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clm.244: legal person(法人)の元々の意味は…。

日本では現在、”legal person”も”corporate”も「法人」と和訳することになっていてこの二つの概念を区別できない。そしてほとんどの組織体が「法人」だと法律によって規定され、「法人なのだから法人税を払え」と国家によって強制されている。例えば正確さは欠くがザッとしたところを言えば「宗教法人も法人税を払え」、英語に直すと「religious legal personも、corporate income taxを払え」という様な混乱した事態を招いている。日本はどうしてこうなったのか…?

そもそも、legal personはcorporateを意味するものではなかったはず。こう分かるのは、legal person概念の淵源が古代ローマ帝国のローマ法にまで遡ることができるからだ。古代ローマ人達はこの世の全ての存在を人と物とに分類し、物なら権利を持たない、人なら権利を持ちうると考えていた。そして複数人で構成される組織も”人”だとして所有権等を持たせることをenable(法律的に可能に)した。古代ローマ帝国の言葉でpersona sui juris ー 法律上のペルソナ、これがlegal personという概念の発端。その頃、現代のようなcorporateがあったはずはない。だから元来legal personがcorporateを意味するものではなかったと分かる。

では何時、現代のようなcorporateが発明されたのか? これを考えるためにGoogle Ngramを使うことにする。これは、西暦1500年から2008年の500年間に世界で発刊された全ての活字書籍をGoogleがOCR(光学的コード読取)し、使用された用語・概念をピックアップし、用語・概念ごとにその出現頻度を縦軸に、出現年代を横軸にしたグラフを提供する。

Google Ngramを使うと例えば、左図の様に19世紀末西洋において、現代のcorporateを成立させる二つの重要な発明があったことが分かる。即ち、corporate accounting(日本でいう複式簿記法人会計)、ならびに、該会計方法によってほぼ定式的に計算されるcorporate incomeの金額の多寡に応じて国家が課税するcorporate income tax(日本でいう法人税)、これらが発明されたことが分かる。また、これらが国家によって強制されるcorporate(またはcorporation)という組織形態がこの時発明されたことも分かる。これら発明の国家経済への貢献は絶大だった。国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismが生み出され、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。つまり…。

FordやGMの様なcorporatesが自動車製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを整備する。すると益々自動車は売れるようになりFordやGMは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で道路網インフラを更に整備し…。

1878年設立のエジソン電気照明会社に端を発するGEの様なcorporatesが、家電製品製造販売で利益(corporate income)を計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを整備する。すると益々家電は売れるようになりGEは更に大きなcorporate incomeを計上しそこから税金を国家に納める。国家はその税金で発電・送電網インフラを更に整備し…。

この様なcorporatismの好循環は常にではないが何度か起こり、19世紀末以降、物財的経済が大きく発展する時代を迎えた。当然のように「corporateこそlegal personの究極の進化形態」という法理が定着し、corporateとlegal personを同一視する西洋近代法学が生まれた。

この様な19世紀に明治維新を迎え西洋流近代化を急いだ日本は、当時の最新の西洋法学を輸入する際に「legal personとcorporateとを同一視して良いならば訳語をわざわざ二つ考案する必要はない」と拙速に考え、どちらも「法人」と和訳するようになった。そして呪文のように「法人なら法人税」と考えるようになった。これが先程の質問「どうしてこうなったのか」の答え。

ただ、この拙速な和訳による単純な呪文「法人なら法人税」は、しばらくの間効力を発揮した。

corporatismによる経済運営は、20世紀世界に公害や世界大戦をもたらすなど負の部分も大きかったが、20世紀中盤まで百年間ほどは西洋においても日本においても物財的経済成長をもたらした。西洋においては概念区別が可能なlegal personとcorporateとを、日本においては区別しないという「拙速な翻訳」「西洋近代法学一夜漬け学習」は、20世紀中盤まで、大きな問題を生まなかった。

しかし…。20世紀終盤の頃から、国家とcorporatesが二人三脚で経済を成長させるcorporatismがかつてほどは機能しなくなった。日本と西洋各国の経済は、高度経済成長を含む好不況の循環を何回か経た後の1980年代、いわゆるsecular stagnation(長期停滞、世俗停滞)に陥った。corporateは事業組織体として究極の進化形態ではなかった。それはウェーバーが予言した「人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめたとの自惚れ」か、尊大な勘違いだったようだ。

そう気づいた西洋は、corporateではないlegal personの制度設計に取りかかった。そう、左図にあるpartnership、大航海時代を迎えた1600年東インド会社を西洋各国が次々に設立する際に使用した事業体制度スキームであるpartnership、これの改良設計に取りかかった。partnereshipを土台にしてLLC(ドイツではGmbH))という新たな事業体制度設計、即ち、corporateのものとは全く異なる契約法、会社法、会計法、税法の制度設計に取りかかった。この根本的発想転換は西洋では可能だが、残念ながら日本では無理だ。legal personとcorporateとを同一視し「corporateこそ事業体の究極の進化形態」と未だに信じて疑わない日本には残念ながら不可能だ。

さて、本題に取りかかろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? ヒントは、legal personが、世俗概念(legal)と宗教概念(persona、ペルソナ)ー 父と子と聖霊の三位一体に現れる「位格」、rights(権利)の根源 ー の折衷概念だということ。

ちなみに、西洋流法学あるいは西洋社会思想づくりは、ことあるごとにこの様な”水と油” ー 世俗と宗教の融合を図ろうとするところに特徴があると私は感じている。他にも例えば、第二次世界大戦直後に概念形成されたhuman rights、世俗概念(human)と宗教概念(rights)ー 語源は聖句:神の右(right)の座に着く者は正しい(right)ー の折衷概念も同様の試み。年代は戻るが、1648年にWerstphaliaで苦労して折衷させたnation-stateという概念形成も同様の試み。…本題に戻ろう。

実は、legal personという折衷概念が生まれた17世紀後半、全く同時にもう一つの折衷概念が考案された。それはreligious society(宗教的結社)という折衷概念、即ち、宗教概念(religious)と世俗概念(society、結社)との折衷概念。これと同時にlegal personという折衷概念も生まれたことが、左図を見ると分かる。

religious society(宗教的結社)とは、例えばイエズス会のような新たなキリスト教宣教師集団。即ち、従来型のベネディクト会の様な、世俗との関わりを絶って労働と祈りの中に静謐に生活する観想修道会(religious order)と異なり、時には戦士となり時には政治家となり時には通商交渉人となり、アジアの新たな植民地に向かって東インド会社が仕立てる大航海船団に商人達と一緒に乗り込み、キリスト教の新たな布教地に宣教に向かうreligious society(宗教的結社)。これが生まれたとき、legal person(法人)、legal personality(法律的人格)という折衷概念が生まれた。

もうお分かりだろう。legal person(法人)の元々の意味は何か? この答えとして:legal personは元々、大航海時代、植民船団に乗り込む商人達とキリスト教宣教師達とによって構成される植民地化事業組織体(colonization business enterprise)を意味した、と応じることができる。

なお、本号をまとめるにあたり、佐藤彰一(著)『宣教のヨーロッパ-大航海時代のイエズス会と托鉢修道会 (中公新書)』が参考になりました。特に、religious societyとreligious orderの違いの記述は本書に依る所が大きい。一読をお勧めします。

…さて、久しぶりにコラムを書いてみました。如何でしたか? 2004年から書き始め2018年1月には243話目を書きましたが、長らく休刊していました。以前はWordで書いてリンクボタンを設定していましたが今回からWordpressに直接書き込もうと考えています。以前のように毎週発行というわけにはいきませんが、取り上げたい題材がふっと頭の中にインスパイアされたとき、あるいは、読者の方から「コレコレを解説してくれ」とご要望があったとき、随時発行しようかと思います。ご期待下さい。また、取り上げてもらいたい題材ありましたらドシドシお寄せ下さい。お待ちしています。

2014 number of active C-Corp = 1,570,796

2014年の米C-Corp数は1,570,796だった。この数字は、IRSが発行した2014 Corporation Complete Report (Publication 16) (PDF).pdfの9頁に載っている。9頁 Figure G.の、form type 1120の行と2014の列の交点。依然として単調減少を続けている。グラフを更新しエクセルファイルを~archivesの資料・グラフにアップしておいた。なお”form type”は「税務申告用紙の形式」を意味する。1120は、用紙形式番号。

米corporate tax stats公開は、IRS-SOI(米国内国歳入庁 所得統計部)にとって最重要責務だったはず。事実、私がLLC研究を始めた2000年代前半は、data updateがpartnership statsよりもcorporate statsの方が早く為されていた。それが今は、corporate statsについてComplete Reportは発行しても、A4一枚で概要が分かるsnap shotは発行がされなくなったか、とても遅れるようになった。隔世の感がある。

ただ今回、Complete Reportを読む機会を得て有益だったこともある。1992年からプロットしてきたC-corp数が、inactive C-corpを除いたactive C-corpの数であることが分かった。2014年のinactive C-corp数は、7頁Figure. Eの2014 populationの列とform type 1120の行の交点にある1,769,209から先程の数1,570,796を引き算した数、198,413と分かる。2014年、ざっと10%強のC-corpがinactive。

ちなみに“inactive”とは何か詳しく知りたい人のために、記載された凡例を転記しておくと:
…nonprofit corporations, returns having neither current income nor deductions, and prior-year tax returns.   Additionally, amended or tentative returns, nonresident foreign corporations having no effectively connected income with a trade or business located in the United States, fraudulent returns, and returns filed by tax-exempt corporations…
ここで、”return”は「税務申告」を意味し、”file”は「書類提出する」を意味する。

冒頭に”nonprofit corporations“とあり、末尾に”tax-exempt corporations”とあることに注意されたい。後者は、最近伸長著しいB-Corp (benefit corporation)のことであり、前者は従来からあるnon-profit組織のこと。B-Corp (benefit corporation)については、機会があれば別途詳しく説明したいが、以下、簡単に説明すると。

B-Corp (benefit corporation)とは、営利事業と非営利事業を合わせ持つcorporation。営利事業でprofit(つまりcorporate income)を一端は計上するのだが、該profitを非営利事業に費消するため、corporate income tax(日本でいう法人税)を国家税務当局に納税することはしない。例:Ben and Jerry’s、営利事業としてアイスクリーム製造販売、非営利事業としてDemocracy advocacy。近年は「気候変動へアクションを」のadvocacyを行っている。日本でも営業しており、各地に風力発電所や太陽光発電所を建設している。

お分かりだと思うがB-corpは、2009年オバマがオバマケア提案の際にcodifyしたeconomic substance doctrine(経済の本質を持つ事業はcorporate income taxをexemptされる、という法理)の成果の一つ。オバマケアのねらい通り、病院経営をするB-corpも現れている。記事:A Benefit Corporation Steps Up to Purchase a Chicago Hospital 参照方。

分科会2019#4(9月21日) 開催通知および配付資料

夏休みを挟むので早めに案内を出します。参加者は各自課題図書を読む、乃至、課題映画を観て、どちらかでA4-2頁程度の発表資料を用意してご参加下さい。ちなみに私の発表資料はこれ

日時2019年9月21日土曜日 13:30 ー 15:30
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマニセの預言者 - 人を操るために恐怖と絶望を駆り立て、心ない憎しみの言葉や魔物の様な経済公式を言いふらし、利己的な繁栄や幻想に過ぎない安全保障を広めようとする、ニセの預言者に打ち勝つには。

配付資料

応答責任 (responsibility)は必ずしも帰結責任 (consequencibility)を伴わない

植村邦彦氏の近著『隠された奴隷制』を読んだ。本屋に平積みにされていたのを、帯のアイキャッチ:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか、に引かれて購入し一気に読んだ。

本書は、国家や現行経済を基盤とする現在の社会システムはその根底に「隠された奴隷制」を含んでいると主張する。フランシスコ教皇の「新たな隷従形態」と通底する主張であり、カトリック社会思想(CST)の用語で言えば、Liberation Theology(解放の神学)による現代社会システム分析に近い、というか「そのものズバリ」の印象を持った。

著者の植村邦彦氏はマルクス研究を専門とし、解放の神学はマルクシズムに近いとされたこともあるので、両者の主張が類似するのは合点が行く。

ただ、カトリック社会思想(CST)の方は、2013年のフランシスコ教皇着座以来、解放の神学から次の段階であるTheology of the people(the peopleの神学)に進んでいる。善悪を判断するethics(倫理学)において大きな変化が起きた。旧来の、義務論倫理 ー 嘘はいけない、盗みはいけないといった行為固定的な倫理、および、功利主義倫理 ー 行為のconsequence (帰結)に効用(utility)が多いか少ないかで善悪を判断する倫理から、virtue ethics ー 不適切だが徳倫理と和訳されることが多い。各人の内面から響く或る種「良心の声」にrespond(応答)するのを「善」とする ー 新たな倫理へと、大きな変貌を遂げた。

virtue ethicsを基底に据えた現在のカトリック社会思想では、libertyとfreedom ー 日本語ではどちらも同じく「自由」と訳される概念 ー を峻別する。libertyは、public welfare(公共福祉)を目指す国家などが定める法律体系の中で許される「自由」を意味し、freedomは、その上位概念であるthe common good(共通善)の中で許される「自由」を意味する。

(註:共通善の定義はここで紹介したように学派ごとに様々な定義がある。私自身はライプニッツの「human understanding(人知、人間知性)を超越しながらもeach personによるdiscernmentによってcommonにsenseできる「善」の概念」がシックリくる。)

即ち現在のカトリック社会思想では、libertyは旧来の倫理(義務論倫理ないし功利主義倫理)によって規定されると考え、freedomは新しい倫理つまりvirtue ethicsによって規定されると考える。従って現在のカトリック社会思想では「隷従状態からの解放」つまり「自由」は、単に国家や現行経済による支配からの解放を意味しない。現在のカトリック社会思想での「隷従状態からの解放」つまりfreedomは、フランシスコ教皇ないし国連人間環境会議(1972)の言葉を借りれば、その人がa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持つときgrant(要求に応じ付与)される、と考える。

・・・前置きが長くなったが、本書は「隠された奴隷制」からの「解放」を旧来の倫理観で模索しているようだ。例えば第5章の2「自立と自己責任」で、個人が持つ自立心や自由意志は「自己責任」というキーワードを国家や企業に与えてしまい、「悪いのは社会構造・社会制度でなくあなた個人」という理屈を与えてしまうから、諸手を挙げて「賛成」とは言えないとしている。

私はこの辺りに「違和感」を覚えた。自由意志(freewill)をa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持とうとする意志、ととらえれば、自己責任(self-responsibility)とは「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」であり、結果(consequence)を出すことでも既存の法律を遵守することでもない。国家や企業から「悪いのは社会構造・社会制度ではなくあなた個人」なんて言われる筋合いのものではない。

整理しよう。日本語では単に「責任」と訳されるresponsibilityは、libertyとfreedomを峻別する現在のカトリック社会思想においては「応答(respond)する責任」詳しく言えば「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」を意味し、必ずしも結果を出す責任(consequencibility)を伴わず、必ずしも既存の法律を遵守することを意味しない。

本書の帯の質問:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか? 答え:私たち日本人が知る「自由」が、libertyであってfreedomではないから。・・・と、現在のカトリック社会思想からは答えることが出来る。

equity (衡平)とは「当事者間で釣り合って平ら」を意味し、公平 (公 (おおやけ)に平ら)とは異なる

米国租税裁判所レポート 2004 July to Decenber簡素、柔軟、衡平」これがpartnership税制原則

これは、左掲した『米国租税裁判所レポート2004年7月-12月 Vol. 123』84頁を半訳してみれば分かる。

(以下半訳)米国国会は、米国連邦税制における幅広い権限をthe partners of a partnershipに与え今日に至っている。彼らpartnersが、事業体を形成し経営しそして解散するための管理協約から成る、partnership事業関係協約をnegotiateし、その結果simplicity, flexibility, and equity as between the partners(簡素、柔軟、当事者間衡平)を達成できるようにするためである。Foxman v. Commissionaer, 41 T.C. at 549-552(そこで引用された国会立法過程)も参照されたい。また、Moore v。Commissioner, 70 T.C. 1024, 1033 (1978); Kresser v. Commissioner, 54 T.C. 1621, 1630-1631 (1970)も参照されたい。(以上半訳)

註:T.C.とは、Reports of the United States Tax Courtのこと。全巻をここから見ることができる。

・・・何故これを今改めて陳べたかというと、日本の租税学の権威である金子宏先生が、未だに「公平」だけを主要な税制原則にする考えを述べているのを知ったからだ。それは、學士會会報No. 937(2019年7月)に寄稿された『~随想~ シャウプ勧告とわが国の税制』金子宏(東京大学名誉教授、東大・法・昭28)。全文をネットで見られる様になるのはもう少し先のことのようだが、目次はココないしココで見ることができる。機会があったら読んで頂きたい。

なお、coporate税制原則は、simple, fair, neutral(簡素、公平、中立)とするのが一般的。

分科会2019#3(7月20日) 開催通知および配付資料

開催通知

日時 2019年7月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所 東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ popular economyとは何か
当ブログ記事:経済的実体法理 economic substance doctrine を参考にして

配付資料

経済的実体法理 economic substance doctrine

オバマケア演説 20090909オバマ政権 (2009年1月~2017年1月)の最大功績は、経済的実体法理を米連邦法の内国歳入codeに成文化したこと。(内国歳入codeは、日本でいう租税法に相当。)

経済的実体法理とは「partnershipによる租税回避は、そこに経済的実体(economic substance)があるならlawful(適法)とする」という法理のこと。(この場合、legalではなくlawfulという。日本語だとどちらも「適法」となって区別がつかない。)

partnershipでは、減価償却費用や利益(≒所得)や内部留保金の認識権限が国家当局ではなく事業当事者(partner)にある。というかそもそも、その様な勘定科目を持つ発生主義会計が強要されない。用いる会計手法を自由に選択して良い。例えば、年度会計でなく20年後に会計を閉めるのでも良い。そのため、国家は事業組織の年度毎に所得(=収入ー費用)を強制的に定めることが出来ない。結果、corporate income tax(日本でいう法人税)の様な税をpartnershipは回避できてしまう。これを租税回避(tax shelter)という。

corporate income taxを回避できる。これは、corporatismで経済を運営することを常とする国家にとっては一大事。corporatismとは「国家とcorporatesが二人三脚で足並みを揃えて国家経済を成長させていくこと」と以前説明した。例えば、自動車を製造販売して儲けたcorporateからcorporate income taxを、その従業員達からindividual income taxを国家は徴税する → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり国家税収が増える → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり・・・という経済成長のこと。

即ちcorporate income tax(とその従業員達からのindividual income tax)は二人三脚を行う国家とcorporatesの足を結ぶハチマキの役割。このハチマキが外れてしまえば足並みはそろわなくなり、corporatismによる経済成長が保てなくなる。ということで、租税回避の要件である経済的実体とはいったい何なのか、実は20世紀の間中(正確には1935年のGregory v. Helvering判決以来)米国租税法学者達は大論争を続けていた。

経済的実体の定義を、狭くすれば租税回避はやり難くなるし、広くすればやり易くくなる。

写真の様にオバマは、大統領就任から僅か8ヶ月の2009年9月9日の上下両院合同国会で、オバマケアの必要性を訴える演説をした。この演説は大成功で、その結果オバマケアは成立にこぎ着けた。その中、経済的実体法理が成文化された。(法文の英文はここ。スクロールを長く最後近くまで行って、(o) Clarification of economic substance doctrineという箇所を見つけて欲しい。)

私は2010年に主要箇所を半訳しておいた。7月20日分科会の資料にしようと思いここに再掲する。経済的実体の定義が狭いのか広いのか、あるいはもっと別次元の定義なのか皆さん自分で確かめて頂きたい。

20190709追記:
‘(1) 経済的実体法理の適用 – 以下の場合のみ・・・経済的実体を持つものとして扱われる。–

‘(A) 当該取引が、(連邦所得税の効果とは別の)意味ある方法によって、当該納税者の経済的ポジションを変化させ、且つ、
‘(B) 当該納税者が、(連邦所得税の効果とは別の)実体のある目的をもって該取引を行っている。

の部分、特に赤字で示した「方法」「目的」を読んで頂けたと思う。重要なのは「連邦所得税の効果とは別の」の部分。(注記:米国の連邦所得税はcorporate income taxとindividual income taxとを合わせて意味する。)

お分かりだろう。従来の経済、即ち国家がcorporatesと足並みを揃えて行うcorporatismによる経済、これとは別の経済として、経済的実体を定義している。従来の経済の意味で「狭い広い」を定義しているのではない。別次元の定義。

更にお分かりだろう。オバマは、オバマケア提案の際に経済的実体法理の成文化を提案している。そう、オバマはヘルスケアという産業を、国家がcorporatesと行うcorporatismによる経済とは別の経済として捉えている、ということが分かる。

国家が、非国家経済(non-state economy)の有用性を正式に認め、それに国家が干渉してはならないことを認めた(20190712, 20190718 追記)

法文の (o)-(5)-(c) Determination of application of doctrine not affected、は半訳すると:
(C) 本法理が適用できるかどうかの判断に影響を与えない – この経済的実体法理が或る取引に適用可能かどうかの判断は、このsubsessionが立法化されなかったかの如くに行わなければならない。
・・・となる。

下線を引いた「立法化されなかったかの如くに」の部分には、否定形の仮定法過去完了:as if ナニナニ had never been enacted、が使われている。法文に仮定法が使われるのは珍しい。ましてや「この法文は無かったことにして、或る取引の租税回避がlawful (適法)かどうか判断してくれ」というのは前代未聞。

或る取引に経済的実体があるのかどうか、即ち、該取引の租税回避が適法なのかどうか、これを法文に従って客観的に明確に判断できないのでは、何のためにこの法文を設けたのか良く分からない、というのが初学者の印象かもしれない。

しかし良く考えてみると、繰り返される「連邦所得税とは別の効果」(apart from Federal income tax effects)という言葉から、それ位、非国家経済(non-state economy)に国家が干渉してはならないことを重要視している、換言すれば、非国家経済(non-state economy)が「連邦所得税とは別の効果」を生み出すことを期待している、と分かってくる。

つまり、既存の連邦所得税によるcorporatism経済が、新たな非国家経済の創出を妨げてはならない。このことを肝に銘じている。この様なオバマの経済的実体法理codify(成文化、code化)は、partnership組織論研究者にとって「待ちに待ったこの日が遂に来た」というものだった。

ここに、フランシスコ教皇の言うpopular economyとは何なのか、探るための一つのヒントがある。

学び合いの会Web Site移設

2001年に始まった真生会館「学び合いの会」ウェブサイトが設けられていたgeocitiesは、今年3月末を以てサービスを終了

このウェブサイトを運営していたS.M.さんから全HTMLデータを渡された。

とりあえず、http://manabi-ai.d.dooo.jp/ に移設して再開しておいた。