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分科会2019#4(9月21日) 開催通知および配付資料

夏休みを挟むので早めに案内を出します。参加者は各自課題図書を読む、乃至、課題映画を観て、どちらかでA4-2頁程度の発表資料を用意してご参加下さい。ちなみに私の発表資料はこれ

日時2019年9月21日土曜日 13:30 ー 15:30
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマニセの預言者 - 人を操るために恐怖と絶望を駆り立て、心ない憎しみの言葉や魔物の様な経済公式を言いふらし、利己的な繁栄や幻想に過ぎない安全保障を広めようとする、ニセの預言者に打ち勝つには。

配付資料

応答責任 (responsibility)は必ずしも帰結責任 (consequencibility)を伴わない

植村邦彦氏の近著『隠された奴隷制』を読んだ。本屋に平積みにされていたのを、帯のアイキャッチ:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか、に引かれて購入し一気に読んだ。

本書は、国家や現行経済を基盤とする現在の社会システムはその根底に「隠された奴隷制」を含んでいると主張する。フランシスコ教皇の「新たな隷従形態」と通底する主張であり、カトリック社会思想(CST)の用語で言えば、Liberation Theology(解放の神学)による現代社会システム分析に近い、というか「そのものズバリ」の印象を持った。

著者の植村邦彦氏はマルクス研究を専門とし、解放の神学はマルクシズムに近いとされたこともあるので、両者の主張が類似するのは合点が行く。

ただ、カトリック社会思想(CST)の方は、2013年のフランシスコ教皇着座以来、解放の神学から次の段階であるTheology of the people(the peopleの神学)に進んでいる。善悪を判断するethics(倫理学)において大きな変化が起きた。旧来の、義務論倫理 ー 嘘はいけない、盗みはいけないといった行為固定的な倫理、および、功利主義倫理 ー 行為のconsequence (帰結)に効用(utility)が多いか少ないかで善悪を判断する倫理から、virtue ethics ー 不適切だが徳倫理と和訳されることが多い。各人の内面から響く或る種「良心の声」にrespond(応答)するのを「善」とする ー 新たな倫理へと、大きな変貌を遂げた。

virtue ethicsを基底に据えた現在のカトリック社会思想では、libertyとfreedom ー 日本語ではどちらも同じく「自由」と訳される概念 ー を峻別する。libertyは、public welfare(公共福祉)を目指す国家などが定める法律体系の中で許される「自由」を意味し、freedomは、その上位概念であるthe common good(共通善)の中で許される「自由」を意味する。

(註:共通善の定義はここで紹介したように学派ごとに様々な定義がある。私自身はライプニッツの「human understanding(人知、人間知性)を超越しながらもeach personによるdiscernmentによってcommonにsenseできる「善」の概念」がシックリくる。)

即ち現在のカトリック社会思想では、libertyは旧来の倫理(義務論倫理ないし功利主義倫理)によって規定されると考え、freedomは新しい倫理つまりvirtue ethicsによって規定されると考える。従って現在のカトリック社会思想では「隷従状態からの解放」つまり「自由」は、単に国家や現行経済による支配からの解放を意味しない。現在のカトリック社会思想での「隷従状態からの解放」つまりfreedomは、フランシスコ教皇ないし国連人間環境会議(1972)の言葉を借りれば、その人がa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持つときgrant(要求に応じ付与)される、と考える。

・・・前置きが長くなったが、本書は「隠された奴隷制」からの「解放」を旧来の倫理観で模索しているようだ。例えば第5章の2「自立と自己責任」で、個人が持つ自立心や自由意志は「自己責任」というキーワードを国家や企業に与えてしまい、「悪いのは社会構造・社会制度でなくあなた個人」という理屈を与えてしまうから、諸手を挙げて「賛成」とは言えないとしている。

私はこの辺りに「違和感」を覚えた。自由意志(freewill)をa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持とうとする意志、ととらえれば、自己責任(self-responsibility)とは「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」であり、結果(consequence)を出すことでも既存の法律を遵守することでもない。国家や企業から「悪いのは社会構造・社会制度ではなくあなた個人」なんて言われる筋合いのものではない。

