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clm 316:「現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかない」。湯川秀樹『目に見えないもの』より

原田雅樹著、『量子と非可換のエピステモロジー: 数学と物理学における概念と実在』 (Epistemology of Quantum and Noncommutativity – Concepts and Realities in Mathematics and Physics)東京大学出版会 2024年3月28日初版。(試し読みはここ

去年秋、たまたま書店で見つけ、妙に惹かれ即座に購入した。著者の原田雅樹氏が、カトリック司祭でもあると、後から知った。カトリック聖職者で量子基礎論を研究するひとに、またひとり邂逅した。

本書には、カトリック司祭でありながら神学的議論を夾まない意図が感じられる。淡々と数式、数学概念、物理概念、哲学概念が展開される。しかし著者のカトリック司祭としての「思い」は垣間見える。たとえば2頁目、赤で示した部分にその「思い」が表れている。

なお、存在論(ontology)と認識論(epistemology)は、通常の西洋哲学においては、根幹で対立しあう概念。つまり、本質存在(onto)があるから「私」は在るのか、「私」が認識(epistanai)するから「私」は在るのか、が長く対立している。このことを念頭に置いて、以下読んで頂きたい。


序 2. エピステモロジー

本書は、フランス・エピステモロジーを紹介しつつ、その他の哲学的立場、特に解釈学的現象学との関連性を示し、そこで導入された方法論を20世紀の物理学、数理物理学、数学に適用しようとするものである。エピステモロジーは、存在論に対する認識論を通常は意味する。しかしフランス哲学の文脈では科学史と結びついた科学認識論に近い意味を有し、そう訳されることも多い。ただし、科学史と言っても、科学と政治史ないし社会史の関係を研究する外的歴史ではなく、科学内部の概念の発展史を研究する内的歴史と結びついた科学認識論である。

エピステモロジーとは何であるのか。金森修は、岩波の『哲学思想事典』の「エピステモロジー」の項目で次のように述べている。

〔エピステモロジーは、〕現在ではコントあたりを淵源とするフランスの合理主義的、主知主義的、分析的な科学哲学を指すために使用されることが多い。ただ英米系の論理実証主義が、形式言語による科学理論の論理的再構成を主眼としたのに対して、伝統的に科学史と深い関係を保つという特徴をもつ。個別科学の具体的事実の史的分析をする過程で、科学理論を構成するうえで内容的に原理的重要性をもつと考えられる概念を幾つか抽出する。例えば無限、エントロピー、原子、進化などである。そのうえでそれらの概念が理論内に組み込まれていく際の歴史的文脈を克明に辿りながら、組み込み前後における説明機構の変遷を分析して、当の概念が果たす役割を浮き彫りにする。それは生成過程の科学思考の歴史的分析だといえる。〔……〕エピステモロジーは個人を超える非人格的知識がもちうる存在様態を付随的に明らかにするという意味あいをもつ。それは、超越論的主体による意識的な世界構成を基盤におく現象学的哲学と多くの点で対立する。1960年代にフランス思想界を席捲した構造主義もエピステモロジーとの関連のなかで理解される必要がある。
   『哲学思想事典』1993、p.161


私(齋藤旬)の勝手な読みだが、ひょっとしたら原田師は、ontological epistemology(存在論的認識論)といったような概念を提唱しようとしているのではないか。つまり、本質存在(onto)があり、それを「私」が認識(epistanai)するから「私」が在る、といったような考え方を打ち出そうとしているのではないか。(Ngramで調べると、ontological epistemologyという用語の初出は1916年。量子力学が萌芽していく時期。何か関係がありそうだ。)

また、私はカトリックだが物理学が専門で、哲学用語には疎い。なので読解にAI活用が便利。たとえば35頁:


(3)カントによる数学論と哲学の方法

数学における直示的方法 カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の哲学は、ニュートン物理学がどうして正当化できるかという問題を射程の一つにおき、それが超越論的演繹を実行する一つの大きな動機となっている7)。カントは、『純粋理性批判』のA版を著した後、そしてB版を著す前に『自然科学の形而上学的諸原理』を著している。ヴュイユマンは『カントの物理学形而上学』(Vuillemin [1955])で、この二つの著作を関連付けて読み込んでいるが、それは、そのような読解を与えることで、フランスの反省哲学のような、カント哲学に対する極度に観念論的な解釈を避けるためである。

