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教皇フランシスコ:10月4日に使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』発行予定

標記のニュースが飛び込んできた。Vatican News 30 August 2023. 11:52 以下半訳。


バチカンニュース 2023年8月30日 11:52

8月30日水曜日パウロ6世ホール。フランシスコ教皇は、毎年9月1日に設定されている「被造界を大切にする世界祈願日」を前に、今年のテーマを “Let Justice and Peace Flow”(正義と平和を大河のように)とすることをアピールした。

教皇は、the Season of Creation(「被造界の季節」エキュメニカル行事)が、この9月1日から10月4日(アッシジの聖フランシスコの記念日)まで設けられていることも付言した。

また既に8月21日、欧州委員会各国の法律家代表団を迎えた際にアナウンスしたことだが、来る10月4日に、回勅ラウダート・シの2nd Partを発行することを明らかにした。

環境的不正義の犠牲者の側に立つ

「その日に私は、使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』を発行する計画です」「創造主からの聖なる贈り物である被造界のケアに参画する兄弟姉妹達に、私たちも加わりましょう」と教皇は陳べた。

8月30日水曜日、去る5月に発行した「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージの核心部を要約した。

「環境・気候に関する不正義の犠牲者の側に立つ。即ち、私たちの共通の家に対する意味の無い戦争、恐ろしい世界大戦を終わらせるよう努力する。これが必要です。皆さん全てが、私たちの共通の家が再び生命で満ちあふれるよう祈り働くよう強く要請します。」

public訳註1 policyの変革

上記メッセージで教皇は、「私たちの心、私たちのライフスタイル、私たちの諸社会を支配するthe public policies、これらを変革する」決意が必要だと陳べた。

更にエコロジカルな回心の話題に戻し、最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要があると陳べた。

「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージは、「私たちの諸社会を統治し、今日と明日のyoung peopleのlivesを形作ることになるthe public policiesを変革する」必要について強く主張している。

フランシスコ教皇はsynodalityの重要性を強調し、彼の希望をこう陳べ祈りを捧げた。「この被造界の季節に私たちは、シノドスの旅に共に参加するキリストに従う者として、祈り、働き、生活し、そうして私達の共通の家が再び生命で満ちあふれますように」と。

__________
訳註1)このpublicを「公共」と和訳するのは不適切。ここで示した様にフランシスコ教皇は、形而上概念を重視するpeoplesと、形而下概念を重視するIndividualsの二種類の集団が「拮抗併存」してpublicを形成すると考えている。日本語の「公共」には、この様な「重なる部分と重ならない部分が拮抗併存する二重構造」の意味は無い、または、薄い。


20230908追記:一般的に、creationの和訳としては「被造物」「被造界」の二つが考えられる。the Season of Creation、the World Day of Prayer for the Care of Creation、これらで使われているcreationの和訳として「被造物」「被造界」のどちらが適切だろうか。日本のラウダート・シ デスクでは「被造物」を採用している。しかし、上記半訳原英文の中程で教皇は、no longer consider creation as an object to be exploited, but as a reality to be safeguarded “as a sacred gift from our Creator”と陳べている。これは、「最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要がある」と和訳するのが自然。…訳者としてはこのように考え、上記半訳のcreationの訳語を「被造界」に統一して訂正した。

clm.310:霊的資本(spiritual capital)は、近代資本主義揺籃期、最重要資本だった。そして今再び最重要に…。

spiritual capital(霊的資本)という日本人には耳慣れない用語が、来月の分科会用に私が用意した教皇メッセージ対訳資料4頁目に出てきた。調べてみた。メモしておく。

1st finding:近代資本主義揺籃期、霊的資本(spiritual capital)は最重要資本だったのかもしれない。
近代資本主義(modern capitalism)という用語の初出をGoogle Ngramで調べると、1797年、18世紀最終盤であることが分かる。つまり19世紀の百年間が近代資本主義揺籃期。この百年間、1800年から1900年の間、文献が各種資本を引用する頻度を調べてみる(下図)と、霊的資本(spiritual capital)が金融資本(financial capital)を抑えて最頻で言及されていたことが分かる。なお、期間を1900年から2019年にして調べると、21世紀現在の最頻引用資本は金融資本だが、霊的資本も二番目の頻度で言及されていることが分かる。また近年は、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本も生まれ、それらを含めて調べるとこの二種類の資本が現在では最重要視されているが、それでも霊的資本は金融資本の次の頻度、即ち頻度四位で言及されていることが分かる。

