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clm.284:新たな社会経済システムを、どの倫理で制度設計するつもりなのか

フランシスコ教皇の思想が立脚するvirtue(徳と訳されることが多い)が、倫理(ethics、善悪に関する学術)の研究対象として取り上げられることが(日本ではそうでもないが)多くなってきている。その隆盛はいつ始まったのか。Google Ngramを使って調べてみた。結果「virtue ethicsの隆盛は20世紀終盤から始まった」ことが分かった。以下、メモしておく。

先ず三大倫理(virtue ethics, utilitarian ethics, deontological ethics)が西暦1500年から2019年までどの位取り上げられたかを調べた。このNgramから「倫理が学問の対象になったのは19世紀、則ち1800年代初頭から」と分かる。なお、deontological ethics(義務論倫理)は「嘘は絶対いけない」「盗みは絶対いけない」といった行為固定的規範を持つためか、18世紀カントの時代には人気があったがそれ以降は下火。追記で触れるまで割愛する。

19世紀はutilitarian ethics(効用主義倫理)が突然現れて人気急上昇になる。utilitarian ethicsが概念発明された直後だけ、あわてたようにvirtue ethicsが少しだけ取り上げられるがそれもすぐ終わってしまう。以降19世紀の間は「飛ぶ鳥を落とす勢い」でutilitarian ethicsが人気を上げていく。ちなみに、日本が幕府から天皇に政権を戻して「西洋に追いつき追い越せ」を開始したのは1868年 (Meiji Restoration、明治維新)。このNgramから分かるが、それは西洋がutilitarian ethics(効用主義倫理)を屋台骨にして社会構造作りを本格化させた頃。当然日本は「西洋といえばutilitarian ethics」と思ってしまった。本当は、西洋にとってutilitarian ethicsは「異常な倫理」「忌避すべき倫理」だったのかもしれないのに…。

さて、その様なutilitarian ethicsの「一人勝ち」人気は20世紀中盤まで続くが、20世紀終盤になるとvirtue ethicsが、社会変革根本要因の研究対象として突然現れて「桁違い」の急上昇カーブを描いていく。21世紀になった今も、その勢いは続いている。

このNgramを見ていると「何故日本には根本的社会変革が起きないのか」が分かる気がする。


20210910追記:上述で「20世紀終盤になるとvirtue ethicsが社会変革根本要因の研究対象として突然現れた」と書いたが、詳細に見ると少し違う。20世紀「中盤」にutilitarian ethics対抗馬として先に登場したのはvirtue ethicsではなくdeontological ethics (義務論倫理)だった。

「嘘は絶対いけない」「盗みは絶対いけない」といった行為固定的規範を持つこの「お堅い」義務論倫理(deontological ethics)は、「現世的、世俗的」倫理であるutilitarian ethicsを懲(こ)らしめる「懲戒師」の役割を担うべく先に登場したが、「形而上界」も考慮した倫理であるvirtue ethicsにその役目をすぐに譲っている。しかしながら21世紀現在deontological ethics (義務論倫理) の人気はまだ根強いものがあり、virtue ethicsには遙かに及ばないもののutilitarian ethicsに対しては上回っている。つまりdeontological ethics は、utilitarian ethicsをそれなりに懲らしめている。この辺りに「トランプ登場」「米カトリック保守化」(コラム265)など諸般の保守反動の要因があった/あるのかもしれない。

・・・とここまで書いてきて、私(齋藤)自身とても驚いているのだが、三大倫理のこの様な混乱に意外なことに「科学」が光明を差しいれたようだ。いやだけど驚くことはないか。フランシスコ教皇が言うように「科学も宗教も、realityをunderstandしようとする試み (challenge)」だから「倫理、すなわちrealityにおけるa human being, a human existence(コラム270)の真っ当な振る舞い方」の解明に繫がるのは、科学にとって自然なことなのかもしれない。マッ、とにかくまだ整理し切れていないが、メモしておく。