カント哲学では、ア・プリオリな総合判断の上に成立する知に数学といわゆる数理物理学がある。そしてカントは、数学と物理学をはっきりと区別してはいるものの、その間にある深い連関について考えている。ヴュイユマンの『カントの物理学と形而上学』第1章は、カントの物理学と数学について扱っており、その第1節は「直観と存在」と名付けられている。カントは『自然科学の形而上学的諸原理』の中で、特定された自然的諸物に関する純粋自然論は、自然一般に関わる純粋哲学と区別されたものであり、この特定化のためには数学による概念の構成が必要であると述べる。この数学による概念の構成には、直観が深く関わっている。他方、数学によって特定された純粋自然論、すなわち数理物理学は、対象の存在に関わるために、形而上学的諸原理を必要とする(Kant, MAN, カッシーラー版C.347, p.12)。この形而上学的諸原理こそが、構成された数学概念にそれが適用されるための実在的対象を与え、それによって数理物理学を可能にする。

__________
7) カントにおける超越論的演繹とは事実問題ではなく、権利問題に関わり、カテゴリーの客観的妥当性を証明する議論のことである。「カントの言う『演繹』は、帰納に対して演繹と通常言われるもの、すなわち一般的な命題から特殊的な命題を三段論法的な推論によって論理的に正しく導出する手続きを意味するものではない。〔・・・・・・〕カント独特の『演繹』とは、〔・・・・・・〕人間が世界において行う認識や道徳的な行為、美的並びに目的論的な判定といった広義の経験の諸領域における最高の原理を確立する事によって、そうした諸領域を正当化し根拠づけるという哲学本来の課題を果たすために、カントが案出した議論の形式であった」(『カント事典』、p.39)。


カッシーラーの名前は、この部分も含めて全編にわたり9箇所出てくる。このことから、本書が属する哲学をドイツ哲学で分類すれば、ニュートン力学とユークリッド幾何学を基盤とする決定論的Kantian philosophy(カント哲学)ではなく、量子力学と相対性理論(リーマン幾何学)を基盤とする非決定論的Neo-Kantian philosophy(新カント哲学)であることが分かる。何故ならカッシーラーこそが、1937年著書『決定論と非決定論』において、量子力学と相対性理論(リーマン幾何学)を基盤とする非決定論的Neo-Kantian philosophy(新カント哲学)を創始したからだ。

p.p.297-301の「あとがき――登場人物とその周辺、そして痛切な現実」では、著者のカトリック司祭としての側面も垣間見える。そこには、本ブログ記事のタイトルにした湯川秀樹氏の短文も配されている。転記しておく。


真実

現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。現実は予想できぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。詩人のみがこれを発見する。

達人は少ない。詩人も少ない。われわれ凡人はどうしても現実にとらわれすぎる傾向がある。そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、現実のように不安になる。そして現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。

現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

昭和16年1月
湯川秀樹『目に見えないもの』(講談社、1977年)より

clm.315:経済という概念そのものの見誤りを反映して、利益最大化原則は他の約因から切り離されることが頻発する。

在位2013年~2025年の教皇フランシスコが著した文献に「契約における約因」という用語、即ち、a term: considerationが最初に使われたのは、英語版 Laudato Si’ (24 May 2015)第195段落の冒頭の文章:

The principle of the maximization of profits, frequently isolated from other considerations, reflects a misunderstanding of the very concept of the economy. 
経済という概念そのものの見誤りを反映して、利益最大化原則は他の約因から切り離されることが頻発する。

そして教皇フランシスコは、3年後の2018年1月には、Economy of Francesco基調論文を、
Considerations for an Ethical Discernment Regarding Some Aspects of the Present Economic-Financial System
現行経済金融システムの諸相に関しan ethical discernmentするための様々な約因
・・・というサブタイトルの下に発行した。

教皇フランシスコは、着座が2013年で、Laudato Si’発行が2015年5月、EoF基調論文発行が2018年1月、2020年から2024年は毎年EoF大会を開催した。彼にとってのメインテーマが「経済システムの根本からの刷新」であったことがわかる。

トランプ大統領は、経済という概念そのものを見誤っている。だから彼は利益最大化原則を他の約因から切り離して優先する。money moneyと言い続け、「本来の経済」を破壊し続ける。

