新たな社会経済システム」タグアーカイブ

clm.254:教皇、全活動基本稼得保障制度を提案

FaithInAction-PopeLetter-Response.jpgコロナ禍でミサも自粛された今年のイースター(4月12日)、フランシスコ教皇がa universal basic wage(全活動基本稼得保障制度)を提案した。2013年教皇就任の次の年2014年から2017年まで毎年開催していたpopular movements(PMと略記)大会の関係者に向けて教皇は書簡を発表し、「コロナ後の世界」に向けてPM活動を促進する様に呼びかける一方、人間が行うあらゆるwork(労働、活動)に対し、生活に必要な一定額以上の稼得金額が支払われる制度の設立を、各国政府に求めた。

この書簡を半訳したのでアップしておく。是非、お読み下さい。

追記20200523:教皇書簡で大きな転載ミスをしていた。”no workers without rights”と転載すべき所を、こともあろうに”no workers with rights”と正反対の意味を載せていた。訂正版を下にアップした。ゴメンナサイ。

clm.253:virtue economicsの模索、ジェフリー・サックスの例

ヴァチカンの教皇庁社会科学アカデミー(略称:PASS)において、2019年10月、Dignity and the Future of Work in the Age of the Fourth Industrial Revolution(第四次産業革命時代におけるworkの将来像と人間の尊厳)というシンポジウムが開催された。ジェフリー・サックスが、Man and machine in an economy for all(万人のための経済の一例における人間と機械)という講演を行った。そのDiscussionの最後で、「virtue economicsの模索、ジェフリー・サックスの例」と呼ぶべき質疑応答があった。貼り付けておく。37分間の内の最後の7分間

「全く新たなeconomicsを作り直さ(revamp)なければならない。それも少しずつ少しずつ作り直していくのではない。economicsの目的そのものを変えるところから始めなければならない。現在のeconomicsの目的はpleasureの最大化だがそれをgood(善)の最大化にして、全く新たに作り始めなければならない。」

サックスの渾身の発言をお聞き下さい。

clm.252:価値の可測性、virtueとutility

「功利主義倫理による経済って何?」という質問が読者から来た。無理からぬことだ。中国であろうが米国であろうが北朝鮮であろうがイラクであろうが、世界中でこの経済システムが、空気や水のように「当たり前」になっている。つまり、18世紀西洋に始まる産業革命「以前」の経済に比べて、この経済が如何に異様なのか、分からなくなっている。誰もが「これって何?」と改めて問うことはしない。経済とはそういうものだとあきらめている。

ましてや日本人は、19世紀の明治維新で西洋社会経済システムを突貫輸入したのだから、産業革命以前の経済がどうだったのか体験していない。「比較対象」との対比がシッカリとできない。

質問してきた読者と何回かメールでやり取りして回答した。以下に、推敲した回答を転記しておく。キモは、一般市場におけるmeasurability of value(価値の可測性)が、utility(効用)には有るがvirtueには無い、となる。


「功利主義倫理による経済って何?」というご質問ですが、そもそもutilitarianismを功利主義と和訳したのが誤解の元だと思います。「効用主義」と和訳すべきだった。なので、効用主義倫理(utilitarian ethics)ー 効用(utility)は価値があるという価値観、「役に立つことは善いことだ」という倫理観 ー による経済、現在世界人口約74億人の全てが与る経済、について説明します。

効用経済学(utility economics)は、効用(utility)の価値が、一般市場での需要と供給のバランスによって、measurability(可測性)を持つというのがミソです。そうして、価値測定可能となった効用(utility)の、或る社会範囲における「総和」の最大化を図る。これが、効用主義倫理(utilitarian ethics)による効用経済学(utility economics)です。

他方virtueは、一般市場での価値の可測性は持たないだろう、ということが研究者の間で今盛んに議論されています。(block chain技術を上手く使えばもしかしたら,,,という議論はあります。)

virtueの価値は、特定の人と特定の人との間でしか認められないものです。典型例は、夫婦の間で成り立つ、夫のvirtueの価値と妻のvirtueの価値です。これらの価値は、その特定の夫婦の間では互いに認め合うものでしょうが、他人にとっては認めにくいものです。一般市場での価値の可測性は持ちようがない、というのが研究者の間での今のところの見解です。

