clm.306:ペルソナ、ペルソナ状態(person, personhood)概念形成外史

教皇フランシスコの思想はthe peopleの神学[SJ Scannone, Juan Carlos]のTheology of the People: The Pastoral and Theological Roots of Pope Francis (English Edition)と表される。この神学の内容は、詳しくは左掲書を参照されたいが、端的に言えば「the peopleがsovereigntyを持つ」というもの。

通常の英文和訳では、peopleは国民と、sovereigntyは主権と、和訳されてしまう。従って、しばしば耳にする「国民主権」のことかな、と勘違いする日本人は多いかもしれないが、否、それは大間違い、という話から始める。

sovereigntyについては、2018年分科会#2で説明した。以来5年経つので補足する。sovereignty(主権)とは、形而上概念と形而下概念とをdiscern(識別)するcapacity。例えば、freedomとliberty、rightとjust、obligationとduty、lawとlegal、sinとguilty、covenantとcontract、benefitとprofit、beingとexistence、等をdiscernする為にhuman beingsが本来持つ能力を意味する。今の日本語ではこれら術語は、自由、正、義務、法、罪、契約、益、存在、と一つの訳語に納まってしまう。言葉としても意味としてもdiscernできない。この様に語彙が足りない日本語では、sovereigntyが何を意味しているのか、説明するのは難しい。

また「peopleとは何か」については、2022年分科会#1において、教皇自身による解説を半訳しておいた。「a peopleとは、経験と希望を分かち合い、一つの共通の神意(a common destiny)からの呼びかけに耳を澄ますものです。」「the people has a soul.」「a peopleとは、高次統合原則の共有により結実するrealityを生きていく、一つの生命体(a living) 」などが印象的だった。

しかしまだ、「the peopleがsovereigntyを持つ」で教皇が何を言いたいのか、私達日本人には判然としない。なぜだろうか…。おそらくそれは、peopleの語源であるpersonの意味を私達日本人がキチンと掴めていないからだ。

personは通常の日本語訳では、「ひと」あるいは「人間」となってしまう。しかしそう意味薄弱な言葉でないことは、分科会2020#1で山本芳久著『トマス・アクィナスにおけるペルソナの存在論』の解説を引用して説明した。personはペルソナと訳すべきだ。

神学議論を嫌う人向けには、例えば英語版WikipediaのPersonを見てもらえば、一般欧米人が持つ英語personの意味深長さが伝わってくる。Wikipedia創設2年後の2003年から、20年以上、世界中の73言語で活発な議論が交わされているスレッド。例えば、

In ancient Rome, the word persona (Latin) or prosopon (πρόσωπον; Ancient Greek) originally referred to the masks worn by actors on stage. The various masks represented the various “personae” in the stage play.[12] The concept of person was further developed during the Trinitarian and Christological debates of the 4th and 5th centuries in contrast to the word nature.[13] 

半訳: 古代ローマ帝国において、羅語persona、あるいは古代ギリシャ語prosopon (πρόσωπον)は元々、舞台俳優達がつける顔マスクを意味していた。即ち様々な顔マスクで、劇中現れる様々な”personae” を表現していた。四世紀五世紀の三位一体論とキリスト論の議論の中で、person概念は、この言葉が本来持つ性質と著しく異なった更なる展開を見せた。

・・・と、キリスト教の、特に、三位一体論(Trinitarianism)に関する、西暦325年のニカイア宗教会議以来続いている議論展開と、ペルソナ(person)は関係が深いことが分かる。

ここで注意しなければならないのは、キリスト教発展の歴史が持つ、他の宗教にはあまり見られない特異性。clm.296:困惑! 国税庁発行「宗教法人の税務」で説明したように、支配層でなく奴隷層が主導したキリスト教発展には、国家支配者や神学者が正式に記した「正史」と、被支配者である民間あるいは平信徒達が公然の秘密として語り継ぐhidden secretsである「外史」とがある。

personは、キリスト教「正史」としては、三位一体論において父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(Holy Spirit)が持つ位格(ペルソナ)とされている。その一方、キリスト教「外史」としては、「ローマ皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗することによって」(イエズス会司祭のN.P.タナー