私達はそうならないために、幾度も幾度も、EoF基調論文を熟読する必要がある。あらためて、和訳版のEoF基調論文を以下に示す。

clm.314:人間社会はゲマインシャフトでもあり、ゲゼルシャフトでもある。

1887年初版、1912年改訂増補版、テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』。その重松俊明氏による抄訳 河出書房新社1963年初版が、中公クラシックスから先月、新たな解説と索引つきで改版刊行された。カバーと帯を左掲。(全訳は、岩波文庫1957年 杉之原寿一 訳 上下巻がある。)

当ブログのタグ「新たな社会経済システム」の意味を理解する上で必要になる基礎概念の幾つかが、本書によって19世紀終わりに整理された。

中公クラシックス版で新たに付された大澤真幸氏による解説「社会学史上最も重要な概念」は、①テンニエスの略歴、②『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約、③見田宗介氏による概念発展、④大澤真幸氏による仮説的発展、からなる。

そのうち、②『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約、および、④大澤真幸氏による仮説的発展、これらを以下に転記しておく。


『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約

互いの意志や身体を保持し合う相互肯定的な関係には二つの種類がある。テンニエスはこの様に論ずる。それらがゲマインシャフトとゲゼルシャフトである。ゲマインシャフトとは「有機的な生命体」と見なされる集団であり、ゲゼルシャフトとは「機械的な構成体」と見なされる集団である。

こうしたゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違いが、諸個人を結びつけている意志の相異に対応していると見たところに、テンニエスの独創性がある。ゲマインシャフトは「本質意志」に基づいている。すなわち、個人達は、「あらゆる分離にもかかわらず本質的には結合している」。それに対して、ゲゼルシャフトは「選択意志」に基づいている。すなわち、個人達は、「あらゆる結合にもかかわらず本質的には分離している」。もう少しわかりやすく言い換えよう。ゲマインシャフトは、無条件の信頼に満ちた親密な共同生活のことである。それに対して、まずは相互に独立した個人がいて、それらの個人がそれぞれの目的や利害に基づいて選択的(戦略的)に結びついたことで形成される、機械的で、人工物のような集合体がゲゼルシャフトだ。

本訳書に見られるように、「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」と、ドイツ語をそのままカタカナで表記して使われるのは、それぞれの概念のニュアンスを正確に伝える日本語がないからである(「共同社会」「利益社会」等と訳されたこともあるが、日本語として不自然な上に、不正確な翻訳。)ちなみに、英語では、ゲマインシャフトが”community”、ゲゼルシャフトが”society”と訳されるのが普通だが、この場合も、ドイツ語の方に本来あった含みがいくぶんか失われている。

テンニエスは、ゲマインシャフトを、「家族(血縁社会)/村落(地縁社会)/都市(友情社会)」の三段階に区分している。それぞれに対応する社会意志は、「民族/自治共同体/教会」である。

ゲゼルシャフトの方は、「大都市/国民/世界」の三段階に区分される。この三段階に対応する社会意志は「協約/政治/世論」だとされ、それらを担う本来の主体は「ゲゼルシャフトそのもの/国家/学者共同体」である。


④大澤真幸氏による仮説的発展

ここから思い切って踏み込んで、さらに次の様に言うことも出来るかもしれない。任意の人間の社会は、ゲマインシャフト性とゲゼルシャフト性を含んでいる、と。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは、排他的な社会の分類というよりも、人間の社会を形成する二つの力のようなものではないか。その中に含んでいる二つの力の配分には多様性があるが、ゲゼルシャフト的な側面を完全に排除したゲマインシャフトもなければ、ゲマインシャフト的な基礎を全くもたないゲゼルシャフトも存在しない。このように考えることも出来るかもしれない、ということをここで仮説的に提案しておこう。

つまり人間社会はゲマインシャフトでもあり、ゲゼルシャフトでもある。この二律背反的な状態が極端に先鋭化して現れるようになったのが近代社会ではないか。一方では、厳密には個人の集合だけがあり、「社会」なる実体はどこにも存在しない、とも言える。しかし、他方では、社会は有機体のようなまとまりを持ち、個人とは独立して存在している「事実」があって、個人の意識や行動を規定している、とも見なしうる。どちらも真実である。この対立的な事象のどちらもが真実であることが明らかになったとき、社会学という知が成熟したのではあるまいか。実際、この二つは、社会学を規定する二つの代表的な方法論的な立場に対応している。

