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clm.313:物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す

先月末「エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚き」と私は書いた。その後ネットを渉猟していて、むしろ、A physical discovery literally removes the cover of metaphysics. つまり「物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す」という様に思い直すキッカケを、或る論文から得た。

それは「カントの実験的⽅法再考–『純粋理性批判』第二版序文における「実験」の射程について」という論文。そこには、

カントが1788年に『純粋理性批判』第二版を出版した動機は、1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、「地動説」が何百年にもわたる喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論を生んだことにある、というようなことが書いてある。実際、「コペルニクス的転換」という用語はカントの造語とのこと。

上掲した1953年初版発行岩波文庫『天体の回転について』の解説「コペルニクス説の反響」(132頁)には、

・・・これはたいしたものだと述べている人が幾らもいるのである。しかし概していえば、反対する人の方が多かった。前者は科学者であり、後者は宗教家または俗人であった。といっても科学者の全部が賛成したわけではない。中にはその説には賛成いたしかねるが、彼はプトレマイオス以来の天文学者だ、という誉め方をしている人もある。いや、こういう人がなかなか多い。宗教家または俗人はその学説を理解して反対したのではない。聖書の教えに反するといって頭から反対したのである。メランヒトンでもルーテルでもカルヴィンでも、みなそうである。これは、学問上の反対論ではないから取るに足りないのであるが、この学説の発展に対しては勿論大きな障碍になった。1615年にはとうとうこの書はローマ法王庁の禁書目録に載せられたのである。・・・とある。

1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、1788年にカント著『純粋理性批判』第二版が出版された。その間約250年。その後の19世紀には、世俗的近代合理主義によるA secular age(世俗の時代)が始まった。

そして今、ベル不等式の破れが実験実証された。即ち、重ね合せ量子状態 |𝜓s⟩にある粒子1と粒子2が持つ可換物理量AとBに関し、演算子をAOpBOpとして、その2粒子が遠く離れ離れになっても、量子相関⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩ がゼロにならないこと、つまり、光速で伝わる相互作用では説明がつかない非局所相関(nonlocal correlation)があることが確実となった。spooky(不気味)で不思議な現象が確実となった。2022年にはノーベル物理学賞がアスペ、クラウザー、ツァイリンガーの3氏に授与され、新たな実験形而上学問題の議論が再び始まった。この議論が一応の決着を見るには、また250年くらいかかるのだろうか。しかし、それではいつまで経っても本格的なpost-secular(ポスト世俗)の時代が始まらないような…。

20251011追記“physics discovers metaphysics”とGoogle Geminiに尋ねると、興味深い解説をしてくれる。玉石混淆だが一見の価値あり。

20251014追記:「聖」から「俗」へのシフトであったコペルニクス起点の実験形而上学的変革と、「俗」から「ポスト俗」へのシフトとなるだろうベル起点の実験形而上学的変革とでは、批判者と賛同者の構成が異なってくるのではないか。即ち、上掲「コペルニクス説の反響」抜粋にある様に、大まかにいって、コペルニクス起点の変革では、批判者は宗教家または(聖書記述をそのまま信じる当時の)俗人によって構成され、賛同者は科学者によって構成されたが、これから起きるだろうベル起点の変革ではこの関係が逆転し、批判者は科学者によって構成され、賛同者は宗教者によって構成されるのではないか。いや、さらに大胆に予想すれば、ベル起点の変革で建設的意見を持つ勢力は、科学者宗教者を問わず、不思議な現象の背景に「どういう原理があるのか」「何か理由があるのか」、気になって落ち着かない、解明せずにはいられない、とにかく「面白い」「楽しい」と思う性分の持主たちで構成されていくのではないか。

