”trust in science“(科学を信頼する)という言葉をバイデン政権の人達がここのところ多用している。例えばcovid-19ワクチン注射を受けるとき、気候変動対策のパリ協定に復帰するとき、口にしている。
”trust in science“(科学を信頼する)の出典をググってみたところ、教皇庁科学アカデミー2018年11月開催の「科学が担う社会変革の役割:peopleの霊的幸福のための解決策に向けて基礎科学の創発から」Transformative Roles of Science in Society: From Emerging Basic Science toward Solutions for People’s Wellbeing)というシンポジウムであることが分かった。そのscope introductionを左に示した。そこには”trust in science“が6回も出てくる。
このシンポジウムでは、科学とキリスト教の両立に関するフランシスコ教皇の見解が、ノーベル賞受賞者のTheodor W. Hänsch(量子光学)やWerner Arber(2本鎖のDNAを切断する制限酵素)、あるいは、オバマ政権でエネルギー長官を務めたSteven Chu(物理学者・政治家)など約40人の参加者により、詳細に議論されている。一つ一つの論文、特に量子論に言及した論文は、ヴァチカンの最新科学理解がとても深いことが分かって興味深いが、今回紹介したいのはそこではない。
フランシスコ教皇のこのシンポジウム冒頭挨拶、これの第二段落の後半部分を、左のアイキャッチに載せた。半訳すると:
…今日、科学の革新と社会の進化とが、互いに互いを追いかける形で急速に進行しています。この様なinterconnected changesにおいては、科学の側が社会の行く末に思いを致し、叡智ある貢献を為すことが重要だと、教皇庁科学アカデミーは考えました。初期近代が見せていたその堅牢な象牙の塔は、健全で示唆に富む不安(salutary unrest)へと多くの点で移行しました。しかしこの健全な不安により今日の科学者達は、宗教が持つ諸々の価値にopenとなることが容易になりました。科学の諸々の成果の遙か先に、peoplesの霊的世界と神の超越性の光とを、垣間見ることが出来るようになりました。科学communityは社会の一部なのです。社会から分離したもの独立したものととらえてはいけません。科学communityは、人類家族に奉仕しそれをintegral development(高次統合発展)させるよう召命を受けているのです。…
「科学者達が、健全な不安(salutary unrest)を持つようになり、宗教が持つ諸々の価値にopenとなることが容易になった。」実はこの見解はclm.262で紹介したキュンクの考え方が元になっている。
キュンクは1967年にThe Churchという本を出版している。その3頁目に健全で示唆に富む不安(salutary unrest)という用語が出てくる。左掲。その部分を半訳すると:
…私達の時代も、他の移行期と同様に、不安を抱えた時代です。科学と技術の勝利にもかかわらず、不安の感覚が芸術、映画、舞台、文学、そして哲学の中に表現されています。一人一人の個人、または民族等によって感じ取られています。The Churchもまた然りです。一見すると時代によらない自信の背後で、この種の不安が影を落としています。なぜならthe Churchを形作るthe peopleがこの種の不安を感じているからです。しかしながらそれは健康的で、示唆に富むとさえ言える不安であり、これこそが私達に、心配でなく希望を与える元になっています。どうやら、深刻な危機の様に見えるものが、実は、この時代の新しい生き方を特徴づけるものであり、また、邪悪な脅威に見えるものが、realityにおいてa great opportunityなのかもしれないのです。…
私の感想を述べると… キュンクは第二ヴァチカン公会議直後、1960年代後半には、科学と宗教の両立という考え方に辿り着いていたのであり、今、時代がやっとキュンクに追いついた、ということ。そして、健全な不安を持つようになった科学を私達はむしろ信頼しよう、と呼びかけるフランシスコ教皇の新しい考え方。これらが印象的だった。「健全な不安は希望をもたらす」。ふーむ、だとしたら「病的な不安が心配をもたらす」のだろうか?
「安全・安心」ばかりを求める昨今の風潮に、何か警鐘を鳴らしているのかもしれない。