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equity (衡平)とは「当事者間で釣り合って平ら」を意味し、公平 (公 (おおやけ)に平ら)とは異なる

米国租税裁判所レポート 2004 July to Decenber簡素、柔軟、衡平」これがpartnership税制原則

これは、左掲した『米国租税裁判所レポート2004年7月-12月 Vol. 123』84頁を半訳してみれば分かる。

(以下半訳)米国国会は、米国連邦税制における幅広い権限をthe partners of a partnershipに与え今日に至っている。彼らpartnersが、事業体を形成し経営しそして解散するための管理協約から成る、partnership事業関係協約をnegotiateし、その結果simplicity, flexibility, and equity as between the partners(簡素、柔軟、当事者間衡平)を達成できるようにするためである。Foxman v. Commissionaer, 41 T.C. at 549-552(そこで引用された国会立法過程)も参照されたい。また、Moore v。Commissioner, 70 T.C. 1024, 1033 (1978); Kresser v. Commissioner, 54 T.C. 1621, 1630-1631 (1970)も参照されたい。(以上半訳)

註:T.C.とは、Reports of the United States Tax Courtのこと。全巻をここから見ることができる。

・・・何故これを今改めて陳べたかというと、日本の租税学の権威である金子宏先生が、未だに「公平」だけを主要な税制原則にする考えを述べているのを知ったからだ。それは、學士會会報No. 937(2019年7月)に寄稿された『~随想~ シャウプ勧告とわが国の税制』金子宏(東京大学名誉教授、東大・法・昭28)。全文をネットで見られる様になるのはもう少し先のことのようだが、目次はココないしココで見ることができる。機会があったら読んで頂きたい。

なお、coporate税制原則は、simple, fair, neutral(簡素、公平、中立)とするのが一般的。

経済的実体法理 economic substance doctrine

オバマケア演説 20090909オバマ政権 (2009年1月~2017年1月)の最大功績は、経済的実体法理を米連邦法の内国歳入codeに成文化したこと。(内国歳入codeは、日本でいう租税法に相当。)

経済的実体法理とは「partnershipによる租税回避は、そこに経済的実体(economic substance)があるならlawful(適法)とする」という法理のこと。(この場合、legalではなくlawfulという。日本語だとどちらも「適法」となって区別がつかない。)

partnershipでは、減価償却費用や利益(≒所得)や内部留保金の認識権限が国家当局ではなく事業当事者(partner)にある。というかそもそも、その様な勘定科目を持つ発生主義会計が強要されない。用いる会計手法を自由に選択して良い。例えば、年度会計でなく20年後に会計を閉めるのでも良い。そのため、国家は事業組織の年度毎に所得(=収入ー費用)を強制的に定めることが出来ない。結果、corporate income tax(日本でいう法人税)の様な税をpartnershipは回避できてしまう。これを租税回避(tax shelter)という。

corporate income taxを回避できる。これは、corporatismで経済を運営することを常とする国家にとっては一大事。corporatismとは「国家とcorporatesが二人三脚で足並みを揃えて国家経済を成長させていくこと」と以前説明した。例えば、自動車を製造販売して儲けたcorporateからcorporate income taxを、その従業員達からindividual income taxを国家は徴税する → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり国家税収が増える → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり・・・という経済成長のこと。

即ちcorporate income tax(とその従業員達からのindividual income tax)は二人三脚を行う国家とcorporatesの足を結ぶハチマキの役割。このハチマキが外れてしまえば足並みはそろわなくなり、corporatismによる経済成長が保てなくなる。ということで、租税回避の要件である経済的実体とはいったい何なのか、実は20世紀の間中(正確には1935年のGregory v. Helvering判決以来)米国租税法学者達は大論争を続けていた。

経済的実体の定義を、狭くすれば租税回避はやり難くなるし、広くすればやり易くくなる。

写真の様にオバマは、大統領就任から僅か8ヶ月の2009年9月9日の上下両院合同国会で、オバマケアの必要性を訴える演説をした。この演説は大成功で、その結果オバマケアは成立にこぎ着けた。その中、経済的実体法理が成文化された。(法文の英文はここ。スクロールを長く最後近くまで行って、(o) Clarification of economic substance doctrineという箇所を見つけて欲しい。)

