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clm.252:価値の可測性、virtueとutility

「功利主義倫理による経済って何?」という質問が読者から来た。無理からぬことだ。中国であろうが米国であろうが北朝鮮であろうがイラクであろうが、世界中でこの経済システムが、空気や水のように「当たり前」になっている。つまり、18世紀西洋に始まる産業革命「以前」の経済に比べて、この経済が如何に異様なのか、分からなくなっている。誰もが「これって何?」と改めて問うことはしない。経済とはそういうものだとあきらめている。

ましてや日本人は、19世紀の明治維新で西洋社会経済システムを突貫輸入したのだから、産業革命以前の経済がどうだったのか体験していない。「比較対象」との対比がシッカリとできない。

質問してきた読者と何回かメールでやり取りして回答した。以下に、推敲した回答を転記しておく。キモは、一般市場におけるmeasurability of value(価値の可測性)が、utility(効用)には有るがvirtueには無い、となる。


「功利主義倫理による経済って何?」というご質問ですが、そもそもutilitarianismを功利主義と和訳したのが誤解の元だと思います。「効用主義」と和訳すべきだった。なので、効用主義倫理(utilitarian ethics)ー 効用(utility)は価値があるという価値観、「役に立つことは善いことだ」という倫理観 ー による経済、現在世界人口約74億人の全てが与る経済、について説明します。

効用経済学(utility economics)は、効用(utility)の価値が、一般市場での需要と供給のバランスによって、measurability(可測性)を持つというのがミソです。そうして、価値測定可能となった効用(utility)の、或る社会範囲における「総和」の最大化を図る。これが、効用主義倫理(utilitarian ethics)による効用経済学(utility economics)です。

他方virtueは、一般市場での価値の可測性は持たないだろう、ということが研究者の間で今盛んに議論されています。(block chain技術を上手く使えばもしかしたら,,,という議論はあります。)

virtueの価値は、特定の人と特定の人との間でしか認められないものです。典型例は、夫婦の間で成り立つ、夫のvirtueの価値と妻のvirtueの価値です。これらの価値は、その特定の夫婦の間では互いに認め合うものでしょうが、他人にとっては認めにくいものです。一般市場での価値の可測性は持ちようがない、というのが研究者の間での今のところの見解です。

しかしそうすると、価値の総和を計測しそれを最大化しようとすることが出来なくなってしまうのでしょうか。virtueの価値をやり取りする「経済」は成り立たないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。

何らかのテーマで集まったpartnershipのpartnersの間では、そのテーマに関する物事・情報などに関して価値を測定(あるいは、仮決め)することは可能です。例えば、あるテーマの研究開発をするventure partnershipに集ったpartnersの間で、関連するアイデアや特許に対して価値を測定することは可能です。(private equity:私的衡平価値)

特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの、あるいは価値あるもの「候補」の中から、多くの人達が認める価値あるもの、出来れば、皆が認める「普遍的」価値あるものを、如何にして見いだしていくのか。これを考えるのがvirtue ethicsによるvirtue economicsだと言えるでしょう。

もうお分かりになったと思いますが、科学技術研究開発は、virtue economicsと相性が良いだろう、ということが研究者の間では取り沙汰されています。

話しを始めると何時間でもできてしまうので、ここでやめますね。  齋藤

[追記20200421] 「特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの…virtue economicsだと言えるでしょう。」の段落が腑に落ちない、というコメントが読者から寄せられた。それに対して、

virtue economicsは、真に価値あるものを見いだす力を持った人々が存在する、ということが前提となっています。もしそういった人々(キリスト教ではthe peopleと呼びます)がいないならば、virtue economicsは成り立ちません。

・・・と答えておいた。

clm.251:Virtue Economics (徳倫理経済学)の揺籃

現行経済システムは、世界中何処でも、共産主義経済であれ社会主義経済であれ自由主義経済であれ、utilitarian ethics(功利主義倫理、というより効用主義倫理というべき)の上に築かれている。

則ち、utility(効用)は「価値あるもの」という価値観、「役に立つことは善いことだ」という世俗的倫理観。この極めて「地上世界的」考え方が、産業革命開始と共に18世紀西洋において生み出され、その上に「効用総和の最大化」を目的とする経済システムが築かれ、日本を始め世界中に広まっていき、或る種の豊かさをもたらしていった。

それから二百年ほど経った20世紀末、ソ連の社会主義経済が崩壊(1991年)し、次いで21世紀初頭、リーマンショック(2008年)により自由主義経済も崩壊の一歩手前までいった。そうした中、現行経済システムは「制度寿命」を迎えているのではないのか、こうした意見が宗教家や倫理学者から出された。

