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clm.275:三体Ⅲ science and stateの足音

[劉 慈欣, 大森 望, ワン チャイ, 光吉 さくら, 泊 功]の三体Ⅲ 死神永生 上コラム256で取り上げた中国SF、劉慈欣『三体』。この三部作の最終巻『死神永生』を読んだ。

中国社会が、表面的には習近平共産党政権により全体主義色を強める中、その奥深く着々と、劉慈欣のような最新科学を知る人々によって、science and state社会構造作りが深く静かに進められている、と私は感じた。

西洋社会に見られるchurch and stateではない。science and state。則ち、宗教ではなく科学が生み出す倫理観価値観と、国家(state)が生み出す倫理観価値観とを拮抗併存させ、freedom(一人一人それぞれのconscienceが許す範囲の自由)を人々が獲得していく社会構造。この構築が中国社会において深く静かに進められている、と私は感じた。

巻末のあとがきから、劉慈欣の発言を二つ拾うと:

科学技術が急速に発展する現代、SFの想像力の役目について尋ねられた劉慈欣は、「(表面に)見えているのは技術の変化に過ぎない。その奥底にある科学の原理は解明の途上にある。新たな原理が世界観に変革を強いるときにこそ、SFの出番」と答えたそうだ。

2020年8月には、日本のSFファンが投票で選ぶ第51回星雲賞海外長編部門を『三体』日本語版が受賞。その「受賞の言葉」の中で劉慈欣は次の様に語っている。
「この小説のテーマは、人類と異星文明とのコンタクトです。本書を通じて、それが単なる絵空事ではなく、非常に現実的な問題だということを描こうとしたつもりです。なぜならそれは、いつ起きてもおかしくないからです。
 もちろん、本書が描いているのは無数の可能性のうちのひとつでしかありません。他にも様々なシナリオがありうるでしょう。しかし、その全てに共通していることがひとつあります。それは、全人類がともに直面しなければならない問題だということです。人類がどの様な未来にたどり着くかは、いまの私達全員に共通する選択と努力に大きく左右されます。もし『三体』がこの点において皆さんの共感を得ることが出来たら、著者としてはこれ以上の喜びはありません」。

…前者の発言は、量子論が世界観を大きく変えることを、後者の発言は「現代の社会問題の解決に国家は無力」とのフランシスコ教皇の発言を、彷彿とさせる。

なお、『三体Ⅲ 死神永生 下巻』に『三体Ⅱ』の主人公・羅輯(ルオ・ジー)が、長期保存がきく情報ストレージとして「ぼくらの時代の光磁気ディスクは、とりわけ復元性が高かった」と発言している。私(齋藤)は、実は、35年間の会社生活の前半半分を光磁気ディスク開発エンジニアとして送った。劉慈欣、ありがとう! うん、光磁気ディスクは21世紀に入って間もなく世の中から消えたけど、素晴らしいストレージデバイスだったと私も思う。

tuntum quantum:as much as quantities:その同じ量だけ(副詞句)

現在では「量子」という意味で使われる「quantum」というラテン語。これが、イエズス会創設者イグナチウス・ロヨラによって約五百年前、重要語句として使われていた。「”pope Francis” +”quantum”」とググっていて気づいたのでメモしておく。

左掲を半訳すると:

tuntum quantum
 so much as(その同じ量だけ、副詞句) 聖イグナチウスの著書『霊操の基礎と原理』(1548年発刊、ラテン語)の中で、被造物のright useを説明するために、次の様に使われたラテン語用語。「私達は、被造物を、それが私達を最終目的へと導く量(quantum)だけ使い、私達が創造された目的の達成を邪魔する量(quantum)だけ脱却することが可能です。」

(半訳注意点:be to 不定詞は、予定、義務、意図、可能、運命の意味で和訳することが出来るが、ここでは可能の意味で訳してみた。)

・・・フランシスコ教皇は、若い頃は大学で化学を学び関連の研究所で働き、黎明期の量子力学を学んだだろう。そしてその後イエズス会に入った。彼にはquantum theory(量子論)が、二つの意味を持っていると感じられるのかもしれない。

clm.270:beingとexistence

前回コラムで、realityにはa naive realityとhidden realitiesがあることを説明した。同様に、人間存在にも二様ある。a naive realityにおける人間存在(a human existence)と、hidden realitiesにおける人間存在(a human being)。大まかに示すためにとりあえず図にしてみた。これも、考えが整理できたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。

20210501追記:フランシスコ教皇が2015年訪米した際行ったreligious libertyに関する論考の第6段落にあるthe transcendent dimension of human existence。意味するところを私はこの様にとらえている。

20210503追記:beingの意味を英辞郎で調べると、3番目に「本質」が出て来る。ここでは「本質存在」と訳してみたい。existenceの方は、「地上世界的存在」「俗世存在」あたりがいいかな? あるいは、beingを「形而上存在」、existenceを「形而下存在」、と和訳するのもいいかもしれない。

