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clm.248:bridges between peoples and individuals

始めに断っておくと、この様に二次元的な図あるいは三次元的なモデルでは、超越的次元に存在するものを表すことはできない。部分的に切り取ってくることはできるかもしれないが、それは枝葉の切り取りに過ぎないかもしれず、本質的な部分を見落としている可能性もあり得る。つまり「決定版」を作ることはできない。しかし、この様な部分抽出を繰り返しそれらをつき合わすことで、いつの日か、超越的次元に存在するものにrevisitできるのではないか。そう期待している。

数学でいうと、必要条件を一つ一つ丹念に探していってそれらを合わせると何時か必要十分条件に至る、という解法。ただ、私の目下の目標は、超越的次元にあるだろう「解」までは求めていない。見つかるに越したことはないが、そこまで途方もないことは求めていない。私の目下の目標は、フランシスコ教皇社会思想の全体像。これが、超越的次元にあるだろう「解」に至る途上に見つかる補助定理(lemma)かもしれない。…というのは私の単なる「勘」。でも、数学問題を解くというのは常にこういう具合。「勘」あるいは”a quantum leap”が大切。

ということで、2018年末私は、フランシスコ教皇社会思想の一つの必要条件「justiceだけでは足りない」を取り上げた。今回、2019年末は、もう一つの必要条件「bridges between peoples and individuals」を取り上げる。二つを繋げると「justiceだけでは足りないbridges between peoples and individualsも必要」ということ。これで、フランシスコ教皇社会思想を十分に表しているかというとそうではない。図の中央に「?」がある。moneyへのbridgeの詳細が未だ把握できていない。つまりフランシスコ教皇社会思想は、経済関連のbridgesが未完成。また、必要な要素がbridgesの他にも更に見つかるかもしれない。なお、bridges between peoples and individualsは、popular movements 2017教皇メッセージの第二段落にある言葉。この運動は、まだまだ続く。

clm.246で紹介したChurch and Stateの図と、bridgesの図とを比べてみよう。似ているが違いがある。違いは大きく分けて二つ。一つ目は、教会と国家という「組織」から、peoplesとindividualsという「人間達」へと視点を移したこと。二つ目は、教会をpeoplesに「拡張」したこと。順に説明する。

一つ目、「組織」から「人間達」に視点を移したこと。この背景には、国家という「組織」が教会(宗教)の枝葉は受け入れてもその本質 — 例えば「核なき平和」を受け入れることが決して無い、ということがある。つまり両組織の「折り合い」は、ある程度進んだ後どこかで必ずストップする。折衷は膠着状態に必ず陥る。なぜなら、国家は例えば「核の傘の下にいるから国家は安泰でいられる」という「核による平和」論理から決して離れない。国家はその存立原理である近代合理主義により、主観的相互信頼よりも客観的power balanceによって平和を維持しようとする。従っていったん急あれば自国第一主義に陥り、他国を滅ぼしてでも自国の存在を守ろうとする。

しかし人間達は違う。一人一人の人間は機械ロボットではない。心を持っている。様々な心を持っている。ひとりひとり誰もが、peoples的心とindividuals的心と合わせ持っている。一人の人が、scienceもreligionも深く理解することがある。the legalもthe lawfulも深く理解することもある。誰も、国家の一律一様な規範に心の底から良いと思って従っているわけではない。より良い規範あるいは秩序があるはずだと思っている。極端に言えば、もし国家がなくても安心して豊かに活動的に暮らしていけるのであれば「国家」は無くてもよいと思うだろう。そうなれば「核の傘」は必要なくなり「核なき平和」が現実のものとなる。この様に、組織同士の折り合いから人間同士の折り合いに「折衷」の舞台を変えることによって、折り合い(折衷)が更に進む可能性が出てくる。