現行経済システムの枠組みの中で何をどうやっても最早回復することはないのでは…。そんな観測が広がる中、経済の基礎となる倫理学から問い直し、新たな経済学、特にvirtue ethics (徳倫理)を基礎とした経済学 - Virtue Economics (徳倫理経済学) ー を模索しようという動きが本格化してきた。Utility EconomicsからVirtue Economicsへ。基礎テキストも出始めたので幾つか紹介する。

一冊目は2019年6月The Oxford Handbook of Ethics and Economics刊オックスフォード・ハンドブック『諸倫理学と諸経済学』。三大倫理といわれる、功利主義倫理、義務論倫理、徳倫理、それぞれに立脚した経済学を紹介している。要約を半訳すると:

Abstract (要約):様々な倫理学が、それぞれどの様な経済の理論と実践を形成する/形成できる/形成すべきなのか、本書 The Oxford Handbook of Ethics and Economicsは タイムリー且つ細大漏らさず調べ上げている。第一部のFoundationsでは、主要倫理学それぞれがどの様に経済学に関わってきたのか、 則ち、様々な経済行動に適したmoralsがどの様にして生まれ、それぞれの経済の実現のためにどの様なethics(倫理)が機能するようになったのか、丹念に調べている。第二部の Applicationsでは、商業、金融、市場の各倫理を観察し、社会厚生・リスク・他への危害を考慮して意志決定をする際、どの様なmoral dilemmasが生ずるのかを明らかにしている。例えばヘルスケアや医療や環境問題など、経済の主要問題に関しどの様にethics(倫理)が関わるのか、調べている。結論部では議論の方向を一転し、諸倫理学は諸経済学から何かを学びうるとも勧告している。経済学と哲学を代表する論者を一堂に会し、本書 The Oxford Handbook of Ethics and Economicsは、両分野(と、政治科学、社会学、心理学など)の研究者だけでなく、政策立案者、ジャーナリスト、平信徒など所謂“consumers” of economicsにとっても貴重な資料となる。本書は、過去に起きた諸経済学と諸倫理学との緊密な関係性だけでなく、これから起きるであろう更なる高次統合(integration)への基礎を築くものである。Keywords: economics, ethics, economics and ethics, morality, choice, policy, welfare, rights

その第二論文「徳と経済、馬と馬車」(Virtue and Economics, Horse and Cart)で著者 Jennifer A. Bakerは、Virtueの定義として、Julia Annasの「Virtueとは、勇気あるいは正義感といった称賛される特質的性格のうち、何をすべきか実践的に十分な理由付けを伴い、これらが事実によって一つになったvirtuesのことである。他方、一つ一つのvirtueは、人の素質、神の思し召しである。(A virtue is a disposition.)それは、実践によって構築された行動習慣であり、決して無意識の癖の一つと考えてはならない。なぜならそれは沈思熟考し意志決定するための一つのdisposition(【名-1】(人の)素質、【名-2】(神の)思し召し (英辞郎))なのだからである。」を紹介している。日本語で言う「徳」、仁義礼智信忠孝悌に代表される「徳」と、virtueは大部異なることを掴んで頂きたい。

二冊目はそのJennifer A. Bakerの2016年刊『経済学と諸徳:一つの新たな倫理基礎の構築』Economics and the Virtues: Building a New Moral Foundation。これはvirtueとして、アリストテレスのニコマコス倫理学の定義によるvirtue、トマス・アクイナスの定義によるvirtue、カントの定義によるvirtue、そしてここ50年ほどで勃興する現代のvirtue ethicsの定義によるvirtue 、などのそれぞれのvirtue ethicsをとりあげ、それぞれに対応する経済学を論じている。要約を半訳すると:

Abstract (要約):アダム・スミス(あるいはアリストテレス)以来、倫理学は経済学にとって枢要な分野であり続けているが、その一方で、現代の経済学者の多数は、増え続ける数学様式と計算手法に振り回されて倫理学からのアプローチに関心を失ってしまっている。しかしながら近年世界を悩ます度重なる金融危機は、経済学における倫理学の重要性に関する議論に再び火をつけた。経済理論・実践・政策に倫理哲学を統合する新たな手法を求める声が、日に日に高まっている。皮肉なことに、最も有望な経済発展に繫がると思われるモデルの一つは、アリストテレスやアダム・スミスによって発展したthe ethics of virtue (徳の倫理学)であり、the virtues, character, and judgment of the agentsの重要性を強調するものである。本書 Economics and the Virtuesでは、editors Jennifer A. Baker and Mark D. Whiteが、14名の著名な経済学・哲学研究者を一堂に会し、viirtueを経済学に統合する際に必要となる新たな観点を多数提供している。第一部では、the virtue traditionを専門とする5人の研究者により、倫理と経済の接続の歴史を追い、新たな協業分野があり得ることを見いだしている。第二部では、the ethics of virtue(徳の倫理学)を現代経済理論に当てはめることで、現在の経済学方法論とその実践を深掘りし、倫理哲学と統合できる候補分野を幾つか提案している。最終部、第三部では、市場、利益、正義などの特定の話題を、 virtue and vice(善徳と悪徳)の文脈において展開し、経済学にvirtueをどの様に適用するのかに関し貴重な提案を行っている。Keywords: economics, ethics, virtue, virtue ethics, markets, choice, theory, history, methodology

三冊目は、オランダのTilbergカトリック経済大学で神学と経済学の教授を務める J.J.フラーフラントによる『市場倫理とキリスト教倫理: 市場・幸福・連帯』。序論の最初の部分を転記すると:

カトリックの改革派を含む世界改革派教会同盟(WARC: World Alliance of Reformed Churches、現在はWCRC: World Communion of Reformed Churches)は、2004年8月、ガーナのアクラ(Accra、ガーナの首都)において、世界経済に関する信仰表明を宣言した。その宣言は、富める者と貧しい者との間のとてつもない格差に言及している。例を挙げれば、豊かな上位1%の人々の年間所得は、貧しい下位57%の人々の所得と等しく、24,000人の人々が貧困と栄養不足で毎日亡くなっており、貧しい国々の負債は増大し続けている…。

本の帯には:市場経済は人間を豊かにするか。今日までの市場競争は、高い経済成長を実現する一方で、所得格差の拡大、環境破壊、金融危機などを引き起こしてきた。果たして市場は「幸福」にどう影響するのか? 「正義」への配慮に役立つのか? 愛や寛容などの「徳」を促進するのか? 市場作用に関する最新の経済学的研究成果を提示しながら、聖書に基づく倫理観を読み解き、キリスト教信仰と経済の関連性を体系的に明らかにする野心的な試み!…とある。

四番目に、文献ではないがVirtue Economicsに関しYouTubeで解説している日本語による説明を見つけたので貼り付けておく。eudaemoniaの意味するところを”good life”にする部分は、「good lifeでなくto live wellである」とするフランシスコ教皇と齟齬があるが、大枠において、カトリック改革派が推進するVirtue Economicsを上手く説明しているように思う。     今回は以上。

clm.250:IBD update ~ オバマの二期目 新経済は堅調に推移

米国内国歳入庁 所得統計部 Integrated Business Data、2014年分2015年分が付け加えられた。これに伴い当サイトの関連グラフも改訂した。オバマの二期目(2013-2016)にも、新経済が堅調に推移したことが分かった。

1頁目「費用対効果の比較」:ご覧の様に米国は、1991年に経済システムを劇的に変更した。corporateを中心とする旧経済からpartnershipを中心とする新経済に移った。今回の IBD data updateで、2014年2015年もpartnershipの費用対効果(コストあたり利益率)が10%を超えて順調だったことが分かる。2009年に大統領に就任した直後、economic  substance doctrineをcodifyしpartnership経済を後押ししたオバマの「面目躍如」といったところだろう。なお今回から、この新経済を始めた民主党ビル・クリントンも載せることにした。YouTubeアイコンをクリックすると、1992年の大統領選挙テレビ討論会で、共和党パパ・ブッシュ候補をケチョンケチョンにするビル・クリントン候補の名セリフの数々を聞くことができる。この後、”It’s the economy, stupid !”(それじゃー、現行経済のままだよ、お馬鹿さん!)のキャンペーン スローガンで、選挙戦前にあった共和党パパ・ブッシュ有利の大方の下馬評をひっくり返し、地滑り的大勝を民主党ビル・クリントンは成し遂げることになる。もう、30年近く前のことであり、若い人は知らないかもしれない。是非、この歴史的質疑応答、お聞き下さい。