整理しよう。日本語では単に「責任」と訳されるresponsibilityは、libertyとfreedomを峻別する現在のカトリック社会思想においては「応答(respond)する責任」詳しく言えば「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」を意味し、必ずしも結果を出す責任(consequencibility)を伴わず、必ずしも既存の法律を遵守することを意味しない。

本書の帯の質問:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか? 答え:私たち日本人が知る「自由」が、libertyであってfreedomではないから。・・・と、現在のカトリック社会思想からは答えることが出来る。

equity (衡平)とは「当事者間で釣り合って平ら」を意味し、公平 (公 (おおやけ)に平ら)とは異なる

米国租税裁判所レポート 2004 July to Decenber簡素、柔軟、衡平」これがpartnership税制原則

これは、左掲した『米国租税裁判所レポート2004年7月-12月 Vol. 123』84頁を半訳してみれば分かる。

(以下半訳)米国国会は、米国連邦税制における幅広い権限をthe partners of a partnershipに与え今日に至っている。彼らpartnersが、事業体を形成し経営しそして解散するための管理協約から成る、partnership事業関係協約をnegotiateし、その結果simplicity, flexibility, and equity as between the partners(簡素、柔軟、当事者間衡平)を達成できるようにするためである。Foxman v. Commissionaer, 41 T.C. at 549-552(そこで引用された国会立法過程)も参照されたい。また、Moore v。Commissioner, 70 T.C. 1024, 1033 (1978); Kresser v. Commissioner, 54 T.C. 1621, 1630-1631 (1970)も参照されたい。(以上半訳)

註:T.C.とは、Reports of the United States Tax Courtのこと。全巻をここから見ることができる。

・・・何故これを今改めて陳べたかというと、日本の租税学の権威である金子宏先生が、未だに「公平」だけを主要な税制原則にする考えを述べているのを知ったからだ。それは、學士會会報No. 937(2019年7月)に寄稿された『~随想~ シャウプ勧告とわが国の税制』金子宏(東京大学名誉教授、東大・法・昭28)。全文をネットで見られる様になるのはもう少し先のことのようだが、目次はココないしココで見ることができる。機会があったら読んで頂きたい。

なお、coporate税制原則は、simple, fair, neutral(簡素、公平、中立)とするのが一般的。

分科会2019#3(7月20日) 開催通知および配付資料

開催通知

日時 2019年7月20日土曜日 13:30 ー 15:30
場所 東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ popular economyとは何か
当ブログ記事:経済的実体法理 economic substance doctrine を参考にして

配付資料

経済的実体法理 economic substance doctrine

オバマケア演説 20090909オバマ政権 (2009年1月~2017年1月)の最大功績は、経済的実体法理を米連邦法の内国歳入codeに成文化したこと。(内国歳入codeは、日本でいう租税法に相当。)

経済的実体法理とは「partnershipによる租税回避は、そこに経済的実体(economic substance)があるならlawful(適法)とする」という法理のこと。(この場合、legalではなくlawfulという。日本語だとどちらも「適法」となって区別がつかない。)

partnershipでは、減価償却費用や利益(≒所得)や内部留保金の認識権限が国家当局ではなく事業当事者(partner)にある。というかそもそも、その様な勘定科目を持つ発生主義会計が強要されない。用いる会計手法を自由に選択して良い。例えば、年度会計でなく20年後に会計を閉めるのでも良い。そのため、国家は事業組織の年度毎に所得(=収入ー費用)を強制的に定めることが出来ない。結果、corporate income tax(日本でいう法人税)の様な税をpartnershipは回避できてしまう。これを租税回避(tax shelter)という。

corporate income taxを回避できる。これは、corporatismで経済を運営することを常とする国家にとっては一大事。corporatismとは「国家とcorporatesが二人三脚で足並みを揃えて国家経済を成長させていくこと」と以前説明した。例えば、自動車を製造販売して儲けたcorporateからcorporate income taxを、その従業員達からindividual income taxを国家は徴税する → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり国家税収が増える → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり・・・という経済成長のこと。