20210503追記:そうすると教皇の新カテケーシス「この地上世界を癒すために その2」にある:
The human being, indeed, in his or her personal dignity, is a social being, created in the image of God, One and Triune.  は、
人間の形而上存在はまさに、his or her personal dignityの中にあって、三位一体の神の似姿に創られた、(形而下界に)社会を構築する形而上存在です。  と半訳できるかな。

clm.269:reality構成図

“structure of reality”とググると、出るわ出るわ、Springer, Oxford, Cambridge,,,と名うての学術出版がテキストを出している。これに習って私もまだメモ書き程度だが、reality構成図を書いてみた。

頭の中を整理するために書いたので、説明は無し。考えがまとまってきたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。(^o^)

20210422追記:フランシスコ教皇の言う religions in dialogue with science が「科学という共通言語で対話する諸宗教」という意味だと思うのは、私の頭の中がこう整理されているからかな。(^_^;)

clm.267:objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能。

前回コラムが中途半端だった。フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いておきながら、その理由を述べていなかった。追記の形で書こうかと思ったが、重要な論理展開なので、別立てコラムにすることにした。

一文で説明するなら、標題:「objective reality(客観的現実)は人間には捕捉不可能。従ってequality(公平)は人間には実現不可能」、となる。もしもこれで、「齋藤が言わんとすること十分に分かった」という方は、以下、読み飛ばし可。

なお、”objective reality is inconceivable”(客観的現実は人間には捕捉不可能)をGoogle検索すると、上掲したキャッチアイ画像のように一件だけヒットする。カントが、キリスト教神学上の大問題である義認justification)を論じた部分。これで分かるが、客観的現実のconceivability(人間が持つ捕捉能力)の有無は、justificationを論ずる上で鍵となる問題。ここでは深入りしない。

では、本論に戻る。まず「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する」という教皇発言について補足する。

量子力学には長年懸案だった「観測問題」というのがある。「量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まるのか、それとも観測者(subject、主体)の観測行為に依存するのか」という問題。この問題は、左掲のGoogle量子コンピューター実証実験によって「波束の収縮は観測行為に依存する」と決着した。

量子コンピュータとは、古澤明『光の量子コンピュータ』160頁の記述をもとに説明すれば、『あらかじめ「答えの候補」となり得るあらゆる量子状態の重ね合せを量子コンピュータ内で生成し、量子力学的な干渉や測定に依存する波束の収縮を用いて、その「答えの候補」のなかから「答え」を浮かび上がらせる』観測装置。つまり、波束の収縮が観測(干渉や測定)に依存することを利用して観測装置を工夫することにより、波束の収縮の行き着く先をコントロールできる。これが前提になっている。

仮説:「波束の収縮は私達の観測行為に依存するらしい」。ならば逆手にとってコントロールしてみよう。試した結果、コンピュータを作れるほど正確且つ確実に波束の収縮はコントロールできた。言い換えれば、波束の収縮は観測依存性が相当程度に強いと仮説検証された。こう、Google実験発表(2019年10月)が周知され、この教皇発言(2019年12月)「…に依存する」につながったのだろう。

[Roger Penrose]のThe Road to Reality: A Complete Guide to the Laws of the Universe (English Edition)またrealityについて、現在のところ量子力学は以下の様に説明する。私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)は、ミクロスケールでは全て、様々な量子状態の波束の収縮が作り出したもの。則ち、多数の様々な量子状態から構成される様々なhidden realitiesが、次々と波束の収縮を行って、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)をつくり出している。

昨年のノーベル物理学賞受賞者ペンローズ『The Road to Reality』には、更に複雑で難解な説明がある。数学的プラトニズム界、形而下界、精神界、これらが相互に「入れ子」になって、ミヒャエル・エンデ流にいえば「三匹の蛇が輪になって尻尾を噛み合っている」という様な説明。ネヴァー エンディング ストーリー。或る種の輪廻とも言えるか? Three worlds and three deep mysteries Roger Penrose でググれば関連記事多数。ここでは深入りしない。

現在の量子力学によるrealityの説明と、先程の「波束の収縮は観測行為に依存する」とを踏まえて教皇発言をより正確にするなら、「the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見、境遇)とに依存する。その依存率はゼロにはならない。」となる。

(ではweak measurement(弱測定)はどうよ? これなら依存しない? というような意見が量子論専門家からは出てきそうだが、そういう議論はまた別の所で…。今は、ご勘弁を。)

更に言い換えると「objective reality(客観的現実)は(正確には)人間には捕捉不可能」となる。教皇の言う「realityを無菌室から眺(なが)める誘惑に陥ってはならない。そもそもそれは実行不可能(impossible)」に重なる。

