分科会2021#4 (9月18日) 開催通知および配付資料

日時2021年9月18日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ教皇フランシスコの思想 新カテケーシス「この地上世界を癒すために」  英語版の精読
7.Care of the common home and contemplative dimension、 8. Subsidiarity and the virtue of hope

配付資料

clm.283:amorphous reality, crystalline reality(非晶質現実、結晶質現実)

amorphous reality (非晶質現実)とcrystalline reality (結晶質現実)という、realityの性質や構造を論ずる上で重要な概念が、20世紀の初頭に作られたことを、Google Ngramを調べていて見つけた。メモしておく。

amorphous reality (非晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、非晶質である粘土や溶融ガラスの形や構造を造形家が自由に作り変えるように、作り変えることが出来る。(量子状態の波束の収縮は、観測者(subject、主体)の観測行為に依存する)

crystalline reality (結晶質現実):
 私達がいると感じているa naïve reality (一つの素朴現実)は、結晶が自律的にその分子配列や原子配列を決めて形や構造が「結晶化」していくように、その変化はあらかじめ決まっている。(量子状態の波束の収縮は、対象(object、客体)だけで決まる)

・・・という意味。ネットを調べると、論理学(数学)の専門家などがこの様に盛んに論じているのが分かる。

20210903追記:私達がいると感じているこのa naïve reality は、an amorphous reality なのか、それともa crystalline realityなのか? この問題は、量子コンピュータ実証実験(コラム267)によって既に決着している。「an amorphous realityである」と。つまり、この形而下界社会構造をどのようにするのか、今のままutilitarian ethicsを続けるのかそれともvirtue ethicsを新たに導入するのか、私達自身が決めて動かない限り、待っていても変化は起こらない。

20210907追記:「私達はan amorphous realityを、ただ傍観して不当利用されるがままにしてはいけない。an amorphous realityのprotagonists (主導者、主人公)に私達はならなければいけない。」ということを、フランシスコ教皇は言っている。(このパワポの4頁目)

clm.282:日本語でも優れたreality解説本がある

reality解説本として既に、カルロ・ロヴェッリのReality Is Not What It Seemsと、ペンローズのThe Road To Realityとを紹介した(コラム257267)。

日本語でも優れた<現実>解説本があるのを見つけた。まだ読みかけだが、皆さんにも知ってもらいたいのでメモしておく。

〈現実〉とは何か ― 数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書)、西郷甲矢人 (著), 田口茂 (著) 2019年12月刊。

既に紹介した前二書が欧米の物理学者が書いたものであるのに対して、本書は日本人、圏論(数学)を専門とする西郷甲矢人(はやと)と、現象学(哲学)を専門とする田口茂の共著。〈現実〉という具合にカギ括弧でくくって、普通の日本語で言いう「現実」とは違うことを表している。英語で言う「無冠詞のreality」。

興味を引いた点のメモ書き:
本書は、集合論に「選択公理」という議論百出の公理があることを紹介している。「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」(wikipedia「選択公理」)というとても単純な「公理」。しかしひとたびこの公理を認めると、「球を適当に分割して、組み替えることで、元と同じ球を2つ作ることができる」(wikipedia「バナッハ=タルスキーのパラドックス」)となってしまうとのこと。私としては「この選択公理を量子論の「波束の収縮」に適用すると、hidden realitiesから、私達がいると感じているようなa naive realityが沢山できることになるのだろうか?」と、多世界解釈(many-worlds interpretation)を思い出してしまった。(^o^)

clm.281:wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」

最近、wellbeingという英語が日本でも散見されるようになった。例えばここ。wellbeingを日本では「よく在る」「よく居る」という、極めてworldly (現世的、世俗的)な意味をあらわす概念ととらえているが、少し違うように私は感じている。メモしておく。

西洋では、wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」に変化しつつあると私は感じている。その背景には、最近起きつつある二つの西洋社会意識変化がある。

一つ目は、コラム270「beingとexistence」で示した「beingは形而上存在、existenceは形而下存在」という意味の分離が起きつつあること。二つ目は、コラム279「Is virtue better than happiness?」に書いた「the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らない」という様に、現行社会構造の屋台骨であるutilitarian ethics(効用主義倫理)に対する疑問が大きくなってきたこと。

なお、ネット上の語源辞典によれば、wellbeingは1610年代に作られた概念。当時の西洋社会は、宗教改革(1517年~)によって一人一人のconscienceの重要性に力点を移すvirtue ethicsが主流になっていく時代。utilitarian ethics(効用主義倫理)はまだ形成されていない。

wellが意味する「善」と、beingが意味する「存在」とを、worldly (現世的、世俗的)に捕らえるのは誤りであると私は感じている。

20210905追記:コラム264で、wellbeingを「霊的幸福」と和訳した。和訳するならこれだが、意味するところは「virtue ethics的に善な形而上存在」であり、このニュアンスを日本語で表せるようになるにはまだ時間がかかるだろう。当面、wellbeingと残す半訳が良いと思う。