20251015追記:「ベル不等式の破れ」実証実験は通常、スピン角運動量を使って、|CHSH|<2ではなかった、という具合に説明される。これを含んで更に一般的な説明、即ち、正確ではないが大雑把に言えば「光速を越えて瞬時に伝わるかのように私達人間には見える量子相関」の説明を赤字で付記した。⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s は、物理量AとBの積の測定期待値を表すが、これが量子相関の表式となりうることは、清水明『新版 量子論の基礎』214頁220頁に説明されている。背理法を使って少し補足すると、「量子論的非局所相関が無い」且つ「光速で伝わる相互作用では同調が間にあわないほど離れ離れ」、つまり、何らの相関もあり得ないとき、物理量AとBがどちらもゼロをはさんで互いにバラバラの値をとり、結局、物理量AとBの積の測定期待値⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s がゼロになる。

20251018追記:上記にあった可換物理量AiとAiiとその演算子AiAiiの表記を、可換物理量AとB、その演算子AOpBOpに変更した。なお、可換物理量AとBは通常、「スピン角運動量の向き(↑、↓)」あるいは「軌道角運動量の方位角」のように同種にとることが多い。また可換であるから、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩である。可換物理量AとBを、もつれ光子対が持つ軌道角運動量の方位角θφとすると、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩=cos(θφ)となる。この「量子相関=cos(θφ)」を実験で実証した論文「Imaging Bell-type nonlocal behavior」は、「スピン角運動量を使って|CHSH|<2ではないと実証する」論文よりも格段に分かりやすい。量子基礎論の学界でもっと採りあげてほしいと思い特記した。

clm.312:実数量子|x>の三様の波束の収縮

またまた、「実数全体が二乗値としてbeingしているのでは」シリーズの続き。以下の様な図を書いてみた。言わんとすることは、じっくり見ていただければお分かり頂けると思う。

一つ気付いたことがある。それは、複素数単位 e、四元数単位 eiθ+jφ+kψ 、八元数単位 exp(Σekθk) の三つは、量子論でいう所の「同時固有状態(simultaneous eigen state)」であるということ。

「実数物理量A,Bに対応するエルミート演算子A,Bが可換であるとき、即ちABBA=0であるとき、実数物理量A,Bを同時に成り立たせる共通の固有量子状態が必ず存在する」という量子論の定理がある。この定理の証明は、例えばこの記事を参照されたい。

今の例で言えば「任意の実数A,Bは、積に関して可換であるので、実数全体に共通に成り立つ同時固有状態がある。」ということ。

私達の多くは、同時に実数全体を同じく認識できる。これを当然と思っている。3は3だし、2は2だ。ほとんどの場合、人により認識にズレが生じる、なんてことはない。が、その根本には深遠な自然原理が隠されているようだ。

20240502訂正加筆:数値認識が難しい算数障害(ディスカルキュリア、dyscalculia)の人達への配慮に欠けていた。ゴメンナサイ。訂正してお詫び申しあげます。dyscalculia の原因究明・医療研究に、上記ヒントが少しでも役立てばと願う…。

clm.311:唯一の固有ベクトルであれば、複素単位円でも、四元数三次元単位球面でも、八元数七次元単位球面でも良い。

「実数全体が二乗値としてbeingしているのでは」シリーズの続き。

コラム309で「|x> はを演算されることによって一つだけの固有値 x と一つだけの固有ベクトルe を持つ」と述べたが、この唯一の固有ベクトルは、複素単位円e限定されないことに気づいた。メモしておく。

ブルーバックス『数の世界 自然数から実数、複素数、そして四元数へ』(229頁)を読んで気づいた。

この229頁中程にある「1次元、3次元、7次元の単位球面」、即ち、「それぞれ複素数、四元数、八元数を用いて表される、大きさが1である数の全体」のどれかが、該「唯一の固有ベクトル」であれば、「実数 x の量子状態ベクトル|x>が、実数 として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収縮を起こすとき、確率100%で、実数 x が現れる。」となる。