1900年から2019年の間、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本と金融資本(financial capital)を除いて調べてみると、21世紀に入って霊的資本の引用頻度が急激に上がっていることが分かる。その理由は以下の様に推察されている。

The Oxford Handbook of Christianity and Economics

2nd finding:Spiritual capital has come to prominence in recent years due to the combination of three related trends: the failure of secularization/modernization theories to account for reality; a rise in religiosity globally; and, the lack of ethics and virtue evidenced in the financial crisis and an ongoing plague of corporate scandals. 
   (出典:左掲書籍第24章論文「Spiritual Capital」Abstract

半訳:霊的資本(spiritual capital)は近年、関連する次の三つの傾向が組み合わさったために、卓越して注目を集めるようになっている。 「世俗化理論または近代化理論ではrealityを説明しきれなくなった」「世界的な宗教性の興隆」「金融危機、および現在も続いている複数のcorporate不祥事で証明される、ethics(倫理)とvirtue(美徳)の欠如」。

3rd finding:霊的資本(spiritual capital)の現在での定義の例。
The notion of “spiritual capital” has been the subject of growing interest in recent years; however, the concept remains poorly defined.  Based on a review of the academic literature and on interviews and focus groups conducted with leaders and volunteers of over fifteen NGOs and community groups in Hong Kong, Macau and Taiwan, this paper proposes a preliminary conceptual framework for understanding, generating and applying spiritual capital.  We discuss the problematic aspects of the concept and its potential for offering a critical, engaged perspective on the social relations of capital and identifying the means for transforming them through the application of spiritual motivations and values.  We define spiritual capital as “the individual and collective capacities generated through affirming and nurturing people as having intrinsic spiritual value”.  In contrast to some other definitions and theorizations of spiritual capital, this conceptual framework stresses (1) that spiritual capital is an autonomous form of value which is not merely a subset of social, cultural or religious capital; (2) that spiritual capital is based on the affirmation of intrinsic value and, as such, offers a critical perspective on instrumental concepts of capital and its conversion; (3) that spiritual capital generates and transforms social and material relations.  Spiritual capital is generated through the affirmation and nurturing of each human being as having intrinsic, infinite spiritual value.  When this affirmation and nurturing are built into the organizational culture of a third sector organization, it enhances individual and group capacity to pursue intrinsic goals and serve the common good.
        (出典:Clarifying the Concept of Spiritual Capital – Abstract, David Alexander Palmer)

半訳:「霊的資本」概念は近年、日増しに関心を集める対象であり続けている。しかしながら、この概念は未だにほとんど定義づけられていない。本論文では、香港、マカオ、台湾の15団体以上のNGOsとcommunity groupsの、leaders and volunteersが集まって2013年7月に開催された「宗教に関する社会科学研究会議」での集中討議、および諸インタビューと学術文献に基づいて、霊的資本の適用・生成・理解のための予備概念的枠組みを提案する。ここにおいて私達は、この概念の未だ問題含みの側面と、各種資本を社会的に関係づける上で不可欠な実視野を提供する潜在力とを考察し、霊的価値観と諸々の霊的動機を実際に適用する際に用いられる、霊的資本変革方法を同定した。私達は霊的資本を「peopleを、本質的に固有な霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出されるthe individual and collective capacities(個人的・集団的潜在能力)」と定義する。他にも色々ある霊的資本の定義づけ・理論づけと異なり、この概念枠組みは以下の点を強調する。『(1)霊的資本は或る一つの自律的形態を持つ価値であって、他の社会資本・文化資本・宗教資本の単なる部分集合ではない。(2)霊的資本は、本質的に固有な価値の肯定に基づくものであって、そうであるからこそ、諸々の資本概念が有する器機性とその収束に関してとても重要な視野を提供する。(3)霊的資本は、社会と物財との諸関係を創出・変革する。』 霊的資本は、each human beingを、本質的に固有で無限の霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出される。例えばこのような肯定・養成が、或る第三セクター有機組織の、有機組織的文化の中に構築されるならば、本質的に固有なゴールの追求と共通善への奉仕に関する、個人的団体的潜在能力は強化される。

分科会2023#4 (9月16日) 開催通知および配付資料

日時2023年9月16日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ“フランチェスコの経済 – 今問われているのは、人殺しの経済を生命の経済に、全ての面において変革すること”

配付資料

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分科会2023#3 (7月15日) 開催通知および配付資料

日時2023年7月15日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ“フランチェスコの経済 – 恐らく皆さんは、私達を救える最後の世代です。大げさではありません。”

配付資料

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慈善活動や第三セクターは無意識に、倒すべきinjusticesを常態化させてしまう