しかしそうすると、価値の総和を計測しそれを最大化しようとすることが出来なくなってしまうのでしょうか。virtueの価値をやり取りする「経済」は成り立たないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。

何らかのテーマで集まったpartnershipのpartnersの間では、そのテーマに関する物事・情報などに関して価値を測定(あるいは、仮決め)することは可能です。例えば、あるテーマの研究開発をするventure partnershipに集ったpartnersの間で、関連するアイデアや特許に対して価値を測定することは可能です。(private equity:私的衡平価値)

特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの、あるいは価値あるもの「候補」の中から、多くの人達が認める価値あるもの、出来れば、皆が認める「普遍的」価値あるものを、如何にして見いだしていくのか。これを考えるのがvirtue ethicsによるvirtue economicsだと言えるでしょう。

もうお分かりになったと思いますが、科学技術研究開発は、virtue economicsと相性が良いだろう、ということが研究者の間では取り沙汰されています。

話しを始めると何時間でもできてしまうので、ここでやめますね。  齋藤

[追記20200421] 「特定の人達が見いだしたと感じた価値あるもの…virtue economicsだと言えるでしょう。」の段落が腑に落ちない、というコメントが読者から寄せられた。それに対して、

virtue economicsは、真に価値あるものを見いだす力を持った人々が存在する、ということが前提となっています。もしそういった人々(キリスト教ではthe peopleと呼びます)がいないならば、virtue economicsは成り立ちません。

・・・と答えておいた。

clm.251:Virtue Economics (徳倫理経済学)の揺籃

現行経済システムは、世界中何処でも、共産主義経済であれ社会主義経済であれ自由主義経済であれ、utilitarian ethics(功利主義倫理、というより効用主義倫理というべき)の上に築かれている。

則ち、utility(効用)は「価値あるもの」という価値観、「役に立つことは善いことだ」という世俗的倫理観。この極めて「地上世界的」考え方が、産業革命開始と共に18世紀西洋において生み出され、その上に「効用総和の最大化」を目的とする経済システムが築かれ、日本を始め世界中に広まっていき、或る種の豊かさをもたらしていった。

それから二百年ほど経った20世紀末、ソ連の社会主義経済が崩壊(1991年)し、次いで21世紀初頭、リーマンショック(2008年)により自由主義経済も崩壊の一歩手前までいった。そうした中、現行経済システムは「制度寿命」を迎えているのではないのか、こうした意見が宗教家や倫理学者から出された。

現行経済システムの枠組みの中で何をどうやっても最早回復することはないのでは…。そんな観測が広がる中、経済の基礎となる倫理学から問い直し、新たな経済学、特にvirtue ethics (徳倫理)を基礎とした経済学 - Virtue Economics (徳倫理経済学) ー を模索しようという動きが本格化してきた。Utility EconomicsからVirtue Economicsへ。基礎テキストも出始めたので幾つか紹介する。

一冊目は2019年6月The Oxford Handbook of Ethics and Economics刊オックスフォード・ハンドブック『諸倫理学と諸経済学』。三大倫理といわれる、功利主義倫理、義務論倫理、徳倫理、それぞれに立脚した経済学を紹介している。要約を半訳すると:

Abstract (要約):様々な倫理学が、それぞれどの様な経済の理論と実践を形成する/形成できる/形成すべきなのか、本書 The Oxford Handbook of Ethics and Economicsは タイムリー且つ細大漏らさず調べ上げている。第一部のFoundationsでは、主要倫理学それぞれがどの様に経済学に関わってきたのか、 則ち、様々な経済行動に適したmoralsがどの様にして生まれ、それぞれの経済の実現のためにどの様なethics(倫理)が機能するようになったのか、丹念に調べている。第二部の Applicationsでは、商業、金融、市場の各倫理を観察し、社会厚生・リスク・他への危害を考慮して意志決定をする際、どの様なmoral dilemmasが生ずるのかを明らかにしている。例えばヘルスケアや医療や環境問題など、経済の主要問題に関しどの様にethics(倫理)が関わるのか、調べている。結論部では議論の方向を一転し、諸倫理学は諸経済学から何かを学びうるとも勧告している。経済学と哲学を代表する論者を一堂に会し、本書 The Oxford Handbook of Ethics and Economicsは、両分野(と、政治科学、社会学、心理学など)の研究者だけでなく、政策立案者、ジャーナリスト、平信徒など所謂“consumers” of economicsにとっても貴重な資料となる。本書は、過去に起きた諸経済学と諸倫理学との緊密な関係性だけでなく、これから起きるであろう更なる高次統合(integration)への基礎を築くものである。Keywords: economics, ethics, economics and ethics, morality, choice, policy, welfare, rights