20230905追記:上記の四元数三次元単位球面と八元数七次元単位球面は、通常の二次元球面ではない。「面」と呼ぶのは不適切かもしれない。四元数三次元単位球面は、『数の世界』204頁の表式
  eiθ+jφ+kψ  (0≦θ≦2π、0≦φ≦2π、0≦ψ≦2π) 
で表される。それは、四次元空間の原点から距離「1」だけ離れた点から成る三次元「球体」。同様に、八元数七次元単位球面は、八次元空間の原点から距離「1」だけ離れた点から成る七次元「部分空間」。分かっている人にはお節介だが、もう少しで分かりそうな人をもう一押しするために、敢えて「注記」した。

clm.310:霊的資本(spiritual capital)は、近代資本主義揺籃期、最重要資本だった。そして今再び最重要に…。

spiritual capital(霊的資本)という日本人には耳慣れない用語が、来月の分科会用に私が用意した教皇メッセージ対訳資料4頁目に出てきた。調べてみた。メモしておく。

1st finding:近代資本主義揺籃期、霊的資本(spiritual capital)は最重要資本だったのかもしれない。
近代資本主義(modern capitalism)という用語の初出をGoogle Ngramで調べると、1797年、18世紀最終盤であることが分かる。つまり19世紀の百年間が近代資本主義揺籃期。この百年間、1800年から1900年の間、文献が各種資本を引用する頻度を調べてみる(下図)と、霊的資本(spiritual capital)が金融資本(financial capital)を抑えて最頻で言及されていたことが分かる。なお、期間を1900年から2019年にして調べると、21世紀現在の最頻引用資本は金融資本だが、霊的資本も二番目の頻度で言及されていることが分かる。また近年は、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本も生まれ、それらを含めて調べるとこの二種類の資本が現在では最重要視されているが、それでも霊的資本は金融資本の次の頻度、即ち頻度四位で言及されていることが分かる。

1900年から2019年の間、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本と金融資本(financial capital)を除いて調べてみると、21世紀に入って霊的資本の引用頻度が急激に上がっていることが分かる。その理由は以下の様に推察されている。

The Oxford Handbook of Christianity and Economics

2nd finding:Spiritual capital has come to prominence in recent years due to the combination of three related trends: the failure of secularization/modernization theories to account for reality; a rise in religiosity globally; and, the lack of ethics and virtue evidenced in the financial crisis and an ongoing plague of corporate scandals. 
   (出典:左掲書籍第24章論文「Spiritual Capital」Abstract

半訳:霊的資本(spiritual capital)は近年、関連する次の三つの傾向が組み合わさったために、卓越して注目を集めるようになっている。 「世俗化理論または近代化理論ではrealityを説明しきれなくなった」「世界的な宗教性の興隆」「金融危機、および現在も続いている複数のcorporate不祥事で証明される、ethics(倫理)とvirtue(美徳)の欠如」。

3rd finding:霊的資本(spiritual capital)の現在での定義の例。
The notion of “spiritual capital” has been the subject of growing interest in recent years; however, the concept remains poorly defined.  Based on a review of the academic literature and on interviews and focus groups conducted with leaders and volunteers of over fifteen NGOs and community groups in Hong Kong, Macau and Taiwan, this paper proposes a preliminary conceptual framework for understanding, generating and applying spiritual capital.  We discuss the problematic aspects of the concept and its potential for offering a critical, engaged perspective on the social relations of capital and identifying the means for transforming them through the application of spiritual motivations and values.  We define spiritual capital as “the individual and collective capacities generated through affirming and nurturing people as having intrinsic spiritual value”.  In contrast to some other definitions and theorizations of spiritual capital, this conceptual framework stresses (1) that spiritual capital is an autonomous form of value which is not merely a subset of social, cultural or religious capital; (2) that spiritual capital is based on the affirmation of intrinsic value and, as such, offers a critical perspective on instrumental concepts of capital and its conversion; (3) that spiritual capital generates and transforms social and material relations.  Spiritual capital is generated through the affirmation and nurturing of each human being as having intrinsic, infinite spiritual value.  When this affirmation and nurturing are built into the organizational culture of a third sector organization, it enhances individual and group capacity to pursue intrinsic goals and serve the common good.
        (出典:Clarifying the Concept of Spiritual Capital – Abstract, David Alexander Palmer)