古典的な通常の解説の範(のり)を超え、その後の発展や、さらには仮説的なことまでごく簡単に述べてみた。「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」がいまなお生きた概念であり、発展途上にある、ということを示唆したかったからだ。そして、この発展の根の部分には、テンニエスが若き日に著した本書がある。   (おおさわ・まさち 社会学者)


 

clm.313:物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す

先月末「エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚き」と私は書いた。その後ネットを渉猟していて、むしろ、A physical discovery literally removes the cover of metaphysics. つまり「物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す」という様に思い直すキッカケを、或る論文から得た。

それは「カントの実験的⽅法再考–『純粋理性批判』第二版序文における「実験」の射程について」という論文。そこには、

カントが1788年に『純粋理性批判』第二版を出版した動機は、1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、「地動説」が何百年にもわたる喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論を生んだことにある、というようなことが書いてある。実際、「コペルニクス的転換」という用語はカントの造語とのこと。

上掲した1953年初版発行岩波文庫『天体の回転について』の解説「コペルニクス説の反響」(132頁)には、

・・・これはたいしたものだと述べている人が幾らもいるのである。しかし概していえば、反対する人の方が多かった。前者は科学者であり、後者は宗教家または俗人であった。といっても科学者の全部が賛成したわけではない。中にはその説には賛成いたしかねるが、彼はプトレマイオス以来の天文学者だ、という誉め方をしている人もある。いや、こういう人がなかなか多い。宗教家または俗人はその学説を理解して反対したのではない。聖書の教えに反するといって頭から反対したのである。メランヒトンでもルーテルでもカルヴィンでも、みなそうである。これは、学問上の反対論ではないから取るに足りないのであるが、この学説の発展に対しては勿論大きな障碍になった。1615年にはとうとうこの書はローマ法王庁の禁書目録に載せられたのである。・・・とある。

1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、1788年にカント著『純粋理性批判』第二版が出版された。その間約250年。その後の19世紀には、世俗的近代合理主義によるA secular age(世俗の時代)が始まった。

そして今、ベル不等式の破れが実験実証された。即ち、重ね合せ量子状態 |𝜓s⟩にある粒子1と粒子2が持つ可換物理量AとBに関し、演算子をAOpBOpとして、その2粒子が遠く離れ離れになっても、量子相関⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩ がゼロにならないこと、つまり、光速で伝わる相互作用では説明がつかない非局所相関(nonlocal correlation)があることが確実となった。spooky(不気味)で不思議な現象が確実となった。2022年にはノーベル物理学賞がアスペ、クラウザー、ツァイリンガーの3氏に授与され、新たな実験形而上学問題の議論が再び始まった。この議論が一応の決着を見るには、また250年くらいかかるのだろうか。しかし、それではいつまで経っても本格的なpost-secular(ポスト世俗)の時代が始まらないような…。

20251011追記“physics discovers metaphysics”とGoogle Geminiに尋ねると、興味深い解説をしてくれる。玉石混淆だが一見の価値あり。

20251014追記:「聖」から「俗」へのシフトであったコペルニクス起点の実験形而上学的変革と、「俗」から「ポスト俗」へのシフトとなるだろうベル起点の実験形而上学的変革とでは、批判者と賛同者の構成が異なってくるのではないか。即ち、上掲「コペルニクス説の反響」抜粋にある様に、大まかにいって、コペルニクス起点の変革では、批判者は宗教家または(聖書記述をそのまま信じる当時の)俗人によって構成され、賛同者は科学者によって構成されたが、これから起きるだろうベル起点の変革ではこの関係が逆転し、批判者は科学者によって構成され、賛同者は宗教者によって構成されるのではないか。いや、さらに大胆に予想すれば、ベル起点の変革で建設的意見を持つ勢力は、科学者宗教者を問わず、不思議な現象の背景に「どういう原理があるのか」「何か理由があるのか」、気になって落ち着かない、解明せずにはいられない、とにかく「面白い」「楽しい」と思う性分の持主たちで構成されていくのではないか。