量子コンピュータ実証実験(コラム267)により「私達がその中にexistしていると感じているa naïve reality(一つの素朴現実)は、a crystalline realityではなくan amorphous realityである」(コラム283)という科学的知見が2019年10月には既に確定している。則ち、行為固定的規範を持つdeontological ethics (義務論倫理)の根本前提は既に崩れている。だから、この科学的知見が人々にキチンと広まれば、様々な「保守反動」の動きは阻止できるはず。つまり、deontological ethics (義務論倫理)を前提とした保守反動も、そしてworldly(現世的、世俗的)なutilitarian ethics(効用主義倫理)を前提とした保守反動も、どちらも阻止できるはず。従って、私を含めて科学者達あるいはconscientists(コラム261)からの、人々への活発な働きかけ(リテラシーづくり、シンパシーづくり)が、大袈裟でなく「人類文明の存続」にとって最大要諦なのだと、「こりゃー大変なことになってきたぞ」と思いながら、気づいた次第。 (^_^;) 

20210912追記:用語の定義にもよるので慎重な表現が必要だが、量子コンピュータ実証実験(コラム267)によって「ある種の形而上界が存在する」「その形而上界における知見の幾つかを、人間は入手可能」という二つの事柄が検証された(testified)と言える。

[Pope Francis, Austen Ivereigh]のLet Us Dream: The Path to a Better Future (English Edition)

20210912更に追記:左掲のフランシスコ教皇近著から、上記に関連する箇所を転記しておく。それは78頁:

Understanding how apparent contradictions could be resolved metaphysically, through discernment, was the topic of my thesis on Guardini, which I went to Germany to research.
   Francis, Pope. Let Us Dream: The Path to a Better Future

(訳補:形而下界における)見かけ上の矛盾が、形而上界において、即ちdiscernmentによって、どの様に解決されるのかunderstandする。これが、私がドイツに行って研究し執筆したグアルディーニ思想に関する博士論文のテーマでした。

なお和訳本による当該部の訳 (108頁)は不適切。それは「表出している矛盾を、識別を通して形而上学的に解決する方法を理解することを論文のテーマとしていた私は、研究のためにドイツまで赴きました。」 例えばこの様にdiscerrnmentを「識別」と和訳してしまうと、本来の意味「形而上界における知見を、形而下界から入手すること」が失われてしまう。

20210913追記:新たな社会経済システムを考察する上でとても重要なので、改めて「三大倫理のNgram、1800年~2019年」を載せておく。是非ともクリックしスクリーンを大きくして、特に、20世紀中盤から2019年までの三大倫理のつばぜり合いをジックリとご覧になり、新たな社会経済システムがどうなっていくのか、思いを馳せて頂きたい。

例えば1964年、第二ヴァチカン公会議が佳境を迎えた頃、日本でいえば東京オリンピックの年、圧倒的勢力を持っていたutilitarian ethicsに対抗しうる倫理としてvirtue ethicsではなくdeontological ethicsが想定されていただろう、ということが分かる。

現在のvirtue ethicsの隆盛を見ると「昔の人は何を考えていたんだ」と批判したくなるが、いやいや「未来は常に想定外」。私達も、新たな社会経済システムを考える上で、何が飛び込んでくるか分からない。心をopenにして考えたい。virtue ethicsよりも新しい倫理だってあるのかもしれないのだから…。

分科会2021#4 (9月18日) 開催通知および配付資料

日時2021年9月18日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」  英語版の精読
7.Care of the common home and contemplative dimension、 8. Subsidiarity and the virtue of hope

配付資料

clm.283:amorphous reality, crystalline reality(非晶質現実、結晶質現実)

amorphous reality (非晶質現実)とcrystalline reality (結晶質現実)という、realityの性質や構造を論ずる上で重要な概念が、20世紀の初頭に作られたことを、Google Ngramを調べていて見つけた。メモしておく。

amorphous reality (非晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、非晶質である粘土や溶融ガラスの形や構造を造形家が自由に作り変えるように、作り変えることが出来る。(量子状態の波束の収縮は、観測者(subject、主体)の観測行為に依存する)

crystalline reality (結晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、結晶が自律的にその分子配列や原子配列を決めて形や構造が「結晶化」していくように、その変化はあらかじめ決まっている。(量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まる)