半訳:「霊的資本」概念は近年、日増しに関心を集める対象であり続けている。しかしながら、この概念は未だにほとんど定義づけられていない。本論文では、香港、マカオ、台湾の15団体以上のNGOsとcommunity groupsの、leaders and volunteersが集まって2013年7月に開催された「宗教に関する社会科学研究会議」での集中討議、および諸インタビューと学術文献に基づいて、霊的資本の適用・生成・理解のための予備概念的枠組みを提案する。ここにおいて私達は、この概念の未だ問題含みの側面と、各種資本を社会的に関係づける上で不可欠な実視野を提供する潜在力とを考察し、霊的価値観と諸々の霊的動機を実際に適用する際に用いられる、霊的資本変革方法を同定した。私達は霊的資本を「peopleを、本質的に固有な霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出されるthe individual and collective capacities(個人的・集団的潜在能力)」と定義する。他にも色々ある霊的資本の定義づけ・理論づけと異なり、この概念枠組みは以下の点を強調する。『(1)霊的資本は或る一つの自律的形態を持つ価値であって、他の社会資本・文化資本・宗教資本の単なる部分集合ではない。(2)霊的資本は、本質的に固有な価値の肯定に基づくものであって、そうであるからこそ、諸々の資本概念が有する器機性とその収束に関してとても重要な視野を提供する。(3)霊的資本は、社会と物財との諸関係を創出・変革する。』 霊的資本は、each human beingを、本質的に固有で無限の霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出される。例えばこのような肯定・養成が、或る第三セクター有機組織の、有機組織的文化の中に構築されるならば、本質的に固有なゴールの追求と共通善への奉仕に関する、個人的団体的潜在能力は強化される。

clm.309:実数とは、確率100%で起こる波束の収縮によって認識される概念なのかもしれない!?

更にコラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。

前回コラム308では、実数 x の量子状態ベクトル |x>は、その実数関連部分を抽出して、複素平面上で半径をxとする円( つまり xe )として表すことが出来るのでは、と考えた。

勿論、量子の全貌は、少なくとも今の人間の力ではconceive出来ない。だから、実数 x の量子状態ベクトル |x>を xeとして捉えてみるというのは、「便宜上の表式」あるいは「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分に限った話」だ。

けれどもこの「便宜上の表式」は、標題に記したようなチョット面白いことを想起させる。どういうことかというと…。

いま、 |x>に左から演算すると実数 x を返す実数演算子というものを定義してみる。即ち
   |x> = x |x>
である。さらに量子論の公理系から、
   |x> = Σ k番目の固有値・k番目の固有ベクトル
と、 によって |x>がスペクトル分解できることが分かる。

スペクトル分解の上式を、先程の「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分は xeと置くことができる」というのと並べて見比べてみる。すると、|x> はを演算されることによって一つだけの固有値 x と一つだけの固有ベクトルe を持つ、ということが浮かび上がってくる。式で表せば、
   |x> = xe
ということ。

ここまで「そうだ」と思ってくれれば、あとは、Bornの確率規則により、
  |x>が固有値 xに向かって「波束の収縮」を起こす確率
      = || 対応する固有ベクトル ||2
         = (e-iθの平方根 )2 
                      = 1

以上により、「実数 x の量子状態ベクトル|x>が、実数 として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収縮を起こすとき、確率100%で、実数 x が現れる。」と想定できる。

もしこれが本当なら、「実数x の、ヒルベルト空間におけるsubstance(実体、本体、本質)は、量子状態ベクトル |x>、あるいはその実数関連部分を抽出して xeである」ということが、「人間には杳(よう)として知れぬ」というのが、当然のこととなる。

