・カトリック談義を出来たならば…とつくづく思う。師匠の域には及びませんが、この不肖の弟子、頑張りますので、天国から見守っていて下さい。(復活徹夜祭の日、64歳の誕生日)

clm.266:reality観 (the view of reality)

量子力学の教科書に、そのまま載せても何ら違和感のない記述を、フランシスコ教皇が書いた文章の中に見つけた。半訳しておく。

その記述は:
(原英文)The view of reality always depends on the gaze of the observer and the position in which it is placed.
(半訳)the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見)とに依存する
第五段落にある。

ちなみに第四段落には、inequality and inequity(不公平と不衡平)問題、という言葉も出てくる。「やっぱりね!」と思った次第。

分科会2020#5(11月21日) 開催通知および配付資料

日時2020年11月21日土曜日 13:30 ー 15:30 (予定は流動的です。「中止」の場合ここに通知します。)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマEverything is interconnected ~~ 科学者と宗教者が共有するa conviction

配付資料

OSA Quantum 2.0が始まった

OSA Quantum 2.0が始まった。Zoom Webinar。OSA会員なら参加無料となり、実に69ヶ国から1600人が参加登録となったとのこと。

米東部時間開催だから日本からは眠い目をこすりながらの参加となるか、と思ったら、ちゃんと録画が見られるようになっていた。しかもトランスクリプト(文字起こし)が流れるので録画の方が聞きやすい。

トップバッターはやはりGoogle。発表者は、山火事のためsmokeyなカリフォルニアからの参加と言っていた。それを聞いている私は日本の自宅に居るわけだから、ちょっと不思議な気分。新しい時代が全く新たに始まるぞという雰囲気が、量子光学というテーマからも、Zoom Webinarという会議手法からも感じられる。とにかくワクワク。(^o^)

追記(20200925):今日「参加感謝」e-mailがOSAから届いた。最終的な参加登録は、72ヶ国から約2500人だったそうだ。Your embrace of a new medium made it historic.とあった。

clm.258:人間すべてbelievers

…何故なら、人間すべて、「自分は生きている」「私は私だ」という「証明できないこと」をbelieveしているのだから…。

7月の勉強会で「科学者も宗教者もbelievers」と述べたが、これは敷衍できる、と朝方の枕元でフッと思い、短いメモを残す気になった。

分科会2020#4(9月19日) 開催通知および配付資料

日時2020年9月19日土曜日 13:30 ー 15:30 (予定は流動的です。「中止」の場合ここに通知します。)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ科学と対話する諸宗教 ~~ 何を意図してフランシスコ教皇はこのタイトルをつけたのか

配付資料

clm.257:a Creatorを「創造主」と和訳するのは不適切

Laudato Si’英語版の2章3章の部分半訳を、7月の勉強会で示したところ幾つか質問が寄せられた。

    1. a Creatorを「創造主」と和訳してもよい?
    2. an integral ecology and the full development of humanity、敢えて日本語にすればどういう意味?
    3. 無冠詞のrealityは、日本語で言う「現実」とは異なるのか?
      といったような質問。

 

1.の質問に関して、左に示した資料をクリックして見て頂きたい。これは、現教皇フランシスコの前任者であるベネディクト16世が、カトリックの歴史で約600年ぶりに示した教皇辞任表明(2013年2月11日)の直前(5日前)に行った最後の一般謁見講話

その内容は「現代の科学技術時代における「創造主としての神」の意味するところ」といったようなもの。自身の保守的考え方では、問題が噴出する時代に必要とされる対応策を示していくことが出来ない、というような「疲労困憊」が行間に滲み出ているように私は感じる。

この中に”God as Creator”という記述が出てくる。無冠詞のCreatorであることに注意されたい。また、Godと同格な意味でthe Creatorという表記が6回出てくる。つまり、「創造主、神」を意味する場合、英語では、無冠詞且つ大文字のCreator、ないし、定冠詞且つ大文字のCreatorとなることが分かる。不定冠詞「a」をつけることは、他にもネットで色々探したが見つけられなかった。