・・・という意味。ネットを調べると、論理学(数学)の専門家などがこの様に盛んに論じているのが分かる。

20210903追記:私達がいると感じているこのa naïve reality は、an amorphous reality なのか、それともa crystalline realityなのか? この問題は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)によって既に決着している。「an amorphous realityである」と。つまり、この形而下界社会構造をどのようにするのか、今のままutilitarian ethicsを続けるのかそれともvirtue ethicsを新たに導入するのか、私達自身が決めて動かない限り、待っていても変化は起こらない。

20210907追記:「私達はan amorphous realityを、ただ傍観して不当利用されるがままにしてはいけない。an amorphous realityのprotagonists (主導者、主人公)に私達はならなければいけない。」ということを、フランシスコ教皇は言っている。(このパワポの4頁目)

clm.282:日本語でも優れたreality解説本がある

reality解説本として既に、カルロ・ロヴェッリのReality Is Not What It Seemsと、ペンローズのThe Road To Realityとを紹介した(コラム257267)。

日本語でも優れた<現実>解説本があるのを見つけた。まだ読みかけだが、皆さんにも知ってもらいたいのでメモしておく。

〈現実〉とは何か ― 数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書)、西郷甲矢人 (著), 田口茂 (著) 2019年12月刊。

既に紹介した前二書が欧米の物理学者が書いたものであるのに対して、本書は日本人、圏論(数学)を専門とする西郷甲矢人(はやと)と、現象学(哲学)を専門とする田口茂の共著。〈現実〉という具合にカギ括弧でくくって、普通の日本語で言いう「現実」とは違うことを表している。英語で言う「無冠詞のreality」。

興味を引いた点のメモ書き:
本書は、集合論に「選択公理」という議論百出の公理があることを紹介している。「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」(wikipedia「選択公理」)というとても単純な「公理」。しかしひとたびこの公理を認めると、「球を適当に分割して、組み替えることで、元と同じ球を2つ作ることができる」(wikipedia「バナッハ=タルスキーのパラドックス」)となってしまうとのこと。私としては「この選択公理を量子論の「波束の収縮」に適用すると、hidden realitiesから、私達がいると感じているようなa naive realityが沢山できることになるのだろうか?」と、多世界解釈(many-worlds interpretation)を思い出してしまった。(^o^)

clm.281:wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」

最近、wellbeingという英語が日本でも散見されるようになった。例えばここ。wellbeingを日本では「よく在る」「よく居る」という、極めてworldly (現世的、世俗的)な意味をあらわす概念ととらえているが、少し違うように私は感じている。メモしておく。

西洋では、wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」に変化しつつあると私は感じている。その背景には、最近起きつつある二つの西洋社会意識変化がある。

一つ目は、コラム270「beingとexistence」で示した「beingは形而上存在、existenceは形而下存在」という意味の分離が起きつつあること。二つ目は、コラム279「Is virtue better than happiness?」に書いた「the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らない」という様に、現行社会構造の屋台骨であるutilitarian ethics(効用主義倫理)に対する疑問が大きくなってきたこと。

なお、ネット上の語源辞典によれば、wellbeingは1610年代に作られた概念。当時の西洋社会は、宗教改革(1517年~)によって一人一人のconscienceの重要性に力点を移すvirtue ethicsが主流になっていく時代。utilitarian ethics(効用主義倫理)はまだ形成されていない。

wellが意味する「善」と、beingが意味する「存在」とを、worldly (現世的、世俗的)に捕らえるのは誤りであると私は感じている。

20210905追記:コラム264で、wellbeingを「霊的幸福」と和訳した。和訳するならこれだが、意味するところは「virtue ethics的に善な形而上存在」であり、このニュアンスを日本語で表せるようになるにはまだ時間がかかるだろう。当面、wellbeingと残す半訳が良いと思う。

clm.279:Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)

帯にある「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立するのか?」に惹かれ購入し一気に読んだ。関口正司によるJ.S.Mill, Utilitarianism(原英文1871年第四版)の新訳、岩波文庫『功利主義』2021年5月新刊。

この設問は、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)という質問に置き換えられる。つまり、この質問への答えが、No, virtue is not better than happiness.(いや、徳は幸福よりも善だとは言えない)となるとき、幸福を追求する生き方が有徳な生き方を内包する。