二つ目、peoplesとは何か。personの複数形であるpeopleの更に複数形、二重の複数形であることに注意されたい。それはキリスト教教会に来る人達だけを指すのではない。bridgesの図の左側、peoplesの列(緑字)の下の方にreligions(諸宗教)とある。つまりpeoplesとは、キリスト教信者達、仏教信者達、イスラム教信者達、、、「或る普遍的信条を共有する集団が複数集まった大集団」を意味する。集団ごとに普遍的信条が異なっても良い。

bridgesの図の右側、individualsは単純にindividualの複数形。その列(青字)の下の方にはstate(国家)とある。これは単数形。つまり多様性は、religionsには有るがstateには無い。実はstateに限らず右列(青字)の全ての項目は単数形であることに注意されたい。究極の近代合理主義は単一なものと考えられる。民族や地域が違っても客観的に「一つ」に収束すると考えられる。映画マトリックスでは、同じ顔に同じ黒サングラス、同じスーツのエージェント達がマトリックス世界を陰で支配しているが、右列(青字)が表す世界の究極はこのイメージ。

popular movements、即ち、making bridges between peoples and individualsの最終目標は、この右列(青字)が表す世界を最小化し、bridgesの世界を最大化することにある。つまりフランシスコ教皇がこの運動を続ける目的、それは、地球全体を平和にすること。

以上でbridgesの図の説明をひとまず終えたい。未だ色々説明が必要だろうと思うが、それはまた追々。

clm.247:駄洒落発見 quantumとquandam(羅語:元々備わっている)

駄洒落を見つけた! なんとLaudato Si’ 103 英語版とラテン語版の間に。ヴァチカン関係者にもこういうユーモアの持ち主がいる。そのまま公開を許したフランシスコ教皇も相当なユーモアの持ち主。きっと、クスクス笑いながらネットの中にそっと仕掛けたのだろう。ただ、この駄洒落、意味するところは深淵だ。「quantum leap (量子論的跳躍)、それは人間という生命に元々備わっている豊かさ」と言いたいのだろう。ラングドン教授もこの謎を解くのは苦労するに違いない。ダン・ブラウンの次回作辺りに、盛り込んで欲しいな。(^_^;)

第41回 量子情報技術研究会(QIT41)

11月18日19日(月火)と、第41回 量子情報技術研究会,、つまり、QIT2019-46~100に参加した。@目白の学習院大学。「Googleが量子超越性を実験実証か」で沸いていたが、特に私の興味を引いたのは、”interconnect”という考え方。.

interconnectは、通常の用法であれば「複数のナニナニを相互に接続する」という他動詞。しかし量子論の専門用語としては、イオントラップ量子コンピューターで、トラップされた複数個のイオンの量子状態を相互に「もつれ」させることをいう。詳しくはQIT2019-52の抄録を参照されたい。

この”interconnect”という用語、実は、フランシスコ教皇の回勅ラウダート・シ英語版に5回も出てくる。その内3回は、”everything is interconnected”という形で使われている(70, 138, 240)。「すべては相互に接続されている」と普通には和訳するところだが、「全ては量子論的に「もつれ」を持たされている」という意味ではないかと、科学と宗教を同時に扱う者達(例:The Faraday Institute for Science and Religion)の間ではもっぱらの評判だ。

ラウダート・シ英語版には、”quantum leap”という用語も出てくる。この用語そのものは、ケンブリッジ大学素粒子物理学教授を務め、後に英国国教会司祭になったポーキングホーンなどが、ラウダート・シ出版以前に考案したもの。もともと「量子論的跳躍」を意味していた。

この用語をフランシスコ教皇はラウダート・シ英語版の103で、「So, in the beauty intended by the one who uses new technical instruments and in the contemplation of such beauty, a quantum leap occurs, resulting in a fulfilment which is uniquely human.」と使っている。訳すと「one(或る霊的人間個体)が新たな技術装置を使って美を生み出そうとするとき、そして、その様な美をとらえようとして見つめるとき、そこには量子論的跳躍が起こり、その結果としてhuman(人間という生物)に特有な或る種のfulfilment(完成)がもたらされる。」となる。

ラウダート・シという回勅は、科学と宗教を両立するものとして認め、その両方を駆使して温暖化など地球環境破壊をくい止めようと警鐘を鳴らすために書かれた。保守的なカトリックとしては異色の回勅。科学を論ずるのだから勿論、最新の科学知識を盛り込んでいなければならない。でないと、宗教者がおかしな科学を論じていると軽くあしらわれてしまうからだ。

・・・というような場違いなことを、技術研究会の場でアレコレと考えてしまった。

追記:ラウダート・シを読むなら英語版に限る。14カ国語版がありラテン語版あるが、最新科学をラテン語で表すのは至難の業だろう。現在、科学の世界標準語は英語。だから最新の科学を論じようとすれば英語となるのが自然。14カ国語版のラウダート・シ103節を調べたが、”quantum leap”の記述は英語版にしかなかった。ドイツ語版になかったのはチョット意外だった。ハイゼンベルグ先生、御免なさい。というのは、彼は熱心なドイツ福音派のクリスチャンだったし量子力学の創始者の一人だったから。

なお、”quantum leap”という言葉は、Ngramを調べたところ、20世紀初頭の量子力学黎明期からあった言葉だと分かった。上記の記述を「ポーキングホーンなどが」と修正しておいた。

2017 number of LLC = 2,696,149

2017年の米LLC数は2,696,149だった。この数字は、IRSが発行した2017 Partnership Line Item Publicationのpage 3に載っている。上欄Domestic limited liability companyの脇に青字で添えてある数値。依然として単調増加を続けている。グラフを更新しエクセルファイルを~archivesの資料・グラフにアップしておいた。

clm.246:教会バザーは何故やめざるを得なかったのか

カトリック赤堤教会の教会誌「野の百合」に投稿する「教会バザーを何故やめざるを得なかったのか」です。赤堤教会では、1963年から半世紀以上も開催され、地域の一大イベントになっていた教会バザーを、この秋やめざるを得ませんでした。その理由、背景、今後の提案などについて書いてみました。宜しかったらお読み下さい。

[追記]昨日アップしたバージョンを大幅に書きかえて20191208_2 ver.としました。このバージョンをお読み下さい。

clm.245: Church and Stateの「もつれ」 ー 宗教組織は課税か免税か

国家が宗教へ課税することの「是非」をウンヌンカンヌンしたいならば見逃せないテキストがOUPから出版されていた。Edward A. Zelinsky、米国租税学会の中ではtheology of the people寄りの考え方を持った、つまりChurch and Stateで言えばChurch寄りの考え方を持った租税学者が2017年に書いたテキスト。原題:Taxing the Church: Religion, Exemptions, Entanglement, and the Constitution、半訳:『the Churtchに関する税制について ー religion、諸々の免税、もつれ、米国憲法』。

時間があればジックリ内容を吟味したいが即席に解説だけ半訳しておく。

『解説』:米国のchurchesや他のreligious institutions(宗教機関)が米国家または米各州によって課税対象とされているか免税対象とされているか、実地調査および規範調査を本書は行っている。調査結果は、churchesや他の宗教機関が米国連邦および各州の税制によって一様でなく多様に扱われていることを明らかにしている。特にsectarian institutions(ある宗教に属する宗派機関)は多くの人が思っているよりも多くの税金を支払っている。重要な点は、各州はsectarian entities(宗派事業体)に対しそれぞれ独自のアプローチを用いて課税免税を決めていることである。churchesや他の宗派事業体を課税とするか免税とするかは、Church and Stateをスペクトラム状にentangle(もつれ)させている。この様なchurch-state enforcement(両権社会における法律執行)​​の「もつれ」スペクトルにおいて、あまりもつれていない一方の端には、churchesがより頻繁に課される税金 — 連邦社会保障およびメディケア税、売上税、不動産譲渡税 — が位置している。他方で、宗教機関が免除される税金 — 典型的には一般事業所得税、時価基準固定資産税、失業税 — が、「もつれ」の可能性が最も高い端に位置している。宗教行為者・宗教機関への免税は、国家からの或る種の助成金であるとして生理的反射の様に非難されるが、この非難は説得力がない。むしろこの種の免税は、church-state enforcement(両権社会における法律執行)​​の「もつれ」を最小化させる作用を持ち、世俗の側から宗教に助成金を与える方法によってではなく、「もつれ」最小化のゴールへと向かうことを可能としている。したがってこの種の免税は、a normative tax base(或る規範を支持する税の基礎)の一部と見なされるべきである。この様に本書は考えている。

どのchurchを課税とするのか、どのchurchを免税とするのか、この問題はChurch and Stateがそれぞれ持つ競合しあうlegitimate values(正当な価値観)の間で難しいトレードオフを引き起こす。その中で、私たちの非中央集権的legislation(法律措定)はこれらの法律的および税政策的トレードオフをそれなりに(reasonably)達成しているが、church内部のcommunication保護や、churchesに州ごとに独自の基準で課される売上税納税義務の拡大など、特定の課題にはまだ改善の余地があると本書は考えている

(ディスカションはまたの機会で。)

分科会2019#5(11月16日) 開催通知および配付資料

開催通知

日時 2019年11月16日土曜日 13:30 ー 15:30
場所 東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ 新たな社会経済システムを目指して

配付資料

clm.244: legal person(法人)の元々の意味は…。

日本では現在、”legal person”も”corporate”も「法人」と和訳することになっていてこの二つの概念を区別できない。そしてほとんどの組織体が「法人」だと法律によって規定され、「法人なのだから法人税を払え」と国家によって強制されている。例えば正確さは欠くがザッとしたところを言えば「宗教法人も法人税を払え」、英語に直すと「religious legal personも、corporate income taxを払え」という様な混乱した事態を招いている。日本はどうしてこうなったのか…?

そもそも、legal personはcorporateを意味するものではなかったはず。こう分かるのは、legal person概念の淵源が古代ローマ帝国のローマ法にまで遡ることができるからだ。古代ローマ人達はこの世の全ての存在を人と物とに分類し、物なら権利を持たない、人なら権利を持ちうると考えていた。そして複数人で構成される組織も”人”だとして所有権等を持たせることをenable(法律的に可能に)した。古代ローマ帝国の言葉でpersona sui juris ー 法律上のペルソナ、これがlegal personという概念の発端。その頃、現代のようなcorporateがあったはずはない。だから元来legal personがcorporateを意味するものではなかったと分かる。

では何時、現代のようなcorporateが発明されたのか? これを考えるためにGoogle Ngramを使うことにする。これは、西暦1500年から2008年の500年間に世界で発刊された全ての活字書籍をGoogleがOCR(光学的コード読取)し、使用された用語・概念をピックアップし、用語・概念ごとにその出現頻度を縦軸に、出現年代を横軸にしたグラフを提供する。

Google Ngramを使うと例えば、左図の様に19世紀末西洋において、現代のcorporateを成立させる二つの重要な発明があったことが分かる。即ち、corporate accounting(日本でいう複式簿記法人会計)、ならびに、該会計方法によってほぼ定式的に計算されるcorporate incomeの金額の多寡に応じて国家が課税するcorporate income tax(日本でいう法人税)、これらが発明されたことが分かる。また、これらが国家によって強制されるcorporate(またはcorporation)という組織形態がこの時発明されたことも分かる。これら発明の国家経済への貢献は絶大だった。国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismが生み出され、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。つまり…。

FordやGMの様なcorporatesが自動車製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを整備する。すると益々自動車は売れるようになりFordやGMは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを更に整備し…。

1878年設立のエジソン電気照明会社に端を発するGEの様なcorporatesが、家電製品製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを整備する。すると益々家電は売れるようになりGEは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを更に整備し…。

この様なcorporatismの好循環は常にではないが何度か起こり、19世紀末以降、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。当然のように「corporateこそlegal personの究極の進化形態」という法理が定着し、corporateとlegal personを同一視する西洋近代法学が生まれた。

この様な19世紀に明治維新を迎え西洋流近代化を急いだ日本は、当時の最新の西洋法学を輸入する際に「legal personとcorporateとを同一視して良いならば訳語をわざわざ二つ考案する必要はない」と拙速に考え、どちらも「法人」と和訳するようになった。そして呪文のように「法人なら法人税」と考えるようになった。これが先程の質問「どうしてこうなったのか」の答え。

ただ、この拙速な和訳による単純な呪文「法人なら法人税」は、しばらくの間効力を発揮した。

corporatismによる経済運営は、20世紀世界に公害や世界大戦をもたらすなど負の部分も大きかったが、20世紀中盤まで百年間ほどは西洋においても日本においても物財的経済成長をもたらした。西洋においては概念区別が可能なlegal personとcorporateとを、日本においては区別しないという「拙速な翻訳」「西洋近代法学一夜漬け学習」は、20世紀中盤まで、大きな問題を生まなかった。

しかし…。20世紀終盤の頃から、国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismがかつてほどは機能しなくなった。日本と西洋各国の経済は、高度経済成長を含む好不況の循環を何回か経た後の1980年代、いわゆるsecular stagnation(長期停滞、世俗停滞)に陥った。corporateは事業組織体として究極の進化形態ではなかった。それはウェーバーが予言した「人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめたとの自惚れ」か、尊大な勘違いだったようだ。

そう気づいた西洋は、corporateではないlegal personの制度設計に取りかかった。そう、左図にあるpartnership、大航海時代を迎えた1600年東インド会社を西洋各国が次々に設立する際に使用した事業体制度スキームであるpartnership、これの改良設計に取りかかった。partnereshipを土台にしてLLC(ドイツではGmbH))という新たな事業体制度設計、即ち、corporateのものとは全く異なる契約法、会社法、会計法、税法の制度設計に取りかかった。この根本的発想転換は西洋では可能だが、残念ながら日本では無理だ。legal personとcorporateとを同一視し「corporateこそ事業体の究極の進化形態」と未だに信じて疑わない日本には残念ながら不可能だ。

さて、本題に取りかかろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? ヒントは、legal personが、世俗概念(legal)と宗教概念(persona、ペルソナ)ー 父と子と聖霊の三位一体に現れる「位格」、rights(権利)の根源 ー の折衷概念だということ。

ちなみに、西洋流法学あるいは西洋社会思想づくりは、ことあるごとにこの様な”水と油” ー 世俗と宗教の融合を図ろうとするところに特徴があると私は感じている。他にも例えば、第二次世界大戦直後に概念形成されたhuman rights、世俗概念(human)と宗教概念(rights)ー 語源は聖句:神の右(right)の座に着く者は正しい(right)ー の折衷概念も同様の試み。年代は戻るが、1648年にWerstphaliaで苦労して折衷させたnation-stateという概念形成も同様の試み。…本題に戻ろう。

実は、legal personという折衷概念が生まれた17世紀後半、全く同時にもう一つの折衷概念が考案された。それはreligious society(宗教的結社)という折衷概念、即ち、宗教概念(religious)と世俗概念(society、結社)との折衷概念。これと同時にlegal personという折衷概念も生まれたことが、左図を見ると分かる。

religious society(宗教的結社)とは、例えばイエズス会のような新たなキリスト教宣教師集団。即ち、従来型のベネディクト会の様な、世俗との関わりを絶って労働と祈りの中に静謐に生活する観想修道会(religious order)と異なり、時には戦士となり時には政治家となり時には通商交渉人となり、アジアの新たな植民地に向かって東インド会社が仕立てる大航海船団に商人達と一緒に乗り込み、キリスト教の新たな布教地に宣教に向かうreligious society(宗教的結社)。これが生まれたとき、legal person(法人)、legal personality(法律的人格)という折衷概念が生まれた。

もうお分かりだろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? この答えとして:legal personは元々、大航海時代、植民船団に乗り込む商人達とキリスト教宣教師達とによって構成される植民地化事業組織体(colonization business enterprise)を意味した、と応じることができる。

なお、本号をまとめるにあたり、佐藤彰一(著)『宣教のヨーロッパ-大航海時代のイエズス会と托鉢修道会 (中公新書)』が参考になりました。特に、religious societyとreligious orderの違いの記述は本書に依る所が大きい。一読をお勧めします。

…さて、久しぶりにコラムを書いてみました。如何でしたか? 2004年から書き始め2018年1月には243話目を書きましたが、長らく休刊していました。以前はWordで書いてリンクボタンを設定していましたが今回からWordpressに直接書き込もうと考えています。以前のように毎週発行というわけにはいきませんが、取り上げたい題材がふっと頭の中にインスパイアされたとき、あるいは、読者の方から「コレコレを解説してくれ」とご要望があったとき、随時発行しようかと思います。ご期待下さい。また、取り上げてもらいたい題材ありましたらドシドシお寄せ下さい。お待ちしています。