2頁目「全米全産業利益の構成比の推移」:これも、構成比に大きな変化はない。新たな経済が安定した構成比を占めるようになったようだ。

…ところが、御存知の通り、2016年の大統領選挙では、多くの人が意外に思ったトランプが、大方の予想では有利とみられていたヒラリー・クリントンをやぶって大統領に選ばれた。どうしてそうなったのか? これを考えるヒントを3頁目に示した。米国Tax Fooundation連邦税小規模事業税調査部が示したグラフ。ちなみにこの調査機関は、米国における税と経済の関係について、私とほとんど同じ見方をしている。IRS-SOI-IBDのまとめかたも私とソックリ。去年4月には、Corporate and Pass-through Business Income and Returns Since 1980(コーポレートとパス・スルー事業体との、1980年以来の所得と税務申告の比較)という、私とそっくりのグラフを載せてきた。ここの意見では、トランプ出現の原因は…。

3頁目「企業数では1%に満たない大企業が、民間セクター労働者のほぼ半分を雇用している」。元記事はここ。つまり依然として、人々の大半は大企業の従業員となってサラリー(定期的固定給与)をもらって日々の生活を営んでいる。だから、新経済が産業利益の大半を占めるようになったとはいえ、自分達の生活を成り立たせる上ではあまり関係がない。むしろ、旧経済の大規模corporateが栄えてくれた方が自分達の暮らしが豊かになる。こういう人々が未だほぼ半数近くいる。…このsilent majorityの声を巧に取り込んだのがトランプだった…。

...さて今回は、メルマガ会員登録をしている米国IRSから「IBD update」を知らせるメールが私のところへ舞い込んで、一気呵成に記事を書いてみた。検討が足りないところも多々あると思う。今後の修正・追記をお許し下さい。この記事は「速報」ということで…。

clm.249:the metaphysics of quantum physics

かつて科学(science)は「観測できるもの触れるもの」だけが現実(reality)だとする考え方、即ち、素朴現実論(naive realism)の上で組み立てられていた。

だから例えば「本当に大切なものは目には見えない」というサン・テグジュペリの名言は、多くの人間が心情的には共感するものであっても、「科学的」とは言えなかった。「非科学的」と考える人が多かった。

しかしこれが、最近の量子力学実験によって一変した。

まず20世紀の終わり頃、観測することも触ることもできない幾つもの現実 ー 隠された幾つもの現実、hidden realitiesこの呼称の発案者は柳瀬睦男) ー が実際に存在するということが、Bell実験によって実証された。

ついで21世紀に入り、初期段階ではあるが量子コンピュータが実現し、hidden realitiesは観測することも触ることもできないのに確かに存在し更に「利用可能」であることが実証された。量子コンピューターとは、簡単に言えば、hidden realitiesの一つ一つのrealityに、様々な初期値から同時並行で「解」の探査をさせるようなもの。中には一瞬で「解」に到達するrealityもあるため、古典コンピュータに比べ計算速度が格段に速い。つまり量子コンピューターが機能するということは、hidden realitiesが「利用可能」※)であるということにほかならない。

(※追記20200218:この表現はindividuals的だと気づいた。つまり半面的。私の中のpeoples的半面から、「hidden realitiesに関し私達は何らかのresponsibilityを担っている」という様な表現も付け加えるべきだった。自然を利用することばかり考えるのはエンジニアの悪い癖。反省!)

Bell実験と量子コンピュータ機能確認によって、観測することも触ることもできない幾つもの隠された現実の存在が疑う余地の無いものになった。「観測できるもの触れるもの」以外の現実が、現に存在することが確かめられた。素朴現実論(naive realism)が実験によって否定された。

「本当に大切なものは目には見えない」を「非科学的」とは言えなくなった。

この「驚愕の事実」に哲学者達はいち早く対応した。例えばニューヨーク市立大学の哲学者であるAlberto Corderoは1990年に”post-Bell physics”という用語を作り、哲学を新に構築し直す仲間作りを開始した。そしてSpringerから去年8月に、上掲のPhilosophers Look at Quantum Mechanics『量子力学を注視する哲学者達』(Springer Link)を出版した。

標題の”the metaphysics of quantum physics”でGoogle検索すると約3万件ヒットする。その意味は、physicsの訳語を「物理学」でなく「形而下学」としたほうが分かりやすい。「量子論形而下学の形而上学」という、ちょっと矛盾した意味。形而下学 ー 観測できるもの触れるものを科学していったら、いつの間にか形而上学 ー 現象を超越し、その背後に在るものの真の本質、根本原理、存在そのものなどを探究しようとする学問。神・世界・霊魂などをその主要問題とすることが多い(広辞苑 第七版) ー に辿り着いてしまったという意味。