本書44,45頁(原英文第二章のここ)で、この質問に対しJ.S.Millは「有徳な生き方、あるいは自己犠牲の生き方は、世の中の幸福の総量(the amount of happiness in the world)を増加(increase)させるならば名誉(honour)あるものとされるが、増加させないならば、(関口訳補:苦しむこと自体を目的にして)柱の上に乗っている苦行僧と同様に、なんら賞賛に値しない」と言い切っている。つまり、No, virtue is not better than happiness.と言っている。

更にコテンパンに、「こういう生き方(柱の上に乗っている苦行僧)をする人は、人間は何ができる(can)かを示す点で刺激的かもしれないが、人間が何をすべき(should)かを示す模範例でないことは確かである」とまで述べている。

さて、この考え方の何がマズいのか。それは、量子論によってhidden realitiesの存在が明らかとなった現在、明かだ。つまり、the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らないと分かった今となっては、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)に、J.S.Millの様に「No」と答えることはできない。

J.S.Millが Utilitarianism(第四版)を書いた1871年から150年経った現在、分かったことは多い。最早「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立する」とは必ずしも言えない。

なお、『功利主義』という邦題訳は不適切。関口正司氏も「今回は思い切って効用主義という代案はどうだろうなどと考えたが..」と本書巻末250頁で述べている。私としてはきっぱりと「思い切って」欲しかった。チョット残念!

20210811追記:上記ではJ.S. MillがNo, virtue is not better than happiness.と言っているとしたが、実はそこまで直截な表現はされていない。彼が直截を避けた理由は恐らく、キリスト教教義としては、virtueは地上世界的なものよりもgoodであるとされているからだ。彼は、正確には、
 It is noble to be capable of resigning entirely one’s own portion of happiness, or chances of it: but,  after all, this self-sacrifice must be for some end; it is not its own end; and if we are told that its end  is not happiness, but virtue, which is better than happiness, I ask, would the sacrifice be made  if the hero or martyr did not believe that it would earn for others immunity from similar sacrifices?
という具合に、virtueにかかる関係代名詞whichにコンマ付き非制限用法を使って、「virtue, それは一般的には幸福よりも善であるが」と、巧(たくみ)にキリスト教教義に反抗することを避けている。しかし注意深く読めば「地上世界の幸福の総量を増加させないのであればvirtueのgoodnessは認められない」という極めて帰結主義(consequentialism)的な発言をしていることが分かる。これは「virtueは、それが地上世界的帰結をもたらさなくともその価値は認められる」というキリスト教教義に反している。

clm.275:三体Ⅲ science and stateの足音

[劉 慈欣, 大森 望, ワン チャイ, 光吉 さくら, 泊 功]の三体Ⅲ 死神永生 上コラム256で取り上げた中国SF、劉慈欣『三体』。この三部作の最終巻『死神永生』を読んだ。

中国社会が、表面的には習近平共産党政権により全体主義色を強める中、その奥深く着々と、劉慈欣のような最新科学を知る人々によって、science and state社会構造作りが深く静かに進められている、と私は感じた。

西洋社会に見られるchurch and stateではない。science and state。則ち、宗教ではなく科学が生み出す倫理観価値観と、国家(state)が生み出す倫理観価値観とを拮抗併存させ、freedom(一人一人それぞれのconscienceが許す範囲の自由)を人々が獲得していく社会構造。この構築が中国社会において深く静かに進められている、と私は感じた。

巻末のあとがきから、劉慈欣の発言を二つ拾うと:

科学技術が急速に発展する現代、SFの想像力の役目について尋ねられた劉慈欣は、「(表面に)見えているのは技術の変化に過ぎない。その奥底にある科学の原理は解明の途上にある。新たな原理が世界観に変革を強いるときにこそ、SFの出番」と答えたそうだ。

2020年8月には、日本のSFファンが投票で選ぶ第51回星雲賞海外長編部門を『三体』日本語版が受賞。その「受賞の言葉」の中で劉慈欣は次の様に語っている。
「この小説のテーマは、人類と異星文明とのコンタクトです。本書を通じて、それが単なる絵空事ではなく、非常に現実的な問題だということを描こうとしたつもりです。なぜならそれは、いつ起きてもおかしくないからです。
 もちろん、本書が描いているのは無数の可能性のうちのひとつでしかありません。他にも様々なシナリオがありうるでしょう。しかし、その全てに共通していることがひとつあります。それは、全人類がともに直面しなければならない問題だということです。人類がどの様な未来にたどり着くかは、いまの私達全員に共通する選択と努力に大きく左右されます。もし『三体』がこの点において皆さんの共感を得ることが出来たら、著者としてはこれ以上の喜びはありません」。

…前者の発言は、量子論が世界観を大きく変えることを、後者の発言は「現代の社会問題の解決に国家は無力」とのフランシスコ教皇の発言を、彷彿とさせる。

なお、『三体Ⅲ 死神永生 下巻』に『三体Ⅱ』の主人公・羅輯(ルオ・ジー)が、長期保存がきく情報ストレージとして「ぼくらの時代の光磁気ディスクは、とりわけ復元性が高かった」と発言している。私(齋藤)は、実は、35年間の会社生活の前半半分を光磁気ディスク開発エンジニアとして送った。劉慈欣、ありがとう! うん、光磁気ディスクは21世紀に入って間もなく世の中から消えたけど、素晴らしいストレージデバイスだったと私も思う。

tuntum quantum:as much as quantities:その同じ量だけ(副詞句)

現在では「量子」という意味で使われる「quantum」というラテン語。これが、イエズス会創設者イグナチウス・ロヨラによって約五百年前、重要語句として使われていた。「”pope Francis” +”quantum”」とググっていて気づいたのでメモしておく。

左掲を半訳すると:

tuntum quantum
 so much as(その同じ量だけ、副詞句) 聖イグナチウスの著書『霊操の基礎と原理』(1548年発刊、ラテン語)の中で、被造物のright useを説明するために、次の様に使われたラテン語用語。「私達は、被造物を、それが私達を最終目的へと導く量(quantum)だけ使い、私達が創造された目的の達成を邪魔する量(quantum)だけ脱却することが可能です。」

(半訳注意点:be to 不定詞は、予定、義務、意図、可能、運命の意味で和訳することが出来るが、ここでは可能の意味で訳してみた。)

・・・フランシスコ教皇は、若い頃は大学で化学を学び関連の研究所で働き、黎明期の量子力学を学んだだろう。そしてその後イエズス会に入った。彼にはquantum theory(量子論)が、二つの意味を持っていると感じられるのかもしれない。

clm.270:beingとexistence

前回コラムで、realityにはa naive realityとhidden realitiesがあることを説明した。同様に、人間存在にも二様ある。a naive realityにおける人間存在(a human existence)と、hidden realitiesにおける人間存在(a human being)。大まかに示すためにとりあえず図にしてみた。これも、考えが整理できたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。

20210501追記:フランシスコ教皇が2015年訪米した際行ったreligious libertyに関する論考の第6段落にあるthe transcendent dimension of human existence。意味するところを私はこの様にとらえている。

20210503追記:beingの意味を英辞郎で調べると、3番目に「本質」が出て来る。ここでは「本質存在」と訳してみたい。existenceの方は、「地上世界的存在」「俗世存在」あたりがいいかな? あるいは、beingを「形而上存在」、existenceを「形而下存在」、と和訳するのもいいかもしれない。

20210503追記:そうすると教皇の新カテケーシス「この地上世界を癒すために その2」にある:
The human being, indeed, in his or her personal dignity, is a social being, created in the image of God, One and Triune.  は、
人間の形而上存在はまさに、his or her personal dignityの中にあって、三位一体の神の似姿に創られた、(形而下界に)社会を構築する形而上存在です。  と半訳できるかな。

clm.269:reality構成図

“structure of reality”とググると、出るわ出るわ、Springer, Oxford, Cambridge,,,と名うての学術出版がテキストを出している。これに習って私もまだメモ書き程度だが、reality構成図を書いてみた。

頭の中を整理するために書いたので、説明は無し。考えがまとまってきたら小文を書く予定。宜しかったらご覧下さい。(^o^)

20210422追記:フランシスコ教皇の言う religions in dialogue with science が「科学という共通言語で対話する諸宗教」という意味だと思うのは、私の頭の中がこう整理されているからかな。(^_^;)