投稿者「junsaito」のアーカイブ
Scire Voloの会 2026 開催ちらし
Scire Voloの会2026も、オンライン勉強会になります。(ZOOMを予定) 参加される方は事前に私(齋藤)まで連絡ください。追ってURLをお知らせします。
clm.314:人間社会はゲマインシャフトでもあり、ゲゼルシャフトでもある。
1887年初版、1912年改訂増補版、テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』。その重松俊明氏による抄訳 河出書房新社1963年初版が、中公クラシックスから先月、新たな解説と索引つきで改版刊行された。カバーと帯を左掲。(全訳は、岩波文庫1957年 杉之原寿一 訳 上下巻がある。)
当ブログのタグ「新たな社会経済システム」の意味を理解する上で必要になる基礎概念の幾つかが、本書によって19世紀終わりに整理された。
中公クラシックス版で新たに付された大澤真幸氏による解説「社会学史上最も重要な概念」は、①テンニエスの略歴、②『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約、③見田宗介氏による概念発展、④大澤真幸氏による仮説的発展、からなる。
そのうち、②『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約、および、④大澤真幸氏による仮説的発展、これらを以下に転記しておく。
②『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の要約
互いの意志や身体を保持し合う相互肯定的な関係には二つの種類がある。テンニエスはこの様に論ずる。それらがゲマインシャフトとゲゼルシャフトである。ゲマインシャフトとは「有機的な生命体」と見なされる集団であり、ゲゼルシャフトとは「機械的な構成体」と見なされる集団である。
こうしたゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違いが、諸個人を結びつけている意志の相異に対応していると見たところに、テンニエスの独創性がある。ゲマインシャフトは「本質意志」に基づいている。すなわち、個人達は、「あらゆる分離にもかかわらず本質的には結合している」。それに対して、ゲゼルシャフトは「選択意志」に基づいている。すなわち、個人達は、「あらゆる結合にもかかわらず本質的には分離している」。もう少しわかりやすく言い換えよう。ゲマインシャフトは、無条件の信頼に満ちた親密な共同生活のことである。それに対して、まずは相互に独立した個人がいて、それらの個人がそれぞれの目的や利害に基づいて選択的(戦略的)に結びついたことで形成される、機械的で、人工物のような集合体がゲゼルシャフトだ。
本訳書に見られるように、「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」と、ドイツ語をそのままカタカナで表記して使われるのは、それぞれの概念のニュアンスを正確に伝える日本語がないからである(「共同社会」「利益社会」等と訳されたこともあるが、日本語として不自然な上に、不正確な翻訳。)ちなみに、英語では、ゲマインシャフトが”community”、ゲゼルシャフトが”society”と訳されるのが普通だが、この場合も、ドイツ語の方に本来あった含みがいくぶんか失われている。
テンニエスは、ゲマインシャフトを、「家族(血縁社会)/村落(地縁社会)/都市(友情社会)」の三段階に区分している。それぞれに対応する社会意志は、「民族/自治共同体/教会」である。
ゲゼルシャフトの方は、「大都市/国民/世界」の三段階に区分される。この三段階に対応する社会意志は「協約/政治/世論」だとされ、それらを担う本来の主体は「ゲゼルシャフトそのもの/国家/学者共同体」である。
④大澤真幸氏による仮説的発展
ここから思い切って踏み込んで、さらに次の様に言うことも出来るかもしれない。任意の人間の社会は、ゲマインシャフト性とゲゼルシャフト性を含んでいる、と。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは、排他的な社会の分類というよりも、人間の社会を形成する二つの力のようなものではないか。その中に含んでいる二つの力の配分には多様性があるが、ゲゼルシャフト的な側面を完全に排除したゲマインシャフトもなければ、ゲマインシャフト的な基礎を全くもたないゲゼルシャフトも存在しない。このように考えることも出来るかもしれない、ということをここで仮説的に提案しておこう。
つまり人間社会はゲマインシャフトでもあり、ゲゼルシャフトでもある。この二律背反的な状態が極端に先鋭化して現れるようになったのが近代社会ではないか。一方では、厳密には個人の集合だけがあり、「社会」なる実体はどこにも存在しない、とも言える。しかし、他方では、社会は有機体のようなまとまりを持ち、個人とは独立して存在している「事実」があって、個人の意識や行動を規定している、とも見なしうる。どちらも真実である。この対立的な事象のどちらもが真実であることが明らかになったとき、社会学という知が成熟したのではあるまいか。実際、この二つは、社会学を規定する二つの代表的な方法論的な立場に対応している。