この様に哲学者達の動きが速いのに比べ、宗教者達の動きは西洋においても遅い。これが、フランシスコ教皇がラウダート・シの中で幾度も「religionsとscienceのdialogue」(第10番bridge)を促す所以。Religious Believers Look at Quantum Mechanicsというような本が早く出版されないかなと、更にいえば、ラウダート・シ英語版がその第一号だと、教皇は考えているのだろう。

追記:「その第ゼロ号」として栁瀬睦男先生を挙げておくべきだった。幾つかの論文を紹介する。

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clm.248:bridges between peoples and individuals

始めに断っておくと、この様に二次元的な図あるいは三次元的なモデルでは、超越的次元に存在するものを表すことはできない。部分的に切り取ってくることはできるかもしれないが、それは枝葉の切り取りに過ぎないかもしれず、本質的な部分を見落としている可能性もあり得る。つまり「決定版」を作ることはできない。しかし、この様な部分抽出を繰り返しそれらをつき合わすことで、いつの日か、超越的次元に存在するものにrevisitできるのではないか。そう期待している。

数学でいうと、必要条件を一つ一つ丹念に探していってそれらを合わせると何時か必要十分条件に至る、という解法。ただ、私の目下の目標は、超越的次元にあるだろう「解」までは求めていない。見つかるに越したことはないが、そこまで途方もないことは求めていない。私の目下の目標は、フランシスコ教皇社会思想の全体像。これが、超越的次元にあるだろう「解」に至る途上に見つかる補助定理(lemma)かもしれない。…というのは私の単なる「勘」。でも、数学問題を解くというのは常にこういう具合。「勘」あるいは”a quantum leap”が大切。

ということで、2018年末私は、フランシスコ教皇社会思想の一つの必要条件「justiceだけでは足りない」を取り上げた。今回、2019年末は、もう一つの必要条件「bridges between peoples and individuals」を取り上げる。二つを繋げると「justiceだけでは足りないbridges between peoples and individualsも必要」ということ。これで、フランシスコ教皇社会思想を十分に表しているかというとそうではない。図の中央に「?」がある。moneyへのbridgeの詳細が未だ把握できていない。つまりフランシスコ教皇社会思想は、経済関連のbridgesが未完成。また、必要な要素がbridgesの他にも更に見つかるかもしれない。なお、bridges between peoples and individualsは、popular movements 2017教皇メッセージの第二段落にある言葉。この運動は、まだまだ続く。

clm.246で紹介したChurch and Stateの図と、bridgesの図とを比べてみよう。似ているが違いがある。違いは大きく分けて二つ。一つ目は、教会と国家という「組織」から、peoplesとindividualsという「人間達」へと視点を移したこと。二つ目は、教会をpeoplesに「拡張」したこと。順に説明する。

一つ目、「組織」から「人間達」に視点を移したこと。この背景には、国家という「組織」が教会(宗教)の枝葉は受け入れてもその本質 — 例えば「核なき平和」を受け入れることが決して無い、ということがある。つまり両組織の「折り合い」は、ある程度進んだ後どこかで必ずストップする。折衷は膠着状態に必ず陥る。なぜなら、国家は例えば「核の傘の下にいるから国家は安泰でいられる」という「核による平和」論理から決して離れない。国家はその存立原理である近代合理主義により、主観的相互信頼よりも客観的power balanceによって平和を維持しようとする。従っていったん急あれば自国第一主義に陥り、他国を滅ぼしてでも自国の存在を守ろうとする。

しかし人間達は違う。一人一人の人間は機械ロボットではない。心を持っている。様々な心を持っている。ひとりひとり誰もが、peoples的心とindividuals的心と合わせ持っている。一人の人が、scienceもreligionも深く理解することがある。the legalもthe lawfulも深く理解することもある。誰も、国家の一律一様な規範に心の底から良いと思って従っているわけではない。より良い規範あるいは秩序があるはずだと思っている。極端に言えば、もし国家がなくても安心して豊かに活動的に暮らしていけるのであれば「国家」は無くてもよいと思うだろう。そうなれば「核の傘」は必要なくなり「核なき平和」が現実のものとなる。この様に、組織同士の折り合いから人間同士の折り合いに「折衷」の舞台を変えることによって、折り合い(折衷)が更に進む可能性が出てくる。