20251015追記:「ベル不等式の破れ」実証実験は通常、スピン角運動量を使って、|CHSH|<2ではなかった、という具合に説明される。これを含んで更に一般的な説明、即ち、正確ではないが大雑把に言えば「光速を越えて瞬時に伝わるかのように私達人間には見える量子相関」の説明を赤字で付記した。⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s は、物理量AとBの積の測定期待値を表すが、これが量子相関の表式となりうることは、清水明『新版 量子論の基礎』214頁220頁に説明されている。背理法を使って少し補足すると、「量子論的非局所相関が無い」且つ「光速で伝わる相互作用では同調が間にあわないほど離れ離れ」、つまり、何らの相関もあり得ないとき、物理量AとBがどちらもゼロをはさんで互いにバラバラの値をとり、結局、物理量AとBの積の測定期待値⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s がゼロになる。

20251018追記:上記にあった可換物理量AiとAiiとその演算子AiAiiの表記を、可換物理量AとB、その演算子AOpBOpに変更した。なお、可換物理量AとBは通常、「スピン角運動量の向き(↑、↓)」あるいは「軌道角運動量の方位角」のように同種にとることが多い。また可換であるから、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩である。可換物理量AとBを、もつれ光子対が持つ軌道角運動量の方位角θφとすると、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩=cos(θφ)となる。この「量子相関=cos(θφ)」を実験で実証した論文「Imaging Bell-type nonlocal behavior」は、「スピン角運動量を使って|CHSH|<2ではないと実証する」論文よりも格段に分かりやすい。量子基礎論の学界でもっと採りあげてほしいと思い特記した。

clm.312:実数量子|x>の三様の波束の収縮

またまた、「実数全体が二乗値としてbeingしているのでは」シリーズの続き。以下の様な図を書いてみた。言わんとすることは、じっくり見ていただければお分かり頂けると思う。

一つ気付いたことがある。それは、複素数単位 e、四元数単位 eiθ+jφ+kψ 、八元数単位 exp(Σekθk) の三つは、量子論でいう所の「同時固有状態(simultaneous eigen state)」であるということ。

「実数物理量A,Bに対応するエルミート演算子A,Bが可換であるとき、即ちABBA=0であるとき、実数物理量A,Bを同時に成り立たせる共通の固有量子状態が必ず存在する」という量子論の定理がある。この定理の証明は、例えばこの記事を参照されたい。

今の例で言えば「任意の実数A,Bは、積に関して可換であるので、実数全体に共通に成り立つ同時固有状態がある。」ということ。

私達の多くは、同時に実数全体を同じく認識できる。これを当然と思っている。3は3だし、2は2だ。ほとんどの場合、人により認識にズレが生じる、なんてことはない。が、その根本には深遠な自然原理が隠されているようだ。

20240502訂正加筆:数値認識が難しい算数障害(ディスカルキュリア、dyscalculia)の人達への配慮に欠けていた。ゴメンナサイ。訂正してお詫び申しあげます。dyscalculia の原因究明・医療研究に、上記ヒントが少しでも役立てばと願う…。

clm.311:唯一の固有ベクトルであれば、複素単位円でも、四元数三次元単位球面でも、八元数七次元単位球面でも良い。

「実数全体が二乗値としてbeingしているのでは」シリーズの続き。

コラム309で「|x> はを演算されることによって一つだけの固有値 x と一つだけの固有ベクトルe を持つ」と述べたが、この唯一の固有ベクトルは、複素単位円e限定されないことに気づいた。メモしておく。

ブルーバックス『数の世界 自然数から実数、複素数、そして四元数へ』(229頁)を読んで気づいた。

この229頁中程にある「1次元、3次元、7次元の単位球面」、即ち、「それぞれ複素数、四元数、八元数を用いて表される、大きさが1である数の全体」のどれかが、該「唯一の固有ベクトル」であれば、「実数 x の量子状態ベクトル|x>が、実数 として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収縮を起こすとき、確率100%で、実数 x が現れる。」となる。