その第二論文「徳と経済、馬と馬車」(Virtue and Economics, Horse and Cart)で著者 Jennifer A. Bakerは、Virtueの定義として、Julia Annasの「Virtueとは、勇気あるいは正義感といった称賛される特質的性格のうち、何をすべきか実践的に十分な理由付けを伴い、これらが事実によって一つになったvirtuesのことである。他方、一つ一つのvirtueは、人の素質、神の思し召しである。(A virtue is a disposition.)それは、実践によって構築された行動習慣であり、決して無意識の癖の一つと考えてはならない。なぜならそれは沈思熟考し意志決定するための一つのdisposition(【名-1】(人の)素質、【名-2】(神の)思し召し (英辞郎))なのだからである。」を紹介している。日本語で言う「徳」、仁義礼智信忠孝悌に代表される「徳」と、virtueは大部異なることを掴んで頂きたい。

二冊目はそのJennifer A. Bakerの2016年刊『経済学と諸徳:一つの新たな倫理基礎の構築』Economics and the Virtues: Building a New Moral Foundation。これはvirtueとして、アリストテレスのニコマコス倫理学の定義によるvirtue、トマス・アクイナスの定義によるvirtue、カントの定義によるvirtue、そしてここ50年ほどで勃興する現代のvirtue ethicsの定義によるvirtue 、などのそれぞれのvirtue ethicsをとりあげ、それぞれに対応する経済学を論じている。要約を半訳すると:

Abstract (要約):アダム・スミス(あるいはアリストテレス)以来、倫理学は経済学にとって枢要な分野であり続けているが、その一方で、現代の経済学者の多数は、増え続ける数学様式と計算手法に振り回されて倫理学からのアプローチに関心を失ってしまっている。しかしながら近年世界を悩ます度重なる金融危機は、経済学における倫理学の重要性に関する議論に再び火をつけた。経済理論・実践・政策に倫理哲学を統合する新たな手法を求める声が、日に日に高まっている。皮肉なことに、最も有望な経済発展に繫がると思われるモデルの一つは、アリストテレスやアダム・スミスによって発展したthe ethics of virtue (徳の倫理学)であり、the virtues, character, and judgment of the agentsの重要性を強調するものである。本書 Economics and the Virtuesでは、editors Jennifer A. Baker and Mark D. Whiteが、14名の著名な経済学・哲学研究者を一堂に会し、viirtueを経済学に統合する際に必要となる新たな観点を多数提供している。第一部では、the virtue traditionを専門とする5人の研究者により、倫理と経済の接続の歴史を追い、新たな協業分野があり得ることを見いだしている。第二部では、the ethics of virtue(徳の倫理学)を現代経済理論に当てはめることで、現在の経済学方法論とその実践を深掘りし、倫理哲学と統合できる候補分野を幾つか提案している。最終部、第三部では、市場、利益、正義などの特定の話題を、 virtue and vice(善徳と悪徳)の文脈において展開し、経済学にvirtueをどの様に適用するのかに関し貴重な提案を行っている。Keywords: economics, ethics, virtue, virtue ethics, markets, choice, theory, history, methodology

三冊目は、オランダのTilbergカトリック経済大学で神学と経済学の教授を務める J.J.フラーフラントによる『市場倫理とキリスト教倫理: 市場・幸福・連帯』。序論の最初の部分を転記すると:

カトリックの改革派を含む世界改革派教会同盟(WARC: World Alliance of Reformed Churches、現在はWCRC: World Communion of Reformed Churches)は、2004年8月、ガーナのアクラ(Accra、ガーナの首都)において、世界経済に関する信仰表明を宣言した。その宣言は、富める者と貧しい者との間のとてつもない格差に言及している。例を挙げれば、豊かな上位1%の人々の年間所得は、貧しい下位57%の人々の所得と等しく、24,000人の人々が貧困と栄養不足で毎日亡くなっており、貧しい国々の負債は増大し続けている…。