つまりこれは「本当かどうか証明できない」。また、それ以前に「こんなこと思いつきもしない。疑問が湧かないから、証明する必要も無い」。

量子論のことばで説明すると、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を複数もつ量子が背後にあるならば、複数回の観測をするとその可観測量の値(あたい)がばらつき、「測定精度が悪いのか、それとももっと根本的な問題か???」と疑問が湧く。けれども、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を一つしか持たない量子が背後にあるときは、何度観測してもその可観測量の値(あたい)が(測定精度が悪くないのであれば)一つの確定値となり、「何か見落としているのかな?」という疑問が湧いてこない。

今の場合でいうと、実数で表現されるa naive realityにいる人間(a human existence)が、或る実数 x を「想起」しようとすると、その実数 x の起源である実数量子が実数 x に対し固有ベクトルと固有値の組を「eと x 」という具合に一つしか持たないので、何度「想起」してもその実数の値が常に一つの確定値 x に「波束の収縮」をする。「背後があるかも」なんて思いもしない。疑問の余地が無い。

恐らく本当。でも、受け入れるなら「公理」として受け入れるしかない、のだろう…。きっと…。

clm.308:量子の世界 (ヒルベルト空間)では、3+4は7ではなく1から7で変化する!?

コラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。

今回の要点:全てが実数で表されるa naive realityにいる私達が認識する実数 c の、一つ外側の高次空間においてbeingするその実体は、一次元ヒルベルト空間内の一成分複素ベクトル |c>、つまり、複素平面上の円をなす複素数集合 x + iy, (ただしx2 + y2 = c2 )ではないのか。

図をジックリとご覧頂ければイメージが掴めると思う。

更に言えば、私達がa naive realityにおいて認識する実数 c は、波束 |c> が実軸上にreduction of wave packet(波束の収縮)をしたものではないのか…。

・・・昨日コロナワクチン第6回目を受けて身体の節々が少し痛い。今はこれ以上考えがまとまらない。続きは後日。

20230611追記:これに似た考えは、須藤靖著『解析力学・量子論 第二版』207頁にもある。

20230627追記:position operator(位置演算子)の記事も参考になる。

clm.307:自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか

Not only natural numbers but all real numbers are squared beings in another universe? 

去年4月に、NHK「数学者は宇宙をつなげるか ー abc予想証明をめぐる数奇な物語」で左図を見た。それは「私達の宇宙では、…3,4,5,6…の様にexistしている自然数は、別の宇宙では、…9,16,25,36…の様に二乗値としてbeingしているのではないか」という問題提起。以来、私の頭から離れないのは「いや、そういった宇宙Bでは、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」ということ。一年間以上頭から離れないので現時点でメモを残すことにした。・・・

・・・コラム255「量子論の公理系」で紹介したように、量子は、ヒルベルト空間内の複素ベクトルとして表される。ヒルベルト空間とは、{1} 内積が定義される、{2} 完備な、{3} 複素ベクトル空間のこと。ヒルベルト空間の元(element)は、x+iyの様に実数部と虚数部  (iは虚数単位、i2=-1) を持つ複素数で表される成分を持つ複素ベクトル。ヒルベルト空間には「実数で全容が表される存在」は無い。例えば長さ30.5センチ重さ56.9グラムのように全て実数で表されるa naive realityにいる私達には、「量子」の全貌を捉えることはできない。

しかし、ヒルベルト空間内の複素ベクトル  |φ>は、その大きさ || |φ>||が、以下の様に正の実数値として定義できる。またここでは詳しくは陳べないが、大きさ || |φ>||から導出される量は、公理3「Bornの確率規則」によって、測定値 akが得られる確率として実際に観測することが可能だ。