即ちcorporate income tax(とその従業員達からのindividual income tax)は二人三脚を行う国家とcorporatesの足を結ぶハチマキの役割。このハチマキが外れてしまえば足並みはそろわなくなり、corporatismによる経済成長が保てなくなる。ということで、租税回避の要件である経済的実体とはいったい何なのか、実は20世紀の間中(正確には1935年のGregory v. Helvering判決以来)米国租税法学者達は大論争を続けていた。

経済的実体の定義を、狭くすれば租税回避はやり難くなるし、広くすればやり易くくなる。

写真の様にオバマは、大統領就任から僅か8ヶ月の2009年9月9日の上下両院合同国会で、オバマケアの必要性を訴える演説をした。この演説は大成功で、その結果オバマケアは成立にこぎ着けた。その中、経済的実体法理が成文化された。(法文の英文はここ。スクロールを長く最後近くまで行って、(o) Clarification of economic substance doctrineという箇所を見つけて欲しい。)

私は2010年に主要箇所を半訳しておいた。7月20日分科会の資料にしようと思いここに再掲する。経済的実体の定義が狭いのか広いのか、あるいはもっと別次元の定義なのか皆さん自分で確かめて頂きたい。

20190709追記:
‘(1) 経済的実体法理の適用 – 以下の場合のみ・・・経済的実体を持つものとして扱われる。–

‘(A) 当該取引が、(連邦所得税の効果とは別の)意味ある方法によって、当該納税者の経済的ポジションを変化させ、且つ、
‘(B) 当該納税者が、(連邦所得税の効果とは別の)実体のある目的をもって該取引を行っている。

の部分、特に赤字で示した「方法」「目的」を読んで頂けたと思う。重要なのは「連邦所得税の効果とは別の」の部分。(注記:米国の連邦所得税はcorporate income taxとindividual income taxとを合わせて意味する。)

お分かりだろう。従来の経済、即ち国家がcorporatesと足並みを揃えて行うcorporatismによる経済、これとは別の経済として、経済的実体を定義している。従来の経済の意味で「狭い広い」を定義しているのではない。別次元の定義。

更にお分かりだろう。オバマは、オバマケア提案の際に経済的実体法理の成文化を提案している。そう、オバマはヘルスケアという産業を、国家がcorporatesと行うcorporatismによる経済とは別の経済として捉えている、ということが分かる。

国家が、非国家経済(non-state economy)の有用性を正式に認め、それに国家が干渉してはならないことを認めた(20190712, 20190718 追記)

法文の (o)-(5)-(c) Determination of application of doctrine not affected、は半訳すると:
(C) 本法理が適用できるかどうかの判断に影響を与えない – この経済的実体法理が或る取引に適用可能かどうかの判断は、このsubsessionが立法化されなかったかの如くに行わなければならない。
・・・となる。

下線を引いた「立法化されなかったかの如くに」の部分には、否定形の仮定法過去完了:as if ナニナニ had never been enacted、が使われている。法文に仮定法が使われるのは珍しい。ましてや「この法文は無かったことにして、或る取引の租税回避がlawful (適法)かどうか判断してくれ」というのは前代未聞。

或る取引に経済的実体があるのかどうか、即ち、該取引の租税回避が適法なのかどうか、これを法文に従って客観的に明確に判断できないのでは、何のためにこの法文を設けたのか良く分からない、というのが初学者の印象かもしれない。

しかし良く考えてみると、繰り返される「連邦所得税とは別の効果」(apart from Federal income tax effects)という言葉から、それ位、非国家経済(non-state economy)に国家が干渉してはならないことを重要視している、換言すれば、非国家経済(non-state economy)が「連邦所得税とは別の効果」を生み出すことを期待している、と分かってくる。