古典的な通常の解説の範(のり)を超え、その後の発展や、さらには仮説的なことまでごく簡単に述べてみた。「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」がいまなお生きた概念であり、発展途上にある、ということを示唆したかったからだ。そして、この発展の根の部分には、テンニエスが若き日に著した本書がある。 (おおさわ・まさち 社会学者)
煙突と薔薇 2025年11月
ScireVoloの会2025#5 (11月15日) 開催通知および配付資料
| 日時 | 2025年11月15日土曜日 13:30 ー 15:30 |
| 場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
| テーマ | Dilexit Nos 48. -63 対訳 |
配付資料
clm.313:物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す
先月末「エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚き」と私は書いた。その後ネットを渉猟していて、むしろ、A physical discovery literally removes the cover of metaphysics. つまり「物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す」という様に思い直すキッカケを、或る論文から得た。
それは「カントの実験的⽅法再考–『純粋理性批判』第二版序文における「実験」の射程について」という論文。そこには、
カントが1788年に『純粋理性批判』第二版を出版した動機は、1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、「地動説」が何百年にもわたる喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論を生んだことにある、というようなことが書いてある。実際、「コペルニクス的転換」という用語はカントの造語とのこと。
上掲した1953年初版発行岩波文庫『天体の回転について』の解説「コペルニクス説の反響」(132頁)には、
・・・これはたいしたものだと述べている人が幾らもいるのである。しかし概していえば、反対する人の方が多かった。前者は科学者であり、後者は宗教家または俗人であった。といっても科学者の全部が賛成したわけではない。中にはその説には賛成いたしかねるが、彼はプトレマイオス以来の天文学者だ、という誉め方をしている人もある。いや、こういう人がなかなか多い。宗教家または俗人はその学説を理解して反対したのではない。聖書の教えに反するといって頭から反対したのである。メランヒトンでもルーテルでもカルヴィンでも、みなそうである。これは、学問上の反対論ではないから取るに足りないのであるが、この学説の発展に対しては勿論大きな障碍になった。1615年にはとうとうこの書はローマ法王庁の禁書目録に載せられたのである。・・・とある。
1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、1788年にカント著『純粋理性批判』第二版が出版された。その間約250年。その後の19世紀には、世俗的近代合理主義によるA secular age(世俗の時代)が始まった。
そして今、ベル不等式の破れが実験実証された。即ち、重ね合せ量子状態 |𝜓s⟩にある粒子1と粒子2が持つ可換物理量AとBに関し、演算子をAOpとBOpとして、その2粒子が遠く離れ離れになっても、量子相関⟨𝜓s│AOpBOp│𝜓s⟩ がゼロにならないこと、つまり、光速で伝わる相互作用では説明がつかない非局所相関(nonlocal correlation)があることが確実となった。spooky(不気味)で不思議な現象が確実となった。2022年にはノーベル物理学賞がアスペ、クラウザー、ツァイリンガーの3氏に授与され、新たな実験形而上学問題の議論が再び始まった。この議論が一応の決着を見るには、また250年くらいかかるのだろうか。しかし、それではいつまで経っても本格的なpost-secular(ポスト世俗)の時代が始まらないような…。
20251011追記:“physics discovers metaphysics”とGoogle Geminiに尋ねると、興味深い解説をしてくれる。玉石混淆だが一見の価値あり。
20251014追記:「聖」から「俗」へのシフトであったコペルニクス起点の実験形而上学的変革と、「俗」から「ポスト俗」へのシフトとなるだろうベル起点の実験形而上学的変革とでは、批判者と賛同者の構成が異なってくるのではないか。即ち、上掲「コペルニクス説の反響」抜粋にある様に、大まかにいって、コペルニクス起点の変革では、批判者は宗教家または(聖書記述をそのまま信じる当時の)俗人によって構成され、賛同者は科学者によって構成されたが、これから起きるだろうベル起点の変革ではこの関係が逆転し、批判者は科学者によって構成され、賛同者は宗教者によって構成されるのではないか。いや、さらに大胆に予想すれば、ベル起点の変革で建設的意見を持つ勢力は、科学者宗教者を問わず、不思議な現象の背景に「どういう原理があるのか」「何か理由があるのか」、気になって落ち着かない、解明せずにはいられない、とにかく「面白い」「楽しい」と思う性分の持主たちで構成されていくのではないか。