二つ目、peoplesとは何か。personの複数形であるpeopleの更に複数形、二重の複数形であることに注意されたい。それはキリスト教教会に来る人達だけを指すのではない。bridgesの図の左側、peoplesの列(緑字)の下の方にreligions(諸宗教)とある。つまりpeoplesとは、キリスト教信者達、仏教信者達、イスラム教信者達、、、「或る普遍的信条を共有する集団が複数集まった大集団」を意味する。集団ごとに普遍的信条が異なっても良い。

bridgesの図の右側、individualsは単純にindividualの複数形。その列(青字)の下の方にはstate(国家)とある。これは単数形。つまり多様性は、religionsには有るがstateには無い。実はstateに限らず右列(青字)の全ての項目は単数形であることに注意されたい。究極の近代合理主義は単一なものと考えられる。民族や地域が違っても客観的に「一つ」に収束すると考えられる。映画マトリックスでは、同じ顔に同じ黒サングラス、同じスーツのエージェント達がマトリックス世界を陰で支配しているが、右列(青字)が表す世界の究極はこのイメージ。

popular movements、即ち、making bridges between peoples and individualsの最終目標は、この右列(青字)が表す世界を最小化し、bridgesの世界を最大化することにある。つまりフランシスコ教皇がこの運動を続ける目的、それは、地球全体を平和にすること。

以上でbridgesの図の説明をひとまず終えたい。未だ色々説明が必要だろうと思うが、それはまた追々。

clm.247:駄洒落発見 quantumとquandam(羅語:元々備わっている)

駄洒落を見つけた! なんとLaudato Si’ 103 英語版とラテン語版の間に。ヴァチカン関係者にもこういうユーモアの持ち主がいる。そのまま公開を許したフランシスコ教皇も相当なユーモアの持ち主。きっと、クスクス笑いながらネットの中にそっと仕掛けたのだろう。ただ、この駄洒落、意味するところは深淵だ。「quantum leap (量子論的跳躍)、それは人間という生命に元々備わっている豊かさ」と言いたいのだろう。ラングドン教授もこの謎を解くのは苦労するに違いない。ダン・ブラウンの次回作辺りに、盛り込んで欲しいな。(^_^;)

clm.246:教会バザーは何故やめざるを得なかったのか

カトリック赤堤教会の教会誌「野の百合」に投稿する「教会バザーを何故やめざるを得なかったのか」です。赤堤教会では、1963年から半世紀以上も開催され、地域の一大イベントになっていた教会バザーを、この秋やめざるを得ませんでした。その理由、背景、今後の提案などについて書いてみました。宜しかったらお読み下さい。

[追記]昨日アップしたバージョンを大幅に書きかえて20191208_2 ver.としました。このバージョンをお読み下さい。

clm.245: Church and Stateの「もつれ」 ー 宗教組織は課税か免税か

国家が宗教へ課税することの「是非」をウンヌンカンヌンしたいならば見逃せないテキストがOUPから出版されていた。Edward A. Zelinsky、米国租税学会の中ではtheology of the people寄りの考え方を持った、つまりChurch and Stateで言えばChurch寄りの考え方を持った租税学者が2017年に書いたテキスト。原題:Taxing the Church: Religion, Exemptions, Entanglement, and the Constitution、半訳:『the Churtchに関する税制について ー religion、諸々の免税、もつれ、米国憲法』。

時間があればジックリ内容を吟味したいが即席に解説だけ半訳しておく。

『解説』:米国のchurchesや他のreligious institutions(宗教機関)が米国家または米各州によって課税対象とされているか免税対象とされているか、実地調査および規範調査を本書は行っている。調査結果は、churchesや他の宗教機関が米国連邦および各州の税制によって一様でなく多様に扱われていることを明らかにしている。特にsectarian institutions(ある宗教に属する宗派機関)は多くの人が思っているよりも多くの税金を支払っている。重要な点は、各州はsectarian entities(宗派事業体)に対しそれぞれ独自のアプローチを用いて課税免税を決めていることである。churchesや他の宗派事業体を課税とするか免税とするかは、Church and Stateをスペクトラム状にentangle(もつれ)させている。この様なchurch-state enforcement(両権社会における法律執行)​​の「もつれ」スペクトルにおいて、あまりもつれていない一方の端には、churchesがより頻繁に課される税金 — 連邦社会保障およびメディケア税、売上税、不動産譲渡税 — が位置している。他方で、宗教機関が免除される税金 — 典型的には一般事業所得税、時価基準固定資産税、失業税 — が、「もつれ」の可能性が最も高い端に位置している。宗教行為者・宗教機関への免税は、国家からの或る種の助成金であるとして生理的反射の様に非難されるが、この非難は説得力がない。むしろこの種の免税は、church-state enforcement(両権社会における法律執行)​​の「もつれ」を最小化させる作用を持ち、世俗の側から宗教に助成金を与える方法によってではなく、「もつれ」最小化のゴールへと向かうことを可能としている。したがってこの種の免税は、a normative tax base(或る規範を支持する税の基礎)の一部と見なされるべきである。この様に本書は考えている。