(厳密に言うと、量子を表す複素ベクトルを顕(あら)わに数式で表すことは出来ない。一般的には、さまざまな複素関数を使って「波動関数」をつくり出し「量子の表式」として使うことが多いが、その様な「波動関数」は「量子」の全貌を捉えたものではない。a naive realityにいる私達には「量子」の全貌を捉えることはできない。以下の表式も、あくまで便宜的なものだ。)

|φ>の成分を x1+iy1, x2+iy2, ・・・xn + iyn   として
自分自身との内積 = <φ|φ> = (x1-iy1)(x1+iy1)+(x2-iy2)(x2+iy2)+・・・+(xn – iyn)(xn + iyn)
                                               = x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 
大きさ = <φ|φ> の平方根 = (x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 ) の平方根

ここでは、複素数 x+iy にその共役複素数 x-iyを掛け算し、(x-iy)(x+iy) = x2 – i2y2 = x2 + y2 と、正の実数値となる点に注意したい。

つまりここが肝腎なところだが、「実数で全容が表される存在」が無いヒルベルト空間に、複素ベクトルの「大きさ」という正の実数値で表せる量を、a naive realityにいる私達は見いだすことが出来る。

私達がいると感じているa naive realityの、一つ外側の高次空間であるヒルベルト空間には、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか、と考える所以。

clm.306:ペルソナ、ペルソナ状態(person, personhood)概念形成外史

教皇フランシスコの思想はthe peopleの神学[SJ Scannone, Juan Carlos]のTheology of the People: The Pastoral and Theological Roots of Pope Francis (English Edition)と表される。この神学の内容は、詳しくは左掲書を参照されたいが、端的に言えば「the peopleがsovereigntyを持つ」というもの。

通常の英文和訳では、peopleは国民と、sovereigntyは主権と、和訳されてしまう。従って、しばしば耳にする「国民主権」のことかな、と勘違いする日本人は多いかもしれないが、否、それは大間違い、という話から始める。

sovereigntyについては、2018年分科会#2で説明した。以来5年経つので補足する。sovereignty(主権)とは、形而上概念と形而下概念とをdiscern(識別)するcapacity。例えば、freedomとliberty、rightとjust、obligationとduty、lawとlegal、sinとguilty、covenantとcontract、benefitとprofit、beingとexistence、等をdiscernする為にhuman beingsが本来持つ能力を意味する。今の日本語ではこれら術語は、自由、正、義務、法、罪、契約、益、存在、と一つの訳語に納まってしまう。言葉としても意味としてもdiscernできない。この様に語彙が足りない日本語では、sovereigntyが何を意味しているのか、説明するのは難しい。

また「peopleとは何か」については、2022年分科会#1において、教皇自身による解説を半訳しておいた。「a peopleとは、経験と希望を分かち合い、一つの共通の神意(a common destiny)からの呼びかけに耳を澄ますものです。」「the people has a soul.」「a peopleとは、高次統合原則の共有により結実するrealityを生きていく、一つの生命体(a living) 」などが印象的だった。

しかしまだ、「the peopleがsovereigntyを持つ」で教皇が何を言いたいのか、私達日本人には判然としない。なぜだろうか…。おそらくそれは、peopleの語源であるpersonの意味を私達日本人がキチンと掴めていないからだ。

personは通常の日本語訳では、「ひと」あるいは「人間」となってしまう。しかしそう意味薄弱な言葉でないことは、分科会2020#1で山本芳久著『トマス・アクィナスにおけるペルソナの存在論』の解説を引用して説明した。personはペルソナと訳すべきだ。

神学議論を嫌う人向けには、例えば英語版WikipediaのPersonを見てもらえば、一般欧米人が持つ英語personの意味深長さが伝わってくる。Wikipedia創設2年後の2003年から、20年以上、世界中の73言語で活発な議論が交わされているスレッド。例えば、

In ancient Rome, the word persona (Latin) or prosopon (πρόσωπον; Ancient Greek) originally referred to the masks worn by actors on stage. The various masks represented the various “personae” in the stage play.[12] The concept of person was further developed during the Trinitarian and Christological debates of the 4th and 5th centuries in contrast to the word nature.[13] 