前回分科会パワポ資料5頁から分かる様に、フランシスコ教皇は、慈善活動や第三セクターに関し一筋縄ではいかない複雑な思いを寄せている。

injusticesを目の前にして何とかしたい気持ちは分かるし無為であってはならないが、厳密に言えば慈善活動や第三セクターは「病んだ根幹」に達しない対症療法であり、対戦相手であるinjusticesそのものの「常態化」に手を貸している側面もあるのだ、と。

昨年11月には、国際カリタスの総裁ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿を退任させ、事務局長ら執行部役員達を解任し、臨時の管理者を任命した。

そうした中、国際カリタス(本部・バチカン)は5月13日、第13代総裁に菊池功大司教(64才、東京教区)を選出した。進歩派カトリックの立場から、今後どの様に、国際赤十字に次いで2番目に大規模な国際NGOである国際カリタスを、舵取りしていくのか注目される。

選出された当日に菊池功大司教は Vatican Radioを訪れ、インタビュー(英語)に応じ、「フランシスコ教皇がしばしば強調するように『忘れ去られる人がいないworld』をrealizeするよう努めたい」と語った。

分科会2023#2 (5月20日) 開催通知および配付資料

日時2023年5月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ“フランチェスコの経済 – young people, a commitment, the future”

配付資料

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clm.306:ペルソナ、ペルソナ状態(person, personhood)概念形成外史

教皇フランシスコの思想はthe peopleの神学[SJ Scannone, Juan Carlos]のTheology of the People: The Pastoral and Theological Roots of Pope Francis (English Edition)と表される。この神学の内容は、詳しくは左掲書を参照されたいが、端的に言えば「the peopleがsovereigntyを持つ」というもの。

通常の英文和訳では、peopleは国民と、sovereigntyは主権と、和訳されてしまう。従って、しばしば耳にする「国民主権」のことかな、と勘違いする日本人は多いかもしれないが、否、それは大間違い、という話から始める。

sovereigntyについては、2018年分科会#2で説明した。以来5年経つので補足する。sovereignty(主権)とは、形而上概念と形而下概念とをdiscern(識別)するcapacity。例えば、freedomとliberty、rightとjust、obligationとduty、lawとlegal、sinとguilty、covenantとcontract、benefitとprofit、beingとexistence、等をdiscernする為にhuman beingsが本来持つ能力を意味する。今の日本語ではこれら術語は、自由、正、義務、法、罪、契約、益、存在、と一つの訳語に納まってしまう。言葉としても意味としてもdiscernできない。この様に語彙が足りない日本語では、sovereigntyが何を意味しているのか、説明するのは難しい。

また「peopleとは何か」については、2022年分科会#1において、教皇自身による解説を半訳しておいた。「a peopleとは、経験と希望を分かち合い、一つの共通の神意(a common destiny)からの呼びかけに耳を澄ますものです。」「the people has a soul.」「a peopleとは、高次統合原則の共有により結実するrealityを生きていく、一つの生命体(a living) 」などが印象的だった。

しかしまだ、「the peopleがsovereigntyを持つ」で教皇が何を言いたいのか、私達日本人には判然としない。なぜだろうか…。おそらくそれは、peopleの語源であるpersonの意味を私達日本人がキチンと掴めていないからだ。

personは通常の日本語訳では、「ひと」あるいは「人間」となってしまう。しかしそう意味薄弱な言葉でないことは、分科会2020#1で山本芳久著『トマス・アクィナスにおけるペルソナの存在論』の解説を引用して説明した。personはペルソナと訳すべきだ。

神学議論を嫌う人向けには、例えば英語版WikipediaのPersonを見てもらえば、一般欧米人が持つ英語personの意味深長さが伝わってくる。Wikipedia創設2年後の2003年から、20年以上、世界中の73言語で活発な議論が交わされているスレッド。例えば、

In ancient Rome, the word persona (Latin) or prosopon (πρόσωπον; Ancient Greek) originally referred to the masks worn by actors on stage. The various masks represented the various “personae” in the stage play.[12] The concept of person was further developed during the Trinitarian and Christological debates of the 4th and 5th centuries in contrast to the word nature.[13] 

半訳: 古代ローマ帝国において、羅語persona、あるいは古代ギリシャ語prosopon (πρόσωπον)は元々、舞台俳優達がつける顔マスクを意味していた。即ち様々な顔マスクで、劇中現れる様々な”personae” を表現していた。四世紀五世紀の三位一体論とキリスト論の議論の中で、person概念は、この言葉が本来持つ性質と著しく異なった更なる展開を見せた。

