前回コラムでproduction boundary(生産境界)という概念を紹介した。それは左図 ― マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』Fig.1 ― にある様に、あらかじめ価値(value)の定義が決められたうえで、様々な人間が何かを生み出そうとするいろいろな、その人にとっての価値の生産活動を、他者が、これは価値を生む(productive)/これは価値を生まない(unproductive)と、勝手に決めつける「選別」境界を意味する。
具体例を再掲すると、或る人が自分の家族のために食事をつくるのは「生産」ではないが、その人がどこかの料理店で販売用の食事をつくれば「生産」とみなす。同様に、或る人が自宅で子供を子育てしても「生産」ではないが、その人がたまたま保育士でどこかの保育園で子供を保育(子育て)すればそれは「生産」とみなされるといった具合。(deligability criterion、委任可能性基準、他の人に代わってもらえるかどうか、代わってもらえるものが「生産」だとする考え方。)
マッツカートは、この様な生産境界が、現行経済システムの「病根」であり、差別や格差を生み出す「元凶」だと論じた。
いったいどうしてこの様な差別概念が生まれたのだろうか? 実は、奇妙なことに、経済に公平性(eauality)ばかりを求めると、いずれ生産境界という差別的「選別」という「魔物」に辿り着く。人間界にはこの様な或る種「皮肉な運命」が組み込まれている。今回はこの話をしてみよう。まず、近代経済学のはじまりから。それは一見、公平性(eauality)を実現したかに見えた…。
左に示したのは、近代経済学の父、アダム・スミス『諸国民の富』(1776年)のことば。(マッツカート著『全てにそれぞれ価値がある』第一章の冒頭に引用されていることば):
There is one sort of labour which adds to the value of the subject upon which it is bestowed: there is another which has no such effect. The former, as it produces a value, may be called productive; the latter, unproductive labour.
Adam Smith, The Wealth of Nations (1776)
半訳:或る種の労働は、その労働に賦課された課題にthe value(該課題に関し相応の価値)を付け加える一方で、他の種類の労働にはその様な効果がない。従って前者を、それがa value(或る種の価値)を生むという意味で生産的(productive)労働と呼び、後者を非生産的(unproductive)労働と呼ぶのがいいだろう。(訳註:ここではsubjectを「課題」と訳したが、18世紀西洋という時代背景を考えると「国王権威ないし教会権威の下にある臣下」と訳すこともできる。)
つまり、生産的/非生産的の差別がはじまったのは、アダム・スミスの時代、則ち、二百数十年前、18世紀後半、産業革命が始まり、大量生産される規格商品が市場における「需要」と「供給」のバランスによって価額(price)という「数字で表現できる価値」をもつようになってから。
この「数字で表現できる価値」は、公平な経済を実現する上で大変重要だった。しかし「価値」のもう一つの側面、subjective factor(主観的要因)が抜けおちてしまった。「数字で表現できる価値」は、主にobjective factor(客観的要因)から計測された価値であり、人間社会におけるeverythingがそれぞれに持つ「価値」の一部しかとらえていない。一見「公平」な経済を形成するために役に立つように見えるが、それは各人間のpersonalな多くの側面を考慮から外して成立させたequality(公平、平等)であり、早晩、破綻を迎えることが予想された価値評価方法による公平(equality)だった。
先程のアダム・スミスの言葉にも、注意してみれば、この「破綻」を予想していたかのような、ニュアンスが読み取れる。the value of the subjectとa valueとを考察対象とし、the value of everythingではなく限定された特定の価値(the specified value)だけを考察していることを明確にしている。
・・・さて、長くなるので今回はここまで。次回は、生産境界が生み出す不思議のもう一つの例、帰属家賃(imputed rent)について説明する予定。短く言うと、持家(もちいえ)が「自分が自分に貸す貸家(かしや)」だと想定して、自分が自分に払う仮想的「家賃」のことを帰属家賃(imputed rent)と呼ぶ。チンプンカンプン極まりない。請うご期待。
最後に、マッツカート『全てにそれぞれ価値がある』の最終章最終節「万人のためのより良き未来」の三段落を半訳したのでご覧に入れる。価値のsubjective factor(主観的要因)とobjective factor(客観的要因)との使い分けが出てくる。確認頂きたい。
A BETTER FUTURE FOR ALL 「万人のためのより良き未来」
Mazzucato, Mariana. The Value of Everything: Making and Taking in the Global Economy (p.279). PublicAffairs. Kindle 版. 第九章第三節
The concept of value must once again find its rightful place at the centre of economic thinking. More fulfilling jobs, less pollution, better care, more equal pay–what sort of economy do we want? When that question is answered, we can decide how to shape our economic activities, thereby moving activities that fulfill these goals inside the production boundary so they are rewarded for steering growth in the ways we deem desirable. And in the meantime we can also make a much better job of reducing activities that are purely about rent-seeking and calibrating rewards more closely with truly productive activity.
価値という概念は今一度、その本来の位置、経済学研究の中心に戻す必要がある。いったいどの様な種類の経済を目指すのか? 則ち、もっと自己実現に適った仕事、もっと低い環境汚染、もっと充実した健康保険、もっと平等な賃金 ―どれを私達は欲しているのだろうか? この質問に答えられてはじめて、どのような経済活動を具体化すればいいのか私達は知ることになる。そうしたうえで、これらのゴールに向かう活動が内側に入るよう生産境界を設定すれば、確かに、私達が望む方向に経済成長を向かわせる活動が報酬を得ることになるし、利潤追求だけに偏った活動を矯正することも、真に生産的な活動に対し好意的な報酬を払うよう調整することも、できるようになる。
I began the book stating that the goal was not to argue that one value theory is better than another. My aim is for the book to stir a new debate, putting value back at the centre of economic reasoning. This is not about drawing firm and static fences around the production boundary, arguing that some actors are parasitic or takers, while others are glorious producers and makers. Rather we should have a more dynamic understanding of what making and taking are in the context of the societal objectives we have. Both objective and subjective factors will no doubt come into play, but the subjective ones should not reduce everything to an individual choice, stripped from the social, political and economic context in which decisions are made. It is those very contexts that are affected by the (objective) dynamics of technological change and corporate governance structures. The latter will affect the way that income distribution is determined, as will the strength of workers to bargain their share. These structural forces are results of decision-making inside organizations. There is nothing inevitable or deterministic about it.
しかしながら、この本の冒頭で私は、唯一のベストな価値理論を見いだすのがゴールではないと述べた。今一度、価値理論を経済学的理論作りの中心に戻し、新たな議論を巻き起こす、これが本書で私が目的としたこと。それは、びくともしない固い壁を生産境界に持たせることでも、一方の者達を経済に寄生する富の掠奪者だと断ずることでも、他方の者達を栄誉ある生産者・富の生成者だと称賛することでもない。そうではなく私達は、今ある社会目的の文脈の中で、富の生成と取得とはそもそも何であるのか、より動的なunderstandingを持つべきだ。そしてこの議論の中で、価値の客観的要因も主観的要因も両方が重要となってくるのは疑いようがない。ただここで注意喚起したい。価値の主観的要因は、全てを個人的選択に帰すものではない。則ち、価値の主観的要因によって、その背景にある社会的・政治的・経済的な意志決定の文脈の全てを剥ぎ取られるわけではない。価値の主観的要因によって剥ぎ取られるのは、該(価値評価対象に関する)技術変化とcorporate governance構造が織りなす動力学によって影響を受ける文脈だけだ。特に後者のcorporate governance構造は、組織所得の分配に影響を与えるので、そのcorporateの従業員達が分け前交渉する強度に影響を与える。しかしながらこれらの構造的影響力は、その特定の組織内での意志決定の結果に過ぎない。そこには逃れようのない決定的なものは何も無い。
I have tried to open the new dialogue by showing that the creation of value is collective, that policy can be more active around co-shaping and co-creating markets, and that real progress requires a dynamic division of labour focused on the problems that twenty-first-century societies are facing. If I have been critical, it’s because such criticism is badly needed; it is, moreover, a necessary preliminary to the creation of a new economics: an economics of hope. After all, if we cannot dream of a better future and try to make it happen, there is no real reason why we should care about value. And this perhaps is the greatest lesson of all.
以上、本書において私は、価値の創造はcollectiveに行われること、政策はco-shaping and co-creating marketsを巡ってより活発に実行に移される可能性が高まること、本来の社会進歩には、21世紀社会が直面する諸問題に焦点をあてて労働力を動的に分割する必要があること、これらを示すことによって、新たな対話を開こうと試みた。批判的過ぎるとの誹りを受けるとするのならば、これら批判は必要悪だと答えたい。いやそれ以上だ。これは、新たな経済、希望の経済を創造するにあたって必要な準備だ。なぜなら、とどのつまり、もしも私達がより良い未来を夢見てそれを実現しようと努力することが不可能ならば、実の所、価値について思いを巡らすべき本当の理由は何もないからだ。そしてこれこそが、万人にとって最も大きな教訓なのかもしれない。