IPCC、温暖化人為説を公理化(axiomatize)

IPCC第6次報告書が、人間活動の温暖化への影響は「疑う余地がない」と断定した。(20210810日経朝刊一面記事、日経有料会員ならここで閲覧可)


私の感想:「断定した」という表現は不適切。科学を良く知らない人には誤解を招くと思う。ひと言注意を促すと、これは科学における「公理化」。だからfalsifiable (反証可能)。今後もし「疑う余地がある」というcontraly evidence(反証)が出て、それが検討されたのち「確か」となれば、誤りを認め訂正する準備は出来ている。

「断定」でなく「公理化」という表現を使って欲しかったが、それには「公理」という言葉の意味がもう少し一般に知れわたる必要があるのだろう…。

clm.280:自分達で地域を中心に経済と社会と文化を創造する

迫力のある本だった。結論部(Kindle位置No.860-862):

もはや国家や資本に依存して仕事と暮らしと文化と教育の将来を展望する思考は捨て去った方がいいのかもしれません。自分たちで地域を中心に経済と社会と文化を創造し、学校を中心に子どもたちの未来と地域社会の未来を創出する、その発想に立った改革の展望を拓くべきでしょう。

・・・が印象に残った。

clm.279:Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)

帯にある「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立するのか?」に惹かれ購入し一気に読んだ。関口正司によるJ.S.Mill, Utilitarianism(原英文1871年第四版)の新訳、岩波文庫『功利主義』2021年5月新刊。

この設問は、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)という質問に置き換えられる。つまり、この質問への答えが、No, virtue is not better than happiness.(いや、徳は幸福よりも善だとは言えない)となるとき、幸福を追求する生き方が有徳な生き方を内包する。

本書44,45頁(原英文第二章のここ)で、この質問に対しJ.S.Millは「有徳な生き方、あるいは自己犠牲の生き方は、世の中の幸福の総量(the amount of happiness in the world)を増加(increase)させるならば名誉(honour)あるものとされるが、増加させないならば、(関口訳補:苦しむこと自体を目的にして)柱の上に乗っている苦行僧と同様に、なんら賞賛に値しない」と言い切っている。つまり、No, virtue is not better than happiness.と言っている。

更にコテンパンに、「こういう生き方(柱の上に乗っている苦行僧)をする人は、人間は何ができる(can)かを示す点で刺激的かもしれないが、人間が何をすべき(should)かを示す模範例でないことは確かである」とまで述べている。

さて、この考え方の何がマズいのか。それは、量子論によってhidden realitiesの存在が明らかとなった現在、明かだ。つまり、the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らないと分かった今となっては、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)に、J.S.Millの様に「No」と答えることはできない。

J.S.Millが Utilitarianism(第四版)を書いた1871年から150年経った現在、分かったことは多い。最早「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立する」とは必ずしも言えない。

なお、『功利主義』という邦題訳は不適切。関口正司氏も「今回は思い切って効用主義という代案はどうだろうなどと考えたが..」と本書巻末250頁で述べている。私としてはきっぱりと「思い切って」欲しかった。チョット残念!

20210811追記:上記ではJ.S. MillがNo, virtue is not better than happiness.と言っているとしたが、実はそこまで直截な表現はされていない。彼が直截を避けた理由は恐らく、キリスト教教義としては、virtueは地上世界的なものよりもgoodであるとされているからだ。彼は、正確には、
 It is noble to be capable of resigning entirely one’s own portion of happiness, or chances of it: but,  after all, this self-sacrifice must be for some end; it is not its own end; and if we are told that its end  is not happiness, but virtue, which is better than happiness, I ask, would the sacrifice be made  if the hero or martyr did not believe that it would earn for others immunity from similar sacrifices?
という具合に、virtueにかかる関係代名詞whichにコンマ付き非制限用法を使って、「virtue, それは一般的には幸福よりも善であるが」と、巧(たくみ)にキリスト教教義に反抗することを避けている。しかし注意深く読めば「地上世界の幸福の総量を増加させないのであればvirtueのgoodnessは認められない」という極めて帰結主義(consequentialism)的な発言をしていることが分かる。これは「virtueは、それが地上世界的帰結をもたらさなくともその価値は認められる」というキリスト教教義に反している。

五輪ガンダム

オリンピック野球、侍ジャパン、金メダルおめでとう。50年ぶりくらいで作ったプラモデル、五輪ガンダムを記念にアップ。