20230905追記:上記の四元数三次元単位球面と八元数七次元単位球面は、通常の二次元球面ではない。「面」と呼ぶのは不適切かもしれない。四元数三次元単位球面は、『数の世界』204頁の表式
  eiθ+jφ+kψ  (0≦θ≦2π、0≦φ≦2π、0≦ψ≦2π) 
で表される。それは、四次元空間の原点から距離「1」だけ離れた点から成る三次元「球体」。同様に、八元数七次元単位球面は、八次元空間の原点から距離「1」だけ離れた点から成る七次元「部分空間」。分かっている人にはお節介だが、もう少しで分かりそうな人をもう一押しするために、敢えて「注記」した。

clm.310:霊的資本(spiritual capital)は、近代資本主義揺籃期、最重要資本だった。そして今再び最重要に…。

spiritual capital(霊的資本)という日本人には耳慣れない用語が、来月の分科会用に私が用意した教皇メッセージ対訳資料4頁目に出てきた。調べてみた。メモしておく。

1st finding:近代資本主義揺籃期、霊的資本(spiritual capital)は最重要資本だったのかもしれない。
近代資本主義(modern capitalism)という用語の初出をGoogle Ngramで調べると、1797年、18世紀最終盤であることが分かる。つまり19世紀の百年間が近代資本主義揺籃期。この百年間、1800年から1900年の間、文献が各種資本を引用する頻度を調べてみる(下図)と、霊的資本(spiritual capital)が金融資本(financial capital)を抑えて最頻で言及されていたことが分かる。なお、期間を1900年から2019年にして調べると、21世紀現在の最頻引用資本は金融資本だが、霊的資本も二番目の頻度で言及されていることが分かる。また近年は、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本も生まれ、それらを含めて調べるとこの二種類の資本が現在では最重要視されているが、それでも霊的資本は金融資本の次の頻度、即ち頻度四位で言及されていることが分かる。

1900年から2019年の間、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本と金融資本(financial capital)を除いて調べてみると、21世紀に入って霊的資本の引用頻度が急激に上がっていることが分かる。その理由は以下の様に推察されている。

The Oxford Handbook of Christianity and Economics

2nd finding:Spiritual capital has come to prominence in recent years due to the combination of three related trends: the failure of secularization/modernization theories to account for reality; a rise in religiosity globally; and, the lack of ethics and virtue evidenced in the financial crisis and an ongoing plague of corporate scandals. 
   (出典:左掲書籍第24章論文「Spiritual Capital」Abstract

半訳:霊的資本(spiritual capital)は近年、関連する次の三つの傾向が組み合わさったために、卓越して注目を集めるようになっている。 「世俗化理論または近代化理論ではrealityを説明しきれなくなった」「世界的な宗教性の興隆」「金融危機、および現在も続いている複数のcorporate不祥事で証明される、ethics(倫理)とvirtue(美徳)の欠如」。

3rd finding:霊的資本(spiritual capital)の現在での定義の例。
The notion of “spiritual capital” has been the subject of growing interest in recent years; however, the concept remains poorly defined.  Based on a review of the academic literature and on interviews and focus groups conducted with leaders and volunteers of over fifteen NGOs and community groups in Hong Kong, Macau and Taiwan, this paper proposes a preliminary conceptual framework for understanding, generating and applying spiritual capital.  We discuss the problematic aspects of the concept and its potential for offering a critical, engaged perspective on the social relations of capital and identifying the means for transforming them through the application of spiritual motivations and values.  We define spiritual capital as “the individual and collective capacities generated through affirming and nurturing people as having intrinsic spiritual value”.  In contrast to some other definitions and theorizations of spiritual capital, this conceptual framework stresses (1) that spiritual capital is an autonomous form of value which is not merely a subset of social, cultural or religious capital; (2) that spiritual capital is based on the affirmation of intrinsic value and, as such, offers a critical perspective on instrumental concepts of capital and its conversion; (3) that spiritual capital generates and transforms social and material relations.  Spiritual capital is generated through the affirmation and nurturing of each human being as having intrinsic, infinite spiritual value.  When this affirmation and nurturing are built into the organizational culture of a third sector organization, it enhances individual and group capacity to pursue intrinsic goals and serve the common good.
        (出典:Clarifying the Concept of Spiritual Capital – Abstract, David Alexander Palmer)