本の帯には:市場経済は人間を豊かにするか。今日までの市場競争は、高い経済成長を実現する一方で、所得格差の拡大、環境破壊、金融危機などを引き起こしてきた。果たして市場は「幸福」にどう影響するのか? 「正義」への配慮に役立つのか? 愛や寛容などの「徳」を促進するのか? 市場作用に関する最新の経済学的研究成果を提示しながら、聖書に基づく倫理観を読み解き、キリスト教信仰と経済の関連性を体系的に明らかにする野心的な試み!…とある。

四番目に、文献ではないがVirtue Economicsに関しYouTubeで解説している日本語による説明を見つけたので貼り付けておく。eudaemoniaの意味するところを”good life”にする部分は、「good lifeでなくto live wellである」とするフランシスコ教皇と齟齬があるが、大枠において、カトリック改革派が推進するVirtue Economicsを上手く説明しているように思う。     今回は以上。

分科会2020#1(3月21日) 開催通知および配付資料

日時2020年3月21日土曜日 13:30 ー 15:30
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマbuilding bridges between peoples and individuals その1)Church and State

配付資料

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clm.250:IBD update ~ オバマの二期目 新経済は堅調に推移

米国内国歳入庁 所得統計部 Integrated Business Data、2014年分2015年分が付け加えられた。これに伴い当サイトの関連グラフも改訂した。オバマの二期目(2013-2016)にも、新経済が堅調に推移したことが分かった。

1頁目「費用対効果の比較」:ご覧の様に米国は、1991年に経済システムを劇的に変更した。corporateを中心とする旧経済からpartnershipを中心とする新経済に移った。今回の IBD data updateで、2014年2015年もpartnershipの費用対効果(コストあたり利益率)が10%を超えて順調だったことが分かる。2009年に大統領に就任した直後、economic  substance doctrineをcodifyしpartnership経済を後押ししたオバマの「面目躍如」といったところだろう。なお今回から、この新経済を始めた民主党ビル・クリントンも載せることにした。YouTubeアイコンをクリックすると、1992年の大統領選挙テレビ討論会で、共和党パパ・ブッシュ候補をケチョンケチョンにするビル・クリントン候補の名セリフの数々を聞くことができる。この後、”It’s the economy, stupid !”(それじゃー、現行経済のままだよ、お馬鹿さん!)のキャンペーン スローガンで、選挙戦前にあった共和党パパ・ブッシュ有利の大方の下馬評をひっくり返し、地滑り的大勝を民主党ビル・クリントンは成し遂げることになる。もう、30年近く前のことであり、若い人は知らないかもしれない。是非、この歴史的質疑応答、お聞き下さい。

2頁目「全米全産業利益の構成比の推移」:これも、構成比に大きな変化はない。新たな経済が安定した構成比を占めるようになったようだ。

…ところが、御存知の通り、2016年の大統領選挙では、多くの人が意外に思ったトランプが、大方の予想では有利とみられていたヒラリー・クリントンをやぶって大統領に選ばれた。どうしてそうなったのか? これを考えるヒントを3頁目に示した。米国Tax Fooundation連邦税小規模事業税調査部が示したグラフ。ちなみにこの調査機関は、米国における税と経済の関係について、私とほとんど同じ見方をしている。IRS-SOI-IBDのまとめかたも私とソックリ。去年4月には、Corporate and Pass-through Business Income and Returns Since 1980(コーポレートとパス・スルー事業体との、1980年以来の所得と税務申告の比較)という、私とそっくりのグラフを載せてきた。ここの意見では、トランプ出現の原因は…。

3頁目「企業数では1%に満たない大企業が、民間セクター労働者のほぼ半分を雇用している」。元記事はここ。つまり依然として、人々の大半は大企業の従業員となってサラリー(定期的固定給与)をもらって日々の生活を営んでいる。だから、新経済が産業利益の大半を占めるようになったとはいえ、自分達の生活を成り立たせる上ではあまり関係がない。むしろ、旧経済の大規模corporateが栄えてくれた方が自分達の暮らしが豊かになる。こういう人々が未だほぼ半数近くいる。…このsilent majorityの声を巧に取り込んだのがトランプだった…。