私は2010年に主要箇所を半訳しておいた。7月20日分科会の資料にしようと思いここに再掲する。経済的実体の定義が狭いのか広いのか、あるいはもっと別次元の定義なのか皆さん自分で確かめて頂きたい。

20190709追記:
‘(1) 経済的実体法理の適用 – 以下の場合のみ・・・経済的実体を持つものとして扱われる。–

‘(A) 当該取引が、(連邦所得税の効果とは別の)意味ある方法によって、当該納税者の経済的ポジションを変化させ、且つ、
‘(B) 当該納税者が、(連邦所得税の効果とは別の)実体のある目的をもって該取引を行っている。

の部分、特に赤字で示した「方法」「目的」を読んで頂けたと思う。重要なのは「連邦所得税の効果とは別の」の部分。(注記:米国の連邦所得税はcorporate income taxとindividual income taxとを合わせて意味する。)

お分かりだろう。従来の経済、即ち国家がcorporatesと足並みを揃えて行うcorporatismによる経済、これとは別の経済として、経済的実体を定義している。従来の経済の意味で「狭い広い」を定義しているのではない。別次元の定義。

更にお分かりだろう。オバマは、オバマケア提案の際に経済的実体法理の成文化を提案している。そう、オバマはヘルスケアという産業を、国家がcorporatesと行うcorporatismによる経済とは別の経済として捉えている、ということが分かる。

国家が、非国家経済(non-state economy)の有用性を正式に認め、それに国家が干渉してはならないことを認めた(20190712, 20190718 追記)

法文の (o)-(5)-(c) Determination of application of doctrine not affected、は半訳すると:
(C) 本法理が適用できるかどうかの判断に影響を与えない – この経済的実体法理が或る取引に適用可能かどうかの判断は、このsubsessionが立法化されなかったかの如くに行わなければならない。
・・・となる。

下線を引いた「立法化されなかったかの如くに」の部分には、否定形の仮定法過去完了:as if ナニナニ had never been enacted、が使われている。法文に仮定法が使われるのは珍しい。ましてや「この法文は無かったことにして、或る取引の租税回避がlawful (適法)かどうか判断してくれ」というのは前代未聞。

或る取引に経済的実体があるのかどうか、即ち、該取引の租税回避が適法なのかどうか、これを法文に従って客観的に明確に判断できないのでは、何のためにこの法文を設けたのか良く分からない、というのが初学者の印象かもしれない。

しかし良く考えてみると、繰り返される「連邦所得税とは別の効果」(apart from Federal income tax effects)という言葉から、それ位、非国家経済(non-state economy)に国家が干渉してはならないことを重要視している、換言すれば、非国家経済(non-state economy)が「連邦所得税とは別の効果」を生み出すことを期待している、と分かってくる。

つまり、既存の連邦所得税によるcorporatism経済が、新たな非国家経済の創出を妨げてはならない。このことを肝に銘じている。この様なオバマの経済的実体法理codify(成文化、code化)は、partnership組織論研究者にとって「待ちに待ったこの日が遂に来た」というものだった。

ここに、フランシスコ教皇の言うpopular economyとは何なのか、探るための一つのヒントがある。

クラウス・シュワブ著『Shaping the Fourth Industrial Revolution』

『第四次産業革命をどの様な「形」にするのか』クラウス・シュワブ著
ザッと内容紹介をすると:

冒頭で:「岐路に立つ私たちに課せられた応答責任(resonsibility)はとても大きい。即ち、確かにこの機会にnew technologiesの形を、共通善をpromoteし、human dignityを高め、環境を保護する形に作りだすことは可能だ。しかし言い換えれば、もしこの絶好の機会を逃せば、現在の過酷な状況は悪化の一途をたどり、私利私欲とシステムの歪みが格差を更に拡大し、結果、あらゆるcountryで the rights of people(peopleとしての諸権利)がないがしろにされるのがほぼ確実となってしまう。」