・・・と、キリスト教の、特に、三位一体論(Trinitarianism)に関する、西暦325年のニカイア宗教会議以来続いている議論展開と、ペルソナ(person)は関係が深いことが分かる。

ここで注意しなければならないのは、キリスト教発展の歴史が持つ、他の宗教にはあまり見られない特異性。clm.296:困惑! 国税庁発行「宗教法人の税務」で説明したように、支配層でなく奴隷層が主導したキリスト教発展には、国家支配者や神学者が正式に記した「正史」と、被支配者である民間あるいは平信徒達が公然の秘密として語り継ぐhidden secretsである「外史」とがある。

personは、キリスト教「正史」としては、三位一体論において父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(Holy Spirit)が持つ位格(ペルソナ)とされている。その一方、キリスト教「外史」としては、「ローマ皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗することによって」(イエズス会司祭のN.P.タナー著『教会会議の歴史 ニカイア会議から第二バチカン公会議まで』28頁)、開催を主導したニカイア宗教会議(西暦325年)において、それまでローマ帝国の禁教であったキリスト教を「国教」として正式に認める見返りに、父と子と同格のペルソナを、聖霊に持たせることを要求した、ということが「外史」として語り継がれている。

即ち外史的には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、自身の支配力の裏打ちとして、キリスト教の洗礼を受けることによって得られる聖霊(Holy Spirit)が、父と子と同格のペルソナを持つと、キリスト教に教義拡張を迫った、と考えられている。

つまり古代ローマ皇帝コンスタンティヌスは、ペルソナを持つことにより神のrighteousnessを体現できるとしたかった。所謂、神寵帝理念。類似のことは、ヨーロッパ中世に頻繁に起こった。16世紀末から17世紀初頭にイングランドで起きた王権神授説(divine right of kings)は、その典型例。

前置きが長くなった。ここからが本コラムの本題であるpersonhood(ペルソナ状態:the status of being a person。これは、違憲(unconstitutional)と違憲状態(unconstitutional state)の違いよりも、扱うのが厄介かもしれない。というか、personよりも更に意識的に意味曖昧なまま使われている言葉だろう。なので、以下に、personhoodという概念の発生経緯、更に、大きく取り上げられることになった局面幾つかをGoogle Ngramを使って探していく。これらヒントから、personhood(ペルソナ状態)という言葉のニュアンスを掴んで頂きたい。

ご覧の様に、personhoodという言葉は1774年、つまり、1775年に始まる米独立戦争の前年、1789年のフランス革命の15年前に、初めて造語された。更に、1774年に「何の」ペルソナ状態を主張したいがためにpersonhood概念が発明されたのかをNgramを使って調べると:

human personhood、即ち、支配者でも貴族でもない普通の人間(human)がペルソナ状態であることを主張するために造語されたことが分かる。平民が、貴族や支配者から権力を奪う。米国が英国王による支配から独立する。フランスがフランス国王による支配から脱する。このことの正当性が裏打ちされた。

しかし、敵もさるもの引っ掻くもの。ただでは引き下がらない。その後、personhoodという言葉が現れるのは:

1786年、イギリス国王の支配から独立した米国という「元植民地」を実効支配する事業組織体corporate、特にイギリス国王の勅令状を得たchartered corporateが、ペルソナ状態であることを主張するために、corporate personhoodという言葉がつくられた。国王による支配は終わったが、その手先であるcorporateによる支配の正当性が認められてしまった。

corporate personhood概念は、20世紀になった1980年代に再び取り上げられた。これは当時米国で「LLCはentityなのかaggregateなのか」つまり「LLCはpersonhoodを持ちcorporate income taxが課されるべきなのか」が議論された際、改めてcorporate personhoodとは何だったのかが議論されたためだ。

その後21世紀にかけて、ますますcorporate personhood概念は取り上げられるようになったが、これは、分科会2023年#1の資料の訳註で陳べたように、corporate personhoodに疑問符をつける潮流が勢いを増していったからだ。

human personhood概念が1970年代後半から1980年代前半に、特異的に取り上げられている。これについてはWikipedia英語版の「Beginning of human personhood]を読んで頂いて、皆さんの方で「何故か」を考えていただきたい。

分科会2023#1 (3月18日) 開催通知および配付資料

日時2023年3月18日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ 今日の経済を一変させ明日の経済に魂を吹き込む”a covenant”へ乗り出す

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分科会2022#5 (11月19日) 開催通知および配付資料

日時2022年11月19日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ informal economyの重要性について

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