半訳: 古代ローマ帝国において、羅語persona、あるいは古代ギリシャ語prosopon (πρόσωπον)は元々、舞台俳優達がつける顔マスクを意味していた。即ち様々な顔マスクで、劇中現れる様々な”personae” を表現していた。四世紀五世紀の三位一体論とキリスト論の議論の中で、person概念は、この言葉が本来持つ性質と著しく異なった更なる展開を見せた。

・・・と、キリスト教の、特に、三位一体論(Trinitarianism)に関する、西暦325年のニカイア宗教会議以来続いている議論展開と、ペルソナ(person)は関係が深いことが分かる。

ここで注意しなければならないのは、キリスト教発展の歴史が持つ、他の宗教にはあまり見られない特異性。clm.296:困惑! 国税庁発行「宗教法人の税務」で説明したように、支配層でなく奴隷層が主導したキリスト教発展には、国家支配者や神学者が正式に記した「正史」と、被支配者である民間あるいは平信徒達が公然の秘密として語り継ぐhidden secretsである「外史」とがある。

personは、キリスト教「正史」としては、三位一体論において父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(Holy Spirit)が持つ位格(ペルソナ)とされている。その一方、キリスト教「外史」としては、「ローマ皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗することによって」(イエズス会司祭のN.P.タナー著『教会会議の歴史 ニカイア会議から第二バチカン公会議まで』28頁)、開催を主導したニカイア宗教会議(西暦325年)において、それまでローマ帝国の禁教であったキリスト教を「国教」として正式に認める見返りに、父と子と同格のペルソナを、聖霊に持たせることを要求した、ということが「外史」として語り継がれている。

即ち外史的には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、自身の支配力の裏打ちとして、キリスト教の洗礼を受けることによって得られる聖霊(Holy Spirit)が、父と子と同格のペルソナを持つと、キリスト教に教義拡張を迫った、と考えられている。

つまり古代ローマ皇帝コンスタンティヌスは、ペルソナを持つことにより神のrighteousnessを体現できるとしたかった。所謂、神寵帝理念。類似のことは、ヨーロッパ中世に頻繁に起こった。16世紀末から17世紀初頭にイングランドで起きた王権神授説(divine right of kings)は、その典型例。

前置きが長くなった。ここからが本コラムの本題であるpersonhood(ペルソナ状態:the status of being a person。これは、違憲(unconstitutional)と違憲状態(unconstitutional state)の違いよりも、扱うのが厄介かもしれない。というか、personよりも更に意識的に意味曖昧なまま使われている言葉だろう。なので、以下に、personhoodという概念の発生経緯、更に、大きく取り上げられることになった局面幾つかをGoogle Ngramを使って探していく。これらヒントから、personhood(ペルソナ状態)という言葉のニュアンスを掴んで頂きたい。

ご覧の様に、personhoodという言葉は1774年、つまり、1775年に始まる米独立戦争の前年、1789年のフランス革命の15年前に、初めて造語された。更に、1774年に「何の」ペルソナ状態を主張したいがためにpersonhood概念が発明されたのかをNgramを使って調べると:

human personhood、即ち、支配者でも貴族でもない普通の人間(human)がペルソナ状態であることを主張するために造語されたことが分かる。平民が、貴族や支配者から権力を奪う。米国が英国王による支配から独立する。フランスがフランス国王による支配から脱する。このことの正当性が裏打ちされた。

しかし、敵もさるもの引っ掻くもの。ただでは引き下がらない。その後、personhoodという言葉が現れるのは:

1786年、イギリス国王の支配から独立した米国という「元植民地」を実効支配する事業組織体corporate、特にイギリス国王の勅令状を得たchartered corporateが、ペルソナ状態であることを主張するために、corporate personhoodという言葉がつくられた。国王による支配は終わったが、その手先であるcorporateによる支配の正当性が認められてしまった。

corporate personhood概念は、20世紀になった1980年代に再び取り上げられた。これは当時米国で「LLCはentityなのかaggregateなのか」つまり「LLCはpersonhoodを持ちcorporate income taxが課されるべきなのか」が議論された際、改めてcorporate personhoodとは何だったのかが議論されたためだ。