20251015追記:「ベル不等式の破れ」実証実験は通常、スピン角運動量を使って、|CHSH|<2ではなかった、という具合に説明される。これを含んで更に一般的な説明、即ち、正確ではないが大雑把に言えば「光速を越えて瞬時に伝わるかのように私達人間には見える量子相関」の説明を赤字で付記した。⟨𝜓s│AOpBOp│𝜓s⟩ は、物理量AとBの積の測定期待値を表すが、これが量子相関の表式となりうることは、清水明『新版 量子論の基礎』214頁220頁に説明されている。背理法を使って少し補足すると、「量子論的非局所相関が無い」且つ「光速で伝わる相互作用では同調が間にあわないほど離れ離れ」、つまり、何らの相関もあり得ないとき、物理量AとBがどちらもゼロをはさんで互いにバラバラの値をとり、結局、物理量AとBの積の測定期待値⟨𝜓s│AOpBOp│𝜓s⟩ がゼロになる。
20251018追記:上記にあった可換物理量AiとAiiとその演算子AiとAiiの表記を、可換物理量AとB、その演算子AOpとBOpに変更した。なお、可換物理量AとBは通常、「スピン角運動量の向き(↑、↓)」あるいは「軌道角運動量の方位角」のように同種にとることが多い。また可換であるから、⟨𝜓s│AOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓s│BOpAOp│𝜓s⟩である。可換物理量AとBを、もつれ光子対が持つ軌道角運動量の方位角θとφとすると、⟨𝜓s│AOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓s│BOpAOp│𝜓s⟩=cos(θ-φ)となる。この「量子相関=cos(θ-φ)」を実験で実証した論文「Imaging Bell-type nonlocal behavior」は、「スピン角運動量を使って|CHSH|<2ではないと実証する」論文よりも格段に分かりやすい。量子基礎論の学界でもっと採りあげてほしいと思い特記した。
10月なのにピーマン収穫
ベル定理と実験形而上学
「量子力学100周年研究会:量子基礎・量子情報のこれまでとこれから」に、9月8日から12日、ZOOM参加した。どの講演も面白かったが私にとっての白眉は、チュートリアル講演:ベル定理と実験形而上学(木村元)。
experimental metaphysics(実験形而上学)という用語は、Abner Shimonyによって導入され、それは「単体では科学となり得ない形而上学的仮説が、形而上学的仮説を複数組み合わせると、形而下で実験検証可能な科学となることがある」を意味するとのこと。(講演発表資料の12頁参照方)
エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚きだ。というのは…。
左掲のリーゼンフーバー著「存在と思惟」162頁によれば:
形而上学―そして形而上学に対する批判ーにとっては、自らより高次のメタ・レヴェルの立脚点は存在しない。それ故、形而上学の概念を規定することを、あるいは、それを批判することを試みる者は、そのことによって既に不可避的に、形而上学を遂行していることになる。
・・・とある。つまり、「形而上学は、形而下学(physics)から論ずることは出来ない」とされていた。これに真っ向から反するではないか、と思った次第。
驚くと同時に、5年以上前に書いたコラム249「the metaphysics of quantum physics」を思い出した。定年退職後に量子論の勉強を本格再開し、ふと思ったことは、あながち、間違いではなかった。トンチンカンな方向に突き進んだのではなかったと、胸をなで下ろした。(^o^)
ハートの赤ピーマン
ScireVoloの会2025#4 (9月20日) 開催通知および配付資料
| 日時 | 2025年9月20日土曜日 13:30 ー 15:30 |
| 場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
| テーマ | Dilexit Nos 32. -47 対訳 |
20250913追記:第25段落の訳註20の末尾に以下の太字部を付け足し、対訳docをアップし直した。
[訳註20]:この表現:「主が私達に選択を委ねた場」は、訳註12で言及したan amorphous reality(一つの非晶質現実)の特質を表し、量子力学の言語で言えば高次ヒルベルト空間に重ね合せ量子状態として用意された選択肢の範囲に限定されたfree will(自由意志)を私達が持つことを表している。背景には「重ね合せ量子状態のreduction of wave packet(波束の収縮)の行き先をコントロールすることは可能」(拙コラム267「equality(公平)は人間には実現不可能」参照方)という量子コンピューター作動原理に繫がる発見がある。神はサイコロを振らない(God does not play dice.)はアインシュタインの言葉だが、本回勅はその先を、God does not play dice, but human existences sometimes do. Instead, they should make the choice more prudently.と補足しているとも言える。
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