clm.313:物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す

先月末「エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚き」と私は書いた。その後ネットを渉猟していて、むしろ、A physical discovery literally removes the cover of metaphysics. つまり「物理学的発見(physical discovery)は、形而上学(metaphysics)の覆い(cover)を取り外す」という様に思い直すキッカケを、或る論文から得た。

それは「カントの実験的⽅法再考–『純粋理性批判』第二版序文における「実験」の射程について」という論文。そこには、

カントが1788年に『純粋理性批判』第二版を出版した動機は、1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、「地動説」が何百年にもわたる喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論を生んだことにある、というようなことが書いてある。実際、「コペルニクス的転換」という用語はカントの造語とのこと。

上掲した1953年初版発行岩波文庫『天体の回転について』の解説「コペルニクス説の反響」(132頁)には、

・・・これはたいしたものだと述べている人が幾らもいるのである。しかし概していえば、反対する人の方が多かった。前者は科学者であり、後者は宗教家または俗人であった。といっても科学者の全部が賛成したわけではない。中にはその説には賛成いたしかねるが、彼はプトレマイオス以来の天文学者だ、という誉め方をしている人もある。いや、こういう人がなかなか多い。宗教家または俗人はその学説を理解して反対したのではない。聖書の教えに反するといって頭から反対したのである。メランヒトンでもルーテルでもカルヴィンでも、みなそうである。これは、学問上の反対論ではないから取るに足りないのであるが、この学説の発展に対しては勿論大きな障碍になった。1615年にはとうとうこの書はローマ法王庁の禁書目録に載せられたのである。・・・とある。

1543年にコペルニクス著『天体の回転について』が出版され、1788年にカント著『純粋理性批判』第二版が出版された。その間約250年。その後の19世紀には、世俗的近代合理主義によるA secular age(世俗の時代)が始まった。

そして今、ベル不等式の破れが実験実証された。即ち、重ね合せ量子状態 |𝜓s⟩にある粒子1と粒子2が持つ可換物理量AとBに関し、演算子をAOpBOpとして、その2粒子が遠く離れ離れになっても、量子相関⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩ がゼロにならないこと、つまり、光速で伝わる相互作用では説明がつかない非局所相関(nonlocal correlation)があることが確実となった。spooky(不気味)で不思議な現象が確実となった。2022年にはノーベル物理学賞がアスペ、クラウザー、ツァイリンガーの3氏に授与され、新たな実験形而上学問題の議論が再び始まった。この議論が一応の決着を見るには、また250年くらいかかるのだろうか。しかし、それではいつまで経っても本格的なpost-secular(ポスト世俗)の時代が始まらないような…。

20251011追記“physics discovers metaphysics”とGoogle Geminiに尋ねると、興味深い解説をしてくれる。玉石混淆だが一見の価値あり。

20251014追記:「聖」から「俗」へのシフトであったコペルニクス起点の実験形而上学的変革と、「俗」から「ポスト俗」へのシフトとなるだろうベル起点の実験形而上学的変革とでは、批判者と賛同者の構成が異なってくるのではないか。即ち、上掲「コペルニクス説の反響」抜粋にある様に、大まかにいって、コペルニクス起点の変革では、批判者は宗教家または(聖書記述をそのまま信じる当時の)俗人によって構成され、賛同者は科学者によって構成されたが、これから起きるだろうベル起点の変革ではこの関係が逆転し、批判者は科学者によって構成され、賛同者は宗教者によって構成されるのではないか。いや、さらに大胆に予想すれば、ベル起点の変革で建設的意見を持つ勢力は、科学者宗教者を問わず、不思議な現象の背景に「どういう原理があるのか」「何か理由があるのか」、気になって落ち着かない、解明せずにはいられない、とにかく「面白い」「楽しい」と思う性分の持主たちで構成されていくのではないか。

20251015追記:「ベル不等式の破れ」実証実験は通常、スピン角運動量を使って、|CHSH|<2ではなかった、という具合に説明される。これを含んで更に一般的な説明、即ち、正確ではないが大雑把に言えば「光速を越えて瞬時に伝わるかのように私達人間には見える量子相関」の説明を赤字で付記した。⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s は、物理量AとBの積の測定期待値を表すが、これが量子相関の表式となりうることは、清水明『新版 量子論の基礎』214頁220頁に説明されている。背理法を使って少し補足すると、「量子論的非局所相関が無い」且つ「光速で伝わる相互作用では同調が間にあわないほど離れ離れ」、つまり、何らの相関もあり得ないとき、物理量AとBがどちらもゼロをはさんで互いにバラバラの値をとり、結局、物理量AとBの積の測定期待値⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s がゼロになる。