「a」をつけることに批判的な意見ならば見つかった。New Spring Churchという米国保守系プロテスタント教会の記事。He is CREATOR. He is not “a” creator or someone who simply “creates,” He is THE Creator, because “Through him all things were made; without him nothing was made that has been made” (John 1:3) …と手厳しい。フランシスコ教皇が”a Creator”という表現を使うのが如何に「珍しい」ことなのかが分かる。

ということで質問1の答えは、「a Creatorを「創造主」と和訳するのは不適切」となる。では、a Creatorは一体何を意味するのだろうか? 西洋言語のニュアンスを解すとまでは言えない私には良く分からないが、敢えて言えばそれは「擬人化されない或る一つの全創造事象」といったようなものかもしれない。 工学者的には、a generatorは発電機(器)、an attenuatorは信号減衰器だから、a Creatorは全創造器と和訳できなくもない。ビッグ・バンやインフレーション宇宙論を思い浮かべる方もいるかもしれないが、想像にお任せする。とにかくa Creatorを「創造主」と和訳するのは誤訳だと言えるだろう。

ただ、Creatorとa Creatorの違いを日本語で表現するのは、日本語が現在もつ意味空間の大きさでは、不可能だと思う。ということで、a Creatorと残す「半訳」に留めておいた。

国家権威と宗教権威を互いに治外法権にする「両権社会」を発達させた西洋社会の、英語やドイツ語など西洋言語は、宗教概念と世俗概念を、「峻別」することにも「両義性」を保つことにも、どちらにも長けている。a Creator、reality、truth、goodnessなどは両義性を保つほうだし、freedomとliberty、covenantとcontract、sinとguilty、RechtとGesetz、などは「峻別」するほうだ。

大いなる宗教改革者(The great reformer)と評される教皇フランシスコは、前任者達と違い、宗教的考え方と世俗的考え方、両者とも大切にとらえ、その間の「橋づくり」思想を模索している。従って、宗教概念と世俗概念とを「峻別」することばかりに重きを置かない。「曖昧」だと批判される危険を敢えて冒して、西洋言語がもつ「両義性」を保ったまま色々と説明する。その心は、両側面からの努力が何時か実を結び、究極的にはTruthへと至るはずだという思いだろう。

さて、質問2。an integral ecology and the full development of humanity、敢えて日本語にすればどういう意味? 一例だが「或る一つの高次統合生態系と、そこにおいて可能となる人間性の完全な展開(または発達)」ということになるだろう。何れにせよ、日本語には無い不定冠詞や定冠詞が当該文脈においてどういう意味を持つのかに注意して訳したい。ただ、人間性の完全な展開(または発達)が、既にキリスト教では用意されているといったような和訳だけは、絶対に避けるべきだと思う。

最後に質問3。無冠詞のrealityは、日本語で言う「現実」とは異なるのか? これについては、左掲のReality is not What It Seems(realityは目に映る姿とは異なる)をお読み頂きたい。イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリがイタリア語と英語で、最新の量子力学等で分かった本当のrealityの姿を、なるべく数式を使わずに平易な文章で解説している。西洋では各国言語に翻訳され合わせて数百万部の大ベストセラーになっていると聞く。

多くのヴァチカン関係者も、これを読んでLaudato Si’をまとめたのではと思われる。

和訳本の邦題『すごい物理学講義』は、カルト本と間違われないために必要だったのかも知れないが、それは一般日本人の科学に対する認識が低いことを表している。チョット残念。改訂版では是非『realityは目に映る姿とは異なる』、もっといえば『”現実”は目に映る姿とは異なる』となって欲しい。

ザックリ言えば、clm.249:the metaphysics of quantum physicsで示した、「観測できるもの触れるもの」だけが現実(reality)だとする考え方、即ち、素朴現実論(naive realism)が否定されたこと、これが出来る限り平易に詳述されている。

ということで質問3。無冠詞のrealityは、日本語で言う「現実」とは異なるのか? これについては「異なる」と答えられる。キリスト教的にいえば「神の国も地上の国もどちらもreality」ということになるのかな..。(^_^;) これも分かりにくいだろうと思う。…が、一応のせておく。(^o^)

米国光学学会 Quantum 2.0 参加無料に

米国光学学会(OSA)新設の量子光学学術会議(Quantum  2.0)は、今年6月開催予定だったのだが、コロナ禍の中、9月に延期されweb開催となった。そのおかげで、参加無料となった!