どのchurchを課税とするのか、どのchurchを免税とするのか、この問題はChurch and Stateがそれぞれ持つ競合しあうlegitimate values(正当な価値観)の間で難しいトレードオフを引き起こす。その中で、私たちの非中央集権的legislation(法律措定)はこれらの法律的および税政策的トレードオフをそれなりに(reasonably)達成しているが、church内部のcommunication保護や、churchesに州ごとに独自の基準で課される売上税納税義務の拡大など、特定の課題にはまだ改善の余地があると本書は考えている

(ディスカションはまたの機会で。)

clm.244: legal person(法人)の元々の意味は…。

日本では現在、”legal person”も”corporate”も「法人」と和訳することになっていてこの二つの概念を区別できない。そしてほとんどの組織体が「法人」だと法律によって規定され、「法人なのだから法人税を払え」と国家によって強制されている。例えば正確さは欠くがザッとしたところを言えば「宗教法人も法人税を払え」、英語に直すと「religious legal personも、corporate income taxを払え」という様な混乱した事態を招いている。日本はどうしてこうなったのか…?

そもそも、legal personはcorporateを意味するものではなかったはず。こう分かるのは、legal person概念の淵源が古代ローマ帝国のローマ法にまで遡ることができるからだ。古代ローマ人達はこの世の全ての存在を人と物とに分類し、物なら権利を持たない、人なら権利を持ちうると考えていた。そして複数人で構成される組織も”人”だとして所有権等を持たせることをenable(法律的に可能に)した。古代ローマ帝国の言葉でpersona sui juris ー 法律上のペルソナ、これがlegal personという概念の発端。その頃、現代のようなcorporateがあったはずはない。だから元来legal personがcorporateを意味するものではなかったと分かる。

では何時、現代のようなcorporateが発明されたのか? これを考えるためにGoogle Ngramを使うことにする。これは、西暦1500年から2008年の500年間に世界で発刊された全ての活字書籍をGoogleがOCR(光学的コード読取)し、使用された用語・概念をピックアップし、用語・概念ごとにその出現頻度を縦軸に、出現年代を横軸にしたグラフを提供する。

Google Ngramを使うと例えば、左図の様に19世紀末西洋において、現代のcorporateを成立させる二つの重要な発明があったことが分かる。即ち、corporate accounting(日本でいう複式簿記法人会計)、ならびに、該会計方法によってほぼ定式的に計算されるcorporate incomeの金額の多寡に応じて国家が課税するcorporate income tax(日本でいう法人税)、これらが発明されたことが分かる。また、これらが国家によって強制されるcorporate(またはcorporation)という組織形態がこの時発明されたことも分かる。これら発明の国家経済への貢献は絶大だった。国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismが生み出され、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。つまり…。

FordやGMの様なcorporatesが自動車製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを整備する。すると益々自動車は売れるようになりFordやGMは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを更に整備し…。

1878年設立のエジソン電気照明会社に端を発するGEの様なcorporatesが、家電製品製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを整備する。すると益々家電は売れるようになりGEは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを更に整備し…。

この様なcorporatismの好循環は常にではないが何度か起こり、19世紀末以降、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。当然のように「corporateこそlegal personの究極の進化形態」という法理が定着し、corporateとlegal personを同一視する西洋近代法学が生まれた。

この様な19世紀に明治維新を迎え西洋流近代化を急いだ日本は、当時の最新の西洋法学を輸入する際に「legal personとcorporateとを同一視して良いならば訳語をわざわざ二つ考案する必要はない」と拙速に考え、どちらも「法人」と和訳するようになった。そして呪文のように「法人なら法人税」と考えるようになった。これが先程の質問「どうしてこうなったのか」の答え。

ただ、この拙速な和訳による単純な呪文「法人なら法人税」は、しばらくの間効力を発揮した。

corporatismによる経済運営は、20世紀世界に公害や世界大戦をもたらすなど負の部分も大きかったが、20世紀中盤まで百年間ほどは西洋においても日本においても物財的経済成長をもたらした。西洋においては概念区別が可能なlegal personとcorporateとを、日本においては区別しないという「拙速な翻訳」「西洋近代法学一夜漬け学習」は、20世紀中盤まで、大きな問題を生まなかった。