...さて今回は、メルマガ会員登録をしている米国IRSから「IBD update」を知らせるメールが私のところへ舞い込んで、一気呵成に記事を書いてみた。検討が足りないところも多々あると思う。今後の修正・追記をお許し下さい。この記事は「速報」ということで…。

分科会2019要約 「 bridges between peoples and individuals」

2019年一年間にわたって、カトリック教皇フランシスコのpopular movements大会四年間のメッセージを精読した。

3 年間テーマ:教皇メッセージ詳読により ”the people” とは何かを考える
5月 2014年大会メッセージ 「社会構造による罪」
7月 2015年大会メッセージ 「popular economyとは何か ~経済的実体法理~」
9月 2016年大会メッセージ 「ニセの預言者に打ち勝つには」
11月 2017年大会メッセージ 「新たな社会経済システムを目指して」

四年間のpopular movements大会を通じ教皇が言いたかったこと、それは、「bridges between peoples and individuals」に要約できる。

clm.249:the metaphysics of quantum physics

かつて科学(science)は「観測できるもの触れるもの」だけが現実(reality)だとする考え方、即ち、素朴現実論(naive realism)の上で組み立てられていた。

だから例えば「本当に大切なものは目には見えない」というサン・テグジュペリの名言は、多くの人間が心情的には共感するものであっても、「科学的」とは言えなかった。「非科学的」と考える人が多かった。

しかしこれが、最近の量子力学実験によって一変した。

まず20世紀の終わり頃、観測することも触ることもできない幾つもの現実 ー 隠された幾つもの現実、hidden realitiesこの呼称の発案者は柳瀬睦男) ー が実際に存在するということが、Bell実験によって実証された。

ついで21世紀に入り、初期段階ではあるが量子コンピュータが実現し、hidden realitiesは観測することも触ることもできないのに確かに存在し更に「利用可能」であることが実証された。量子コンピューターとは、簡単に言えば、hidden realitiesの一つ一つのrealityに、様々な初期値から同時並行で「解」の探査をさせるようなもの。中には一瞬で「解」に到達するrealityもあるため、古典コンピュータに比べ計算速度が格段に速い。つまり量子コンピューターが機能するということは、hidden realitiesが「利用可能」※)であるということにほかならない。

(※追記20200218:この表現はindividuals的だと気づいた。つまり半面的。私の中のpeoples的半面から、「hidden realitiesに関し私達は何らかのresponsibilityを担っている」という様な表現も付け加えるべきだった。自然を利用することばかり考えるのはエンジニアの悪い癖。反省!)

Bell実験と量子コンピュータ機能確認によって、観測することも触ることもできない幾つもの隠された現実の存在が疑う余地の無いものになった。「観測できるもの触れるもの」以外の現実が、現に存在することが確かめられた。素朴現実論(naive realism)が実験によって否定された。

「本当に大切なものは目には見えない」を「非科学的」とは言えなくなった。

この「驚愕の事実」に哲学者達はいち早く対応した。例えばニューヨーク市立大学の哲学者であるAlberto Corderoは1990年に”post-Bell physics”という用語を作り、哲学を新に構築し直す仲間作りを開始した。そしてSpringerから去年8月に、上掲のPhilosophers Look at Quantum Mechanics『量子力学を注視する哲学者達』(Springer Link)を出版した。

標題の”the metaphysics of quantum physics”でGoogle検索すると約3万件ヒットする。その意味は、physicsの訳語を「物理学」でなく「形而下学」としたほうが分かりやすい。「量子論形而下学の形而上学」という、ちょっと矛盾した意味。形而下学 ー 観測できるもの触れるものを科学していったら、いつの間にか形而上学 ー 現象を超越し、その背後に在るものの真の本質、根本原理、存在そのものなどを探究しようとする学問。神・世界・霊魂などをその主要問題とすることが多い(広辞苑 第七版) ー に辿り着いてしまったという意味。

この様に哲学者達の動きが速いのに比べ、宗教者達の動きは西洋においても遅い。これが、フランシスコ教皇がラウダート・シの中で幾度も「religionsとscienceのdialogue」(第10番bridge)を促す所以。Religious Believers Look at Quantum Mechanicsというような本が早く出版されないかなと、更にいえば、ラウダート・シ英語版がその第一号だと、教皇は考えているのだろう。

追記:「その第ゼロ号」として栁瀬睦男先生を挙げておくべきだった。幾つかの論文を紹介する。

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