つまり、既存の連邦所得税によるcorporatism経済が、新たな非国家経済の創出を妨げてはならない。このことを肝に銘じている。この様なオバマの経済的実体法理codify(成文化、code化)は、partnership組織論研究者にとって「待ちに待ったこの日が遂に来た」というものだった。

ここに、フランシスコ教皇の言うpopular economyとは何なのか、探るための一つのヒントがある。

学び合いの会Web Site移設

2001年に始まった真生会館「学び合いの会」ウェブサイトが設けられていたgeocitiesは、今年3月末を以てサービスを終了

このウェブサイトを運営していたS.M.さんから全HTMLデータを渡された。

とりあえず、http://manabi-ai.d.dooo.jp/ に移設して再開しておいた。

2016 number of LLC = 2,617,484

2016年の米LLC数は2,617,484だった。この数字は、IRSが発行したsoi-a-copa-id1904.pdfの、84頁に載っている。84頁のNumber of LLCsの行と、All industriesの列の交点。依然として単調増加を続けている。グラフを更新しエクセルファイルを~archivesの資料・グラフにアップしておいた。

ちなみにcorporate数の更新は2013年のデータ 13coccr.pdfが2018-08-30にアップされて以来更新されていない。従ってこちらのデータはグラフに反映できないまま。2014年データが5年遅れの今年8月にアップされるのだろうか。corporate stats整理に何か支障を来す事態が起きているのか?

量子コンピュータの「個体差」あるいは「個性」

量子情報技術研究会第40回に行ってきた。九州大学二泊三日。退職後の醍醐味の一つ。心行くまで知りたいことを知るために時間を使える。

懇親会で偶々知り合った或る発表者の「出力乱数の性質からみた量子コンピュータの現状」が面白かった。研究者向けに公開されているIBMの超伝導型量子コンピュータ(IBM 20Q Tokyo)の20個のqubitの一つ一つの「個性」を調べていた。

一般には、もつれ状態にあるqubitは (|0>+|1>)/√2 という状態にあり、観測によってもつれが解けてcollapse(収縮)したあとは確率50%50%で”0”か”1”の値をとる、と考えられている。しかしIBM 20Q Tokyoで実際に2ヶ月間何億回も各qubitを自由に収縮させ観測すると、20個の内16個のqubitが、有意にどちらかに偏って収縮しているという実験結果が得られた。確率50%50%ではなかった。即ち”0″に収縮しやすいqubitだったり、”1″に収縮しやすいqubitだったりする方が普通だった。

古典コンピュータに個体差は無い。つまり同一の問題を同一のプログラムで解く場合、同一仕様でハードが違っても解答が得られるまでの所要時間に違いは出てこない。だから、現在のパソコンは同一仕様の「定価販売」が可能になる。(ただし、誤り訂正に時間をとられると話は違ってくる。そういった「個体差」は古典コンピュータにもあるが、誤り欠陥はごく僅かなので「定価販売」が出来る。)

しかし量子コンピュータは、本質的に「個体差」を持つということが示唆される。同一仕様でも一個一個異なる。即ち或る個体は或る問題を解くのが得意だったり苦手だったりする、ということ。人間の直感は、量子コンピュータの様な動きで生まれているのではないか、ということを改めて考えさせられる。つまり、何かの問題を与えられたときピンと来る人はピンとくるがピンと来ない人はピンと来ないということ。面白かった。

(依然として、実験観測者の個性が反映しているのか、使用した量子コンピュータの個性が反映しているのか、という問題は残っている。これは、有名な解釈問題:対象に依存したrealityに収縮するのか、観測者に依存したrealityに収縮するのか、と関連が深いかも。だとすると超難題。)

他にも「非直交量子状態の完全識別」という話題で2,3件発表があった。こちらは量子脳理論やキリスト教で言う所のdiscernibilityと関連があるかも、と私の妄想(?)は勝手に膨らんだ。これについては機会があったら詳しく述べるつもり。