しかし…。20世紀終盤の頃から、国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismがかつてほどは機能しなくなった。日本と西洋各国の経済は、高度経済成長を含む好不況の循環を何回か経た後の1980年代、いわゆるsecular stagnation(長期停滞、世俗停滞)に陥った。corporateは事業組織体として究極の進化形態ではなかった。それはウェーバーが予言した「人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめたとの自惚れ」か、尊大な勘違いだったようだ。

そう気づいた西洋は、corporateではないlegal personの制度設計に取りかかった。そう、左図にあるpartnership、大航海時代を迎えた1600年東インド会社を西洋各国が次々に設立する際に使用した事業体制度スキームであるpartnership、これの改良設計に取りかかった。partnereshipを土台にしてLLC(ドイツではGmbH))という新たな事業体制度設計、即ち、corporateのものとは全く異なる契約法、会社法、会計法、税法の制度設計に取りかかった。この根本的発想転換は西洋では可能だが、残念ながら日本では無理だ。legal personとcorporateとを同一視し「corporateこそ事業体の究極の進化形態」と未だに信じて疑わない日本には残念ながら不可能だ。

さて、本題に取りかかろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? ヒントは、legal personが、世俗概念(legal)と宗教概念(persona、ペルソナ)ー 父と子と聖霊の三位一体に現れる「位格」、rights(権利)の根源 ー の折衷概念だということ。

ちなみに、西洋流法学あるいは西洋社会思想づくりは、ことあるごとにこの様な”水と油” ー 世俗と宗教の融合を図ろうとするところに特徴があると私は感じている。他にも例えば、第二次世界大戦直後に概念形成されたhuman rights、世俗概念(human)と宗教概念(rights)ー 語源は聖句:神の右(right)の座に着く者は正しい(right)ー の折衷概念も同様の試み。年代は戻るが、1648年にWerstphaliaで苦労して折衷させたnation-stateという概念形成も同様の試み。…本題に戻ろう。

実は、legal personという折衷概念が生まれた17世紀後半、全く同時にもう一つの折衷概念が考案された。それはreligious society(宗教的結社)という折衷概念、即ち、宗教概念(religious)と世俗概念(society、結社)との折衷概念。これと同時にlegal personという折衷概念も生まれたことが、左図を見ると分かる。

religious society(宗教的結社)とは、例えばイエズス会のような新たなキリスト教宣教師集団。即ち、従来型のベネディクト会の様な、世俗との関わりを絶って労働と祈りの中に静謐に生活する観想修道会(religious order)と異なり、時には戦士となり時には政治家となり時には通商交渉人となり、アジアの新たな植民地に向かって東インド会社が仕立てる大航海船団に商人達と一緒に乗り込み、キリスト教の新たな布教地に宣教に向かうreligious society(宗教的結社)。これが生まれたとき、legal person(法人)、legal personality(法律的人格)という折衷概念が生まれた。

もうお分かりだろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? この答えとして:legal personは元々、大航海時代、植民船団に乗り込む商人達とキリスト教宣教師達とによって構成される植民地化事業組織体(colonization business enterprise)を意味した、と応じることができる。

なお、本号をまとめるにあたり、佐藤彰一(著)『宣教のヨーロッパ-大航海時代のイエズス会と托鉢修道会 (中公新書)』が参考になりました。特に、religious societyとreligious orderの違いの記述は本書に依る所が大きい。一読をお勧めします。

…さて、久しぶりにコラムを書いてみました。如何でしたか? 2004年から書き始め2018年1月には243話目を書きましたが、長らく休刊していました。以前はWordで書いてリンクボタンを設定していましたが今回からWordpressに直接書き込もうと考えています。以前のように毎週発行というわけにはいきませんが、取り上げたい題材がふっと頭の中にインスパイアされたとき、あるいは、読者の方から「コレコレを解説してくれ」とご要望があったとき、随時発行しようかと思います。ご期待下さい。また、取り上げてもらいたい題材ありましたらドシドシお寄せ下さい。お待ちしています。

コラム243 「律法全体はこの二つの掟に基づいている」

~archivesのコラム欄に「律法全体はこの二つの掟に基づいている」をアップしました。the public sphereの社会公理系の起源について述べてみました。また、ライプニッツによる「共通善」の定義も載せておきました。「human understanding(人知、人間知性)を超越しながらもeach personによるdiscernmentによってcommonにsenseできる「善」の概念」。これはツーソン会議の参加者などに浸透した定義です。共通善の定義は、WikipediaにThe concept of the common good differs significantly among philosophical doctrines.[1] とあることからも分かるとおり実に様々ですが、このライプニッツによる定義が私には一番シックリきます。