半訳:「霊的資本」概念は近年、日増しに関心を集める対象であり続けている。しかしながら、この概念は未だにほとんど定義づけられていない。本論文では、香港、マカオ、台湾の15団体以上のNGOsとcommunity groupsの、leaders and volunteersが集まって2013年7月に開催された「宗教に関する社会科学研究会議」での集中討議、および諸インタビューと学術文献に基づいて、霊的資本の適用・生成・理解のための予備概念的枠組みを提案する。ここにおいて私達は、この概念の未だ問題含みの側面と、各種資本を社会的に関係づける上で不可欠な実視野を提供する潜在力とを考察し、霊的価値観と諸々の霊的動機を実際に適用する際に用いられる、霊的資本変革方法を同定した。私達は霊的資本を「peopleを、本質的に固有な霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出されるthe individual and collective capacities(個人的・集団的潜在能力)」と定義する。他にも色々ある霊的資本の定義づけ・理論づけと異なり、この概念枠組みは以下の点を強調する。『(1)霊的資本は或る一つの自律的形態を持つ価値であって、他の社会資本・文化資本・宗教資本の単なる部分集合ではない。(2)霊的資本は、本質的に固有な価値の肯定に基づくものであって、そうであるからこそ、諸々の資本概念が有する器機性とその収束に関してとても重要な視野を提供する。(3)霊的資本は、社会と物財との諸関係を創出・変革する。』 霊的資本は、each human beingを、本質的に固有で無限の霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出される。例えばこのような肯定・養成が、或る第三セクター有機組織の、有機組織的文化の中に構築されるならば、本質的に固有なゴールの追求と共通善への奉仕に関する、個人的団体的潜在能力は強化される。

clm.309:実数とは、確率100%で起こる波束の収縮によって認識される概念なのかもしれない!?

更にコラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。

前回コラム308では、実数 x の量子状態ベクトル |x>は、その実数関連部分を抽出して、複素平面上で半径をxとする円( つまり xe )として表すことが出来るのでは、と考えた。

勿論、量子の全貌は、少なくとも今の人間の力ではconceive出来ない。だから、実数 x の量子状態ベクトル |x>を xeとして捉えてみるというのは、「便宜上の表式」あるいは「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分に限った話」だ。

けれどもこの「便宜上の表式」は、標題に記したようなチョット面白いことを想起させる。どういうことかというと…。

いま、 |x>に左から演算すると実数 x を返す実数演算子というものを定義してみる。即ち
   |x> = x |x>
である。さらに量子論の公理系から、
   |x> = Σ k番目の固有値・k番目の固有ベクトル
と、 によって |x>がスペクトル分解できることが分かる。

スペクトル分解の上式を、先程の「 |x>が実数 x として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収束を起こす部分は xeと置くことができる」というのと並べて見比べてみる。すると、|x> はを演算されることによって一つだけの固有値 x と一つだけの固有ベクトルe を持つ、ということが浮かび上がってくる。式で表せば、
   |x> = xe
ということ。

ここまで「そうだ」と思ってくれれば、あとは、Bornの確率規則により、
  |x>が固有値 xに向かって「波束の収縮」を起こす確率
      = || 対応する固有ベクトル ||2
         = (e-iθの平方根 )2 
                      = 1

以上により、「実数 x の量子状態ベクトル|x>が、実数 として私達の前に(あるいは意識の中に)波束の収縮を起こすとき、確率100%で、実数 x が現れる。」と想定できる。

もしこれが本当なら、「実数x の、ヒルベルト空間におけるsubstance(実体、本体、本質)は、量子状態ベクトル |x>、あるいはその実数関連部分を抽出して xeである」ということが、「人間には杳(よう)として知れぬ」というのが、当然のこととなる。

つまりこれは「本当かどうか証明できない」。また、それ以前に「こんなこと思いつきもしない。疑問が湧かないから、証明する必要も無い」。

量子論のことばで説明すると、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を複数もつ量子が背後にあるならば、複数回の観測をするとその可観測量の値(あたい)がばらつき、「測定精度が悪いのか、それとももっと根本的な問題か???」と疑問が湧く。けれども、ある可観測量について固有ベクトルと固有値の組を一つしか持たない量子が背後にあるときは、何度観測してもその可観測量の値(あたい)が(測定精度が悪くないのであれば)一つの確定値となり、「何か見落としているのかな?」という疑問が湧いてこない。

今の場合でいうと、実数で表現されるa naive realityにいる人間(a human existence)が、或る実数 x を「想起」しようとすると、その実数 x の起源である実数量子が実数 x に対し固有ベクトルと固有値の組を「eと x 」という具合に一つしか持たないので、何度「想起」してもその実数の値が常に一つの確定値 x に「波束の収縮」をする。「背後があるかも」なんて思いもしない。疑問の余地が無い。

恐らく本当。でも、受け入れるなら「公理」として受け入れるしかない、のだろう…。きっと…。

clm.308:量子の世界 (ヒルベルト空間)では、3+4は7ではなく1から7で変化する!?