その後21世紀にかけて、ますますcorporate personhood概念は取り上げられるようになったが、これは、分科会2023年#1の資料の訳註で陳べたように、corporate personhoodに疑問符をつける潮流が勢いを増していったからだ。

human personhood概念が1970年代後半から1980年代前半に、特異的に取り上げられている。これについてはWikipedia英語版の「Beginning of human personhood]を読んで頂いて、皆さんの方で「何故か」を考えていただきたい。

clm.305:その片鱗を私は見た

現行経済は、ある程度楽しかったかもしれない。でも、その百倍いや千倍楽しい新たな経済が、確かにある。

私はその片鱗を、新たなLLCが雨後の竹の子のように現れる1990年代のシリコンバレーで垣間見た。いや、つぶさに見た。

早朝の夢の中で、30年前出張の帰りにサンフランシスコ空港の土産物店で購入した左掲マップが鮮明にイメージされた。あのときのワクワク感を記憶更新しようと思い立ち、記事にした。

20220927追記:innovationは予定調和では起こらない。だからformal economyでなくinformal economyの中でのみ起こる。

clm.304:co-sovereignty(拮抗併存主権)

昨日紹介したco-sovereign(拮抗併存主権者)という新概念の出典を見つけた。左掲論文集:Nonprofits and Government: Collaboration and Conflictの第四論文「Tax Treatment of Nonprofit Organizations — A Two-Edged Sword?」 Evelyn Brody and Joseph J. Cordes。(目次はここ

なお本書は和訳本が、2007年ミネルヴァ書房から出版されている。(ここ、ただし原英文初版(1999年)の和訳。第二版(2006年)、第三版(2016年)の和訳は未完。)

原英文の中のco-sovereigntyという用語が出てくる部分は、Google Booksで以下の様に読むことができる。半訳して掲載する。

税免除が或る種の助成を表したものであったとしても、やはりそれは曖昧で不十分な助成を生み出すに過ぎない。しかし興味深いことに、この様な非営利セクター税優遇は、国家および地方政府が持つsovereignty(主権)に関する連邦税制ルールに似ている。JCT [1996](米上下両院税制合同委員会1996)でさえ、非営利、国家、地方政府を、併記すること無しに一括して扱っていた。また、the federal income taxでは、「全てのpublic utility(公共的効用)即ち全ての基幹的政府機能行使から導出される所得、あるいは、州または州下部政治機関における発生金額」(IRC sec. 115(a))を、gross income(税引前所得)から除外している。州および地方自治体が資金を得ようとして債券を発行する場合、その利息は債券保有者において税免除の対象となるのが一般的である。国家への支払金、および、地方所得税と地方資産税としての支払金は、連邦課税所得額から控除される。ただし、それら行政機関のサービスのuserとしての使用料は、連邦課税所得控除の対象とはされない。また既に記したように、これらinter-government tax一つ一つはその都度、慈善活動の税優遇に類似して優遇される。非営利セクターは、the public sectorが持つco-sovereignty(拮抗併存主権)を真に享受している、という強い主張は確かに誰もしないだろう。なぜなら、非営利セクターには主権者が本来持つ強制力・強制執行権が欠落しているのだから。しかしながら、この様なtax frameworkには、非営利セクターをinviolate(神聖不可侵)なself-governing(自治)に委ねようという感覚が伴っている。と同時にgenerally obligating charities(一般宗教的義務としての慈善)を、政府に助成金を請願する手間から遠ざけようとする感覚も伴っている(Colinvaux第六論文参照方)。

20220923追記:「全てのpublic utility(公共的効用)即ち全ての基幹的政府機能行使から導出される所得」と和訳を訂正した。無冠詞publicはgovermentalを指し示し、the publicはnon-profit sectorを指し示しているという対比が上掲パラグラフの背景にある。このことが明確になるようにした。