20251018追記:上記にあった可換物理量AiとAiiとその演算子AiAiiの表記を、可換物理量AとB、その演算子AOpBOpに変更した。なお、可換物理量AとBは通常、「スピン角運動量の向き(↑、↓)」あるいは「軌道角運動量の方位角」のように同種にとることが多い。また可換であるから、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩である。可換物理量AとBを、もつれ光子対が持つ軌道角運動量の方位角θφとすると、⟨𝜓sAOpBOp│𝜓s⟩=⟨𝜓sBOpAOp│𝜓s⟩=cos(θφ)となる。この「量子相関=cos(θφ)」を実験で実証した論文「Imaging Bell-type nonlocal behavior」は、「スピン角運動量を使って|CHSH|<2ではないと実証する」論文よりも格段に分かりやすい。量子基礎論の学界でもっと採りあげてほしいと思い特記した。

ベル定理と実験形而上学

量子力学100周年研究会:量子基礎・量子情報のこれまでとこれから」に、9月8日から12日、ZOOM参加した。どの講演も面白かったが私にとっての白眉は、チュートリアル講演:ベル定理と実験形而上学(木村元)。

experimental metaphysics(実験形而上学)という用語は、Abner Shimonyによって導入され、それは「単体では科学となり得ない形而上学的仮説が、形而上学的仮説を複数組み合わせると、形而下で実験検証可能な科学となることがある」を意味するとのこと。(講演発表資料の12頁参照方)

エッ、形而上学を、形而下で可能な実験によって検証できる?! これは驚きだ。というのは…。

左掲のリーゼンフーバー著「存在と思惟」162頁によれば:

形而上学―そして形而上学に対する批判ーにとっては、自らより高次のメタ・レヴェルの立脚点は存在しない。それ故、形而上学の概念を規定することを、あるいは、それを批判することを試みる者は、そのことによって既に不可避的に、形而上学を遂行していることになる。

・・・とある。つまり、「形而上学は、形而下学(physics)から論ずることは出来ない」とされていた。これに真っ向から反するではないか、と思った次第。

驚くと同時に、5年以上前に書いたコラム249「the metaphysics of quantum physics」を思い出した。定年退職後に量子論の勉強を本格再開し、ふと思ったことは、あながち、間違いではなかった。トンチンカンな方向に突き進んだのではなかったと、胸をなで下ろした。(^o^)

ScireVoloの会2025#4 (9月20日) 開催通知および配付資料

日時2025年9月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所  ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ

  Dilexit Nos 32. -47 対訳
  第一章「心の重要性」ではconsidering Christを行った。第二章では his actions and wordsが、
  私達にとって、his heartを洞察する上でどの様な助けとなるのかを見た。


20250913追記:第25段落の訳註20の末尾に以下の太字部を付け足し、対訳docをアップし直した。

[訳註20]:この表現:「主が私達に選択を委ねた場」は、訳註12で言及したan amorphous reality(一つの非晶質現実)の特質を表し、量子力学の言語で言えば高次ヒルベルト空間に重ね合せ量子状態として用意された選択肢の範囲に限定されたfree will(自由意志)を私達が持つことを表している。背景には「重ね合せ量子状態のreduction of wave packet(波束の収縮)の行き先をコントロールすることは可能」(拙コラム267「equality(公平)は人間には実現不可能」参照方)という量子コンピューター作動原理に繫がる発見がある。神はサイコロを振らない(God does not play dice.)はアインシュタインの言葉だが、本回勅はその先を、God does not play dice, but human existences sometimes do. Instead, they should make the choice more prudently.と補足しているとも言える。

配付資料

ScireVoloの会2025#3 (7月19日) 開催通知および配付資料

日時2025年7月19日土曜日 13:30 ー 15:30
場所  ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ

  Dilexit Nos 21. -31 対訳
  主が私達に選択を委ねた場がどの様な場になろうとも喜んで奉仕し、主の歩みに従って前進する


20250731追記:段落23の訳註18を、下記の様に書きかえ、パワポと対訳docをアップしなおした。

[訳註18] フランシスコ教皇文章に多く見られるEverything is interconnected. (訳例:全ては量子もつれの状態にある。)と同様に、この文からも量子力学の見地から深奥な意味を感じ取ることができる。即ち、Everything comes together in a state of coherence and harmony. は、「コヒーレント状態と同時固有状態とから成る一つの大規模な量子状態の中で、全ては一緒に生起する。」と訳すことができる。コヒーレント状態とは、物理学者ロイ・グラウバー(1925-2018)の1963年の論文で、その具体例がレーザー光として見いだされた量子状態。それは、非可換な物理量、例えば時間とエネルギーが、擬確率分布(quasi probability distribution)の軌跡(例えばこれ)として観測される量子状態を意味する。他方、同時固有状態とは、量子状態|φ⟩と量子状態|ψ⟩が共通固有状態を持ち、そこに向けて|φ⟩と|ψ⟩が波束の収縮を起こし、それぞれの実数固有値kφとkψが、一定に定まる可換な物理量として観測される量子状態を意味する。これらを敷衍すると、全ての物事、即ち、私達が観測する神羅万象の、元となる諸々の量子状態が波束の収縮をする収縮先が、「コヒーレント状態と同時固有状態とから成る一つの大規模な量子状態」であって、それ故に、全ての物事それぞれの物理量観測値が、それぞれに局限された値域にあるように、あるいは、それぞれに一定に定まるように、全ての観測者に共有されるとき、この「コヒーレント状態と同時固有状態とから成る一つの大規模な量子状態」の中に、私達がその中にいると感じているa realityがあると考えることができる。

配付資料

ScireVoloの会2025#2 (5月17日) 開催通知および配付資料

日時2025年5月17日土曜日 13:30 ー 15:30
場所  ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ

  Dilexit Nos 11. -20 対訳
  our heartでa realityをつかむ。そうすれば…必然的に私達は心に備わった愛のcapabilityへと導かれていく

配付資料


4月21日、フランシスコ教皇が帰天された。師は、果断に、多くの進歩派キリスト教社会思想テキストを残して下さった。今後も私達は、それらを和訳していく。淡々と…。

ScireVoloの会2025#1 (3月15日) 開催通知および配付資料

日時2025年3月15日土曜日 13:30 ー 15:30
場所  ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ

  Dilexit Nos 1. -10 対訳
 .ペルソナの中心、それは愛、全ての他者を一つに出来るone realityをその究極とする愛

配付資料

 

ESHET-EoF 2025 アブストラクト 書いてみた。

欧州経済思想史学会(ESHET)-EoF 2025合同セッションにアプライするためのabstract、書いてみた。どうするか、投稿締め切りの2月17日まで考える予定。

20250222追記:結局、応募投稿しなかった。理由は、量子論と新たな経済学、というか進歩派キリスト教社会思想とを結びつけて考える論陣仲間が、本主張をを建設的に討論していくためには絶対的に不足する、と私には思えたこと。不遜な言い方だと思うが「掛け算九九を習得していない人達に微積分問題を出題する」ようなもので、いま投稿して仮に議論が始まったとしても、ただただ疑問質問の渦と眉唾モンの批判に晒されて、徒労のうちに無に帰すのではないかと私には思えた。ただこの機会に、自分の考えを簡潔な要約文にまとめられたことは、とても良かったと思っている。少し手直ししてABSTRACT rev.3とした。内容を日本語にすると:


欧州経済思想史学会(ESHET)-EoF 2025、5月22-24日 アブストラクトrev.3

タイトル:
なぜOeconomicae et pecuniariae quaestionesは、あらゆる契機に普遍的に有効な経済公式は形而下存在しないと認識するのでしょうか?  量子論からの可能な答え。

要約:
量子論によれば、無冠詞realityは高次元ヒルベルト空間とその中にあるa naïve realityとで構成されていると示唆される。ボルン則は、そのような高次元ヒルベルト空間での量子状態のa gaze or measurement(注視ないし測定)がそのようなa naïve realityで所定の結果をもたらす確率を与える。言い換えれば、そのような高次元ヒルベルト空間での量子状態が有する複数の固有状態は、ボルン則によって決定される確率に従って、そのようなa naïve realityの隣接領域の中の或る一つの固有状態に収縮される。そして、human beingsはその様な高次元ヒルベルト空間の中に形而上存在する一方で、human existencesはそのようなa naïve realityの中に形而下存在していると示唆される。そうだとすれば、human beingsの契機および約因は、human existencesが思いつく物事で完全には表現することはできない。従って、フランシスコ教皇が EoF 2023 で述べたように、human existencesが考えつくものから「無冠詞realityは常に逸脱する」と言える。こういう理由で、Oeconomicae et pecuniariae quaestionesは、あらゆる約因、即ちあらゆる契機に対して普遍的に有効な経済公式は形而下存在しないと認識する。この認識の背景を、量子論ならば以上の様に推測する。

キーワード:
量子論、あらゆる契機に普遍的に有効な経済公式、量子状態の波束の収縮

著者:
齋藤 旬、応用物理学博士、jun.j.saitoアットhotmail.com または postmasterアットllc-research.jp
(受け入れられたとしても、オンライン プレゼンテーションでのみ参加できます。私は 67 歳で、日本に住んでおり、現役を退いています。また、ESHET のメンバーではありません。)