コラム307「自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」の続き。

今回の要点:全てが実数で表されるa naive realityにいる私達が認識する実数 c の、一つ外側の高次空間においてbeingするその実体は、一次元ヒルベルト空間内の一成分複素ベクトル |c>、つまり、複素平面上の円をなす複素数集合 x + iy, (ただしx2 + y2 = c2 )ではないのか。

図をジックリとご覧頂ければイメージが掴めると思う。

更に言えば、私達がa naive realityにおいて認識する実数 c は、波束 |c> が実軸上にreduction of wave packet(波束の収縮)をしたものではないのか…。

・・・昨日コロナワクチン第6回目を受けて身体の節々が少し痛い。今はこれ以上考えがまとまらない。続きは後日。

20230611追記:これに似た考えは、須藤靖著『解析力学・量子論 第二版』207頁にもある。

20230627追記:position operator(位置演算子)の記事も参考になる。

clm.307:自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか

Not only natural numbers but all real numbers are squared beings in another universe? 

去年4月に、NHK「数学者は宇宙をつなげるか ー abc予想証明をめぐる数奇な物語」で左図を見た。それは「私達の宇宙では、…3,4,5,6…の様にexistしている自然数は、別の宇宙では、…9,16,25,36…の様に二乗値としてbeingしているのではないか」という問題提起。以来、私の頭から離れないのは「いや、そういった宇宙Bでは、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか」ということ。一年間以上頭から離れないので現時点でメモを残すことにした。・・・

・・・コラム255「量子論の公理系」で紹介したように、量子は、ヒルベルト空間内の複素ベクトルとして表される。ヒルベルト空間とは、{1} 内積が定義される、{2} 完備な、{3} 複素ベクトル空間のこと。ヒルベルト空間の元(element)は、x+iyの様に実数部と虚数部  (iは虚数単位、i2=-1) を持つ複素数で表される成分を持つ複素ベクトル。ヒルベルト空間には「実数で全容が表される存在」は無い。例えば長さ30.5センチ重さ56.9グラムのように全て実数で表されるa naive realityにいる私達には、「量子」の全貌を捉えることはできない。

しかし、ヒルベルト空間内の複素ベクトル  |φ>は、その大きさ || |φ>||が、以下の様に正の実数値として定義できる。またここでは詳しくは陳べないが、大きさ || |φ>||から導出される量は、公理3「Bornの確率規則」によって、測定値 akが得られる確率として実際に観測することが可能だ。

(厳密に言うと、量子を表す複素ベクトルを顕(あら)わに数式で表すことは出来ない。一般的には、さまざまな複素関数を使って「波動関数」をつくり出し「量子の表式」として使うことが多いが、その様な「波動関数」は「量子」の全貌を捉えたものではない。a naive realityにいる私達には「量子」の全貌を捉えることはできない。以下の表式も、あくまで便宜的なものだ。)

|φ>の成分を x1+iy1, x2+iy2, ・・・xn + iyn   として
自分自身との内積 = <φ|φ> = (x1-iy1)(x1+iy1)+(x2-iy2)(x2+iy2)+・・・+(xn – iyn)(xn + iyn)
                                               = x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 
大きさ = <φ|φ> の平方根 = (x12+y12+x22+y22+ ・・・+xn2+yn2 ) の平方根

ここでは、複素数 x+iy にその共役複素数 x-iyを掛け算し、(x-iy)(x+iy) = x2 – i2y2 = x2 + y2 と、正の実数値となる点に注意したい。

つまりここが肝腎なところだが、「実数で全容が表される存在」が無いヒルベルト空間に、複素ベクトルの「大きさ」という正の実数値で表せる量を、a naive realityにいる私達は見いだすことが出来る。

私達がいると感じているa naive realityの、一つ外側の高次空間であるヒルベルト空間には、自然数だけでなく実数全体が二乗値としてbeingしているのではないか、と考える所以。