他方、日本で20年以上、春秋開催を続けている量子情報技術研究会(QIT)が、今年5月開催予定だったはずの第42回QIT(@京都大学)をコロナ禍で中止した。毎春秋の参加を退職後の楽しみにしていた私としてはがっかりしていた。そんな中、Quantum  2.0参加無料化は嬉しいニュース。昨日、registration websiteが開設されたので、早速申し込んだ。

記念すべき第1回OSA Quantum 2.0は、米国東部時間で開催される。日本では真夜中、ねむい目をこすりながらの参加となるだろうが、とにかく楽しみ! ワクワク! (^o^)

分科会2020#3(7月18日) 開催通知および配付資料

日時2020年7月18日土曜日 13:30 ー 15:30 (予定は流動的です。「中止」の場合ここに通知します。)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ科学者も宗教者もbelievers ~~ realityをunderstandするために一見異なる公理系をbelieveする者達

配付資料

clm.256:新たな「宗教」としての科学が生まれる予兆か

劉慈欣 著『三体』『三体Ⅱ 黒暗森林』を読んで、私は表記の様に感じた。要点を記しておく。

二千年前パレスチナ。古代ローマ帝国 ― 統治機構に人類史上初めて貨幣経済と租税を組み込んだ「暴力装置」 ― がユダヤ人社会に襲いかかった。

それ以前、つまり人類が貨幣経済と租税を統治機構に組み込む前。西暦紀元前のエジプト、アッシリア、バビロニアと幾つもの大国からの侵略を、則ち役務の強要(奴隷化)を、はねつけたユダヤ人達。しかし、その強固な宗教法をもってしても、貨幣経済と租税という新たな「苛烈」を伴った暴力装置に対しては無力だった。大国への隷従はユダヤ宗教法が禁ずることだが、古代ローマ帝国に税金を納めざるを得なかった。

対抗しうる社会思想を持たないユダヤ人達は、当然、古代ローマ帝国の暴虐に苦しんだ。(この辺り、レザー・アスラン著『Zealot』参照方)

そこでユダヤ人達(の一部)は、ユダヤ教の持つ「固定的宗教法」を廃し、「神を愛し人を愛せ」(マタイ22:34~40)のみを社会公理とする「キリスト教」を編み出した。貨幣経済と租税を組み込んだ統治機構、則ち「国家」という地上権威に対抗するために、柔軟に宗教法を変更し国家に対する「治外法権」を獲得できる、新たな宗教権威を編み出した。

…これと同様なことが、かつて文化大革命(1966-1976)に苦しみ、そして今も中国共産党一党独裁に苦しむ、中国の人々に起きた/起こりつつあるのではないか…。

・・・そんなことを、劉慈欣 著『三体』『三体Ⅱ 黒暗森林』を読んで私は感じた。

ただ、ここで中国社会に新たに導入されるのは、キリスト教ではない。もちろん、キリスト教が導入される条件は整っているだろうが、それよりもキリスト教が二千年かけて生み出した「科学」、特に、「clm.255:量子論の五つの公理」で説明した様に、高次元空間の存在を「公理」とする「最新科学」が、中国の一般の人々に広く受け入れられつつあるのではないか。そんなことを感じた。

長くなるので、最後は、村上陽一郎『奇跡を考える 科学と宗教』の講談社学術文庫版にある、補遺「科学が宗教になる」の結語(181頁)を転記しておく。

十八世紀以降のヨーロッパが、人間を超える存在、その至高の形態が宗教(キリスト教)における神ということになるが、そうした存在を否定し、すべての根拠を「人間」に帰する、というイデオロギーを、誇らしげに打ち立て、かつそれを実践してきた。ただし、それに逆らう唯一のものが存在した。それが科学である。つまり科学は、人間にはどうにもならないもの、人間を根拠にできない唯一のものとして、社会の中に座を得た。「ヨーロッパ近代では、科学が神の代替物となった」というような言説が、しばしば聞かれるのも、故なきことではない。

…現代の中国において、二千年前のパレスチナにおけるキリスト教の発生、十八世紀以降のヨーロッパにおける科学の発生、これら二つに類似する事柄が、同時に一気に起こっているのではないか。そんな気がする…。