clm.252:価値の可測性、virtueとutility

「功利主義倫理による経済って何?」という質問が読者から来た。無理からぬことだ。中国であろうが米国であろうが北朝鮮であろうがイラクであろうが、世界中でこの経済システムが、空気や水のように「当たり前」になっている。つまり、18世紀西洋に始まる産業革命「以前」の経済に比べて、この経済が如何に異様なのか、分からなくなっている。誰もが「これって何?」と改めて問うことはしない。経済とはそういうものだとあきらめている。

ましてや日本人は、19世紀の明治維新で西洋社会経済システムを突貫輸入したのだから、産業革命以前の経済がどうだったのか体験していない。「比較対象」との対比がシッカリとできない。

質問してきた読者と何回かメールでやり取りして回答した。以下に、推敲した回答を転記しておく。キモは、一般市場におけるmeasurability of value(価値の可測性)が、utility(効用)には有るがvirtueには無い、となる。


「功利主義倫理による経済って何?」というご質問ですが、そもそもutilitarianismを功利主義と和訳したのが誤解の元だと思います。「効用主義」と和訳すべきだった。なので、効用主義倫理(utilitarian ethics)ー 効用(utility)は価値があるという価値観、「役に立つことは善いことだ」という倫理観 ー による経済、現在世界人口約74億人の全てが与る経済、について説明します。

効用経済学(utility economics)は、効用(utility)の価値が、一般市場での需要と供給のバランスによって、measurability(可測性)を持つというのがミソです。そうして、価値測定可能となった効用(utility)の、或る社会範囲における「総和」の最大化を図る。これが、効用主義倫理(utilitarian ethics)による効用経済学(utility economics)です。

他方virtueは、一般市場での価値の可測性は持たないだろう、ということが研究者の間で今盛んに議論されています。(block chain技術を上手く使えばもしかしたら,,,という議論はあります。)

virtueの価値は、特定の人と特定の人との間でしか認められないものです。典型例は、夫婦の間で成り立つ、夫のvirtueの価値と妻のvirtueの価値です。これらの価値は、その特定の夫婦の間では互いに認め合うものでしょうが、他人にとっては認めにくいものです。一般市場での価値の可測性は持ちようがない、というのが研究者の間での今のところの見解です。

しかしそうすると、価値の総和を計測しそれを最大化しようとすることが出来なくなってしまうのでしょうか。virtueの価値をやり取りする「経済」は成り立たないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。

何らかのテーマで集まったpartnershipのpartnersの間では、そのテーマに関する物事・情報などに関して価値を測定(あるいは、仮決め)することは可能です。例えば、あるテーマの研究開発をするventure partnershipに集ったpartnersの間で、関連するアイデアや特許に対して価値を測定することは可能です。(private equity:私的衡平価値)

特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの、あるいは価値あるもの「候補」の中から、多くの人達が認める価値あるもの、出来れば、皆が認める「普遍的」価値あるものを、如何にして見いだしていくのか。これを考えるのがvirtue ethicsによるvirtue economicsだと言えるでしょう。

もうお分かりになったと思いますが、科学技術研究開発は、virtue economicsと相性が良いだろう、ということが研究者の間では取り沙汰されています。

話しを始めると何時間でもできてしまうので、ここでやめますね。  齋藤

[追記20200421] 「特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの…virtue economicsだと言えるでしょう。」の段落が腑に落ちない、というコメントが読者から寄せられた。それに対して、

virtue economicsは、真に価値あるものを見いだす力を持った人々が存在する、ということが前提となっています。もしそういった人々(キリスト教ではthe peopleと呼びます)がいないならば、virtue economicsは成り立ちません。

・・・と答えておいた。