分科会2018要約 「 justiceだけでは足りない」

2018年一年間にわたって、カトリック教皇フランシスコの思想を説明した。

3月 社会規範の拡張 — Is justice enough?
5月 主権者の変遷 — virtue ethicsの興隆
7月 Love God and love people — 律法全体は、この二つの掟に基づいている
9月 freedom to develop the capabilities — 特有能力の社会展開自由
11月 カトリックの経済学 — economyの本来の意味を求めて

延べ10時間の説明。そのエッセンスを話すと・・・

教皇フランシスコの思想を一言でいえば、「単なるjusticeだけでは足りない」とまとめられる。justiceの他にrighteousnessが必要だということ。それは、2015年大勅書Misericordiae Vultusいつくしみのみ顔』第21節第2段落に、以下の様に述べられている。

『もしGodがjusticeのみにこだわるのであれば、Godであることをやめることになるでしょう。そして、the law(律法、法律)の遵守のみを主張するhuman beingsと同じになってしまいます。そう、ただ単なるjusticeだけでは足りません。justiceのみに訴えることがjusticeを台無しにしてしまうことは、経験が教える教訓です。だからこそGodは、misericordiaと赦しを携えてjusticeを越えるのです。ただこれは、justiceを軽視し余計なものとしようと言っているのではありません。むしろ逆です。過ちを犯した人は報いを受けなければなりません。しかしそれだけで終わりではありません。むしろそれは、the tenderness and misericordia of Godを感じることによって回心へと向かう始まりなのです。Godはjusticeを拒みません。Godはjusticeを包み込み、私達にtrue justiceの礎である愛を体験させるというもっと素晴らしい出来事によって、justiceを越えるのです。もし私達が、パウロの時代のユダヤ人達が犯した過ちを避けたいならば、パウロがそれを非難した言葉に私達は十分に注意を払う必要があります。即ち、「イスラエルの人々は、the righteousness that comes from Godに気付かないで、自分達でそれを確立しようとし、God’s righteousnessに従いませんでした。Christこそthe lawの目標です。the lawの目標とは、faithを持つ全ての人がjustifyされることです。」(ローマ10・3-4)という非難の言葉に注意を払う必要があります。God’s justiceとは、全ての人(everyone)に与えられるmisericordiaのことであり、それは、Jesus Christの死と復活によってもたらされた恵みでもあります。即ちthe Cross of Christは、私達全員と全地上世界に対するGodのjudgementです。このことによってGodは私達に、愛と新たな命の確証を与えたのです。』

justiceだけでは足りない —とてもシンプルだが、実は今の世の中を根底から変革する力を秘めている。何故ならば、現代社会はjusticeの上に形成された倫理観を土台にしたものだからだ。justice、即ち人間たちが地上世界において正しい(just)と感じる事柄の上に、今の社会は形作られている。具体的に言えば、最大多数個人の最大happiness (地上世界に於ける幸福)を目指す功利主義倫理 (utilitarian ethics)による善悪判断の上に、現代社会は形作られている。

当初これは上手くいった。justiceを土台にしたこの社会は、1980年頃まで上手く機能した。物質的高度経済成長による豊かさを、日本をはじめ世界の多くの人々にもたらした。しかし、オイルショック (1979年)からベルリンの壁崩壊 (1989年)・ソ連崩壊 (1991年)にかけて変調が始まった。そして、サブプライムショックとリーマンショックに始まる世界金融危機(2008年)は、justiceを基礎にした社会構造が最早何をどう改めても上手くいかないこと、即ち本質的に破綻することを決定的に露わにした。

破綻は、現在の社会現象を見ても明かだ。トランプ大統領はパリ協定から離脱して地球温暖化防止よりもAmerica Firstに走り、英国もEUを脱退し「痛み分け」よりも自国利益を優先し、日本でも憲法九条が覆されかねない。私達の日常生活においても、既存のthe law(律法、法律)を遵守するか、または、身近な者達の利益を守る新たな法律を作るかに留まっている。根本的に新しい共通善を求める姿勢を失っている。

では、どうすればこの苦境を打開できるのか? フランシスコ教皇の答えは「justiceの他にrighteousnessが必要」と極めてシンプル。それはキリスト教の主祷文にも明確に記されている。即ち、御心(God’s will)が天に行われるとおり地にも行われますように。つまり、地に行われることが天でも行われるとは限らない。御心が天に行っていることは、この地上において人間達が繰り広げていることとは違うのかもしれない。

日本から世界を眺めていると気付きにくいことだが、実は50年ほど前から西洋社会では、justiceでなくrighteousness — 神の右(right)の座につく者の正しさ(rightness) — を土台にした新たな社会構造の枠組みがどの様なものになるのか模索が始まっている。即ち、righteousnessの上に形成される倫理観とは何か。その新たな倫理観による善悪判断の上に構築される社会はどのようなものか。

ここで問題となったのは、righteousnessをとらえる諸能力がhuman nature(人間本性)に残されているのかどうか。(原罪により)失われたと考える者達(例:ジャンセニスト)と、いや残されていると考える者達(例:イエズス会士)とに見解は分かれていた。長らく前者の方が優勢だったのだが、50年ほど前から後者が優勢に変わってきた。

そして2013年、その様なイエズス会のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が遂に教皇となった。彼は、virtue ethicsという新たな倫理を前面に出して、功利主義倫理 (utilitarian ethics)による経済とは異なる新たな経済の実現に乗り出した。

・・・といった内容。詳しく聞きたい方は声をかけて下さい。説明に参ります。