あとは「objective reality(客観的現実)が捕捉不可能なとき、equality(公平、平等)は実現不可能、あるいは、たとえ実現したとしても「実現した」と確認することができない」と了解してもらえれば説明はほとんど完了。ここの部分、自然な論理。なので、詳しい説明はしない。

equality(公平)が実現できなくても、あるいは、実現できたと確認できなくとも、equity(衡平)を実現すること、あるいは、実現できたと当事者達が思うことは出来る。なぜなら、equity(衡平)とは、当事者達の「思い」あるいは価値観・倫理観で「つり合った」「平衡になった」と感じることだからだ。一般的に成り立たなくていい。当事者間だけで成り立てば十分。

…以上が、フランシスコ教皇がinequality and inequity(不公平と不衡平)問題に言及したことを「やっぱりね」と書いた理由。まだ整理し切れていないかもしれない。ゴメンナサイ。ただ、equality and equity(公平と衡平)問題は、このブログの通奏低音の様なテーマなので、この後も何回も取り上げると思う。現段階では、整理はここまで。(^_^;)

(20210324追記):equalityは、厳密に言えば実現不可能であることを今回は説明した。しかしだからといって「equalityを追い求めるな」と言っているのではない。教皇がしばしば使う用語で言えば、the correct balance(共にrightなバランス)が大事だというのが今回の眼目。つまり、equalityとequityどちらかだけを求めるのでなく、それらのthe correct balance(共にrightなバランス)を保ちつつ、社会全体のsustanable and integral developmentを図るのが良いと思う。日本社会は、equalityばかり注目されているのが、私は気になる。同質社会であると自分達を理解(誤解?)してしまうと、どうしてもequality偏重になってしまうのだろうか…。

(20210327追記):神を愛し人を愛せ (マタイ22:34-40)。equalityもequityも大切に。忘れてはならないthe correct balanceだと思う。

(20210329追記):波束の収縮をコントロールすることにより、私達人間がいる(と感じている)a naive reality(一つの素朴現実)を変えていく力を、人間は持てるのか/既に持っているのか? この点に関心を持った方もいるかもしれない。祈ること、観想(contemplation、イエズス会では霊操(spiritual exercise)ともいう)の重要性、この話題もできたらまた別の機会に…。

(20210403追記):2008年に帰天された栁瀬睦男司祭と、もう叶わぬ事だけれど、もう一度心行くまで、物理談義・カトリック談義を出来たならば…とつくづく思う。師匠の域には及びませんが、この不肖の弟子、頑張りますので、天国から見守っていて下さい。(復活徹夜祭の日、64歳の誕生日)

clm.266:reality観 (the view of reality)

量子力学の教科書に、そのまま載せても何ら違和感のない記述を、フランシスコ教皇が書いた文章の中に見つけた。半訳しておく。

その記述は:
(原英文)The view of reality always depends on the gaze of the observer and the position in which it is placed.
(半訳)the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見)とに依存する
第五段落にある。

ちなみに第四段落には、inequality and inequity(不公平と不衡平)問題、という言葉も出てくる。「やっぱりね!」と思った次第。

分科会2020#5(11月21日) 開催通知および配付資料

日時2020年11月21日土曜日 13:30 ー 15:30 (予定は流動的です。「中止」の場合ここに通知します。)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマEverything is interconnected ~~ 科学者と宗教者が共有するa conviction

配付資料

OSA Quantum 2.0が始まった

OSA Quantum 2.0が始まった。Zoom Webinar。OSA会員なら参加無料となり、実に69ヶ国から1600人が参加登録となったとのこと。

米東部時間開催だから日本からは眠い目をこすりながらの参加となるか、と思ったら、ちゃんと録画が見られるようになっていた。しかもトランスクリプト(文字起こし)が流れるので録画の方が聞きやすい。

トップバッターはやはりGoogle。発表者は、山火事のためsmokeyなカリフォルニアからの参加と言っていた。それを聞いている私は日本の自宅に居るわけだから、ちょっと不思議な気分。新しい時代が全く新たに始まるぞという雰囲気が、量子光学というテーマからも、Zoom Webinarという会議手法からも感じられる。とにかくワクワク。(^o^)

追記(20200925):今日「参加感謝」e-mailがOSAから届いた。最終的な参加登録は、72ヶ国から約2500人だったそうだ。Your embrace of a new medium made it historic.とあった。

clm.258:人間すべてbelievers

…何故なら、人間すべて、「自分は生きている」「私は私だ」という「証明できないこと」をbelieveしているのだから…。

7月の勉強会で「科学者も宗教者もbelievers」と述べたが、これは敷衍できる、と朝方の枕元でフッと思い、短いメモを残す気になった。

分科会2020#4(9月19日) 開催通知および配付資料

日時2020年9月19日土曜日 13:30 ー 15:30 (予定は流動的です。「中止」の場合ここに通知します。)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ科学と対話する諸宗教 ~~ 何を意図してフランシスコ教皇はこのタイトルをつけたのか

配付資料