更に:「第四次産業革命がもたらす恩恵を活用するには、次々と生まれる新技術達を、私達の意識下で完全にcontrolできる「単なるツール」と見なしてはい けない。かといって、それが進む先を私達が手引きできない外力と見なすべ きでもない。そうではなく、新しい技術のどこにどうやってhuman values(人間の価値観)を組み込むのか、組み込んだ上で更に、どのように形作ればthe common good(共通善)のためになるのか、environmental stewardshipを推進できるのか、human dignity (人間の尊厳)を尊重できるのか、これらをunderstandする必要がある。」
「今日の先端技術が2世代あるいは3世代かけて成熟した時、私たちの子孫は振り返ってどう思うだろうか。equity (衡平)、尊厳、共通善を尊重する技術開発をしてくれてよかったと私たちに感謝するだろうか。それとも、なぜそうする絶好の機会を逃したのだと、私たちの失敗を嘆くだろうか。」と述べ、

結語で:「もし私たちが主体的に自らの勇気を使い、共通善のために行動することが出来るならば、この先も人類はwell-beingと発展の軌跡を更新し続けられるはずだ。希望は十分にある。過去も現在も産業革命は、人類に進歩と豊かさをもたらしてきているが、その一方で環境破壊や広がるばかりの格差など負の外部性も生起し続けている。昔も今も、その解決は私たちの手に委ねられている。そして行く手(第四次産業革命)にも手強い課題が待ち受けている。即ち、どの様にして、技術の大変革がもたらす恩恵を分配するのか、必然的に生じる外部性を抑制するのか、そしてどうすれば、次々と生まれる先端技術を、私達人類の運命を決めるものにするのではなく、むしろ私達をempowerさせるものにできるのか。これら中心的課題の克服は、細大漏らさず全ての関連ステークホルダーが関わることで、大きく進むはずだ。」と述べています。

他の要所(共通善に言及した九箇所)の内容も~archivesの半訳に載せておきました。読後「ますますフランシスコ教皇とシュワブのタッグが強固となった」との印象を持ちました。

追記(20190402):第三段落を追加しました。
追記(20190407):第三段落を補強しました。
追記(20190415):連想せずにはいられない「未来への祈り」 (ダン・ブラウン『オリジン』)を付記

未来への祈り:
願わくは、我らの思想がテクノロジーに後れをとらぬことを。
願わくは、我らの情熱が支配力に後れをとらぬことを。
願わくは、恐怖ではなく愛が変化の源たらんことを。
そして敢えて言いましょう… 神のご加護を。

2018 Davos会議 冒頭挨拶 教皇フランシスコ

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。Stiglitzの2017年注目論文:Markets, States and Institutionsを参照し、その論旨:「国家(States)と市場(Markets)という枠組み内の制度整備(institutional arrangement)では納まりきらない経済文化圏がemerge(唐突に顕在化)してきており、そこへのundersupplyにより格差が拡大している。従来型、あるいはWashington Consensusに沿った“improve markets” and “increase resources”ではこの問題を解決出来ない。」を踏まえて、カトリックとしての現状把握と対処法の骨子:「the human personのdignityをsafeguardすること」を述べています。

freedomの本質を巡るlibertarianismとdistributismとのbattle

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。先週、「freedomに制限を与えるmoral responsibilityを、重視するdistributismと重視しないlibertarianismの違い、に改めて気付きました。この説明には、二つの「ism」について説明が必要になるので、それはまた別の機会にします。」と書いたのですが、これに関し簡潔な説明を見つけました。distributismに関する2015年発刊の最新教科書:Catholic Economics — Alternatives to the Jungleです。この中の第15章第二項:Freedom、を半訳しました。この教科書全体も、おいおい半訳していきます。

Bitcoinの本質を巡る三つ巴の闘い

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。The New Radicalというドキュメンタリー映画が昨年11月にSundance賞を受賞し、speech:Battle for the soul of Bitcoin(Bitcoinの本質を巡る三つ巴の闘い)を映画監督が行いました。この半訳です。感じたことは二つ。一つは、Bitcoin創成の現在進行中Battleの壮絶さ。この壮絶さを知らない日本人は、決してBitcoin等に手を出してはならない。手を出せば、今回のコインチェック事件のように手酷い目に遭う、ということ。もう一つは、このspeechに直接は出てこないのですが、「freedomの本質を巡るlibertarianismとdistributismとのbattle」といったような事柄。freedomに制限を与えるmoral responsibilityを、重視するdistributismと重視しないlibertarianismの違い、に改めて気付きました。この説明には、二つの「ism」について説明が必要になるので、それはまた別の機会にします。

2018年10月 Youth Synod、教皇フランシスコからyoung peopleへの手紙

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。教皇フランシスコは、2013年3月に着座してから矢継ぎ早に幾つもの重要論文を著し「根本的改革」を経済問題、環境問題、倫理問題に求めました。従来のutilitarianism(功利主義)の倫理や価値観でなく、「共通善」と「each personの尊厳」を土台にした全く新しい考え方の上に、経済や倫理を再構築せよと発言しました。この大改革の担い手に、旧枠組みに縛られた大人達でなくYoung Peopleを教皇は指名した、というのがこの手紙の主旨です。「Young People, the Faith, Vocational Discernment」をテーマにして今年は3月にプレ・シノドス、10月にシノドスが開催されます。関連文書、関連記事を幾つか拾って半訳し、今年一年間この動きを追っていきます。ご期待ください。

ちなみに当サイトの読者なら「Young People, the Faith, Vocational Discernment」をどう半訳されますか?関門の一つは、the Faithの定冠詞theです。またVocational Discernmentを「召命の識別」と訳すのは、教皇の日々の発言から推して不適切です。Young Peopleを「若者」と訳すのも頂けません。テーマ「Young People, the Faith, Vocational Discernment」の上手い訳を思いついた方はjunsaito@eml.llc-research.jpまでお寄せください。

本年もよろしくお願い致します。

 

米国契約法における「約因相当性の不審査」

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。「約因相当性の不審査」とは、交換取引される価値の不均衡を米裁判所は審査しない、即ち、契約当事者間合意つまり約因(considerration)があれば何と何を交換取引しようが国家司法は干渉しない、ということ。日本人の感覚では奇異に感じるかもしれませんが、これこそが「freedom of contract」の最も大きな特徴です。ちなみに「liberty of contract」では国家司法が交換取引される価値の不均衡に干渉します。つまり日本人が知っている「契約の自由」とは「liberty of contract」であって「freedom of contract」ではないのです。

アンドレア・モンロー:税制におけるIntegrity(partnership税制再考)

表記論文の結論部を半訳し、~archivesの「半訳」にアップしました。自然法派の法哲学者Ronald Dworkinが提唱するIntegrity of Law(法の純一性)を備えてこそ、”simplicity, flexibility, and equity as between the partners”という価値観を持った本来のPartnership Taxationが得られる、という主張です。著者はPartnership Taxationのメッカ、NYU出身のアンドレア・モンローです。このほかにも幾つかの関連論文を著しています。今後も新しい論文を出していくでしょう。注目していきます。

教皇フランシスコの説教:画一化による独裁がfreedom of conscienceを破壊する

表記を~archivesの「半訳」にアップしました。freedom of conscience(良心の自由)という概念は、1517年に宗教改革を始めたマルティン・ルターが発明しました。500年経ち、カトリック教皇がその言葉を使って、「独裁」とは何か、その対処法は何か、説明しています。500年前、ルターの宗教改革に呼応してカトリック内部からもcounter reformation(対抗宗教改革)が始まりました。この対抗宗教改革の主な担い手が、1534年に設立されたカトリックのイエズス会です。イエズス会から選出されたカトリック教皇フランシスコが、freedom of conscience(良心の自由)という言葉を使ったのです。カトリック自体の宗教改革がいよいよ本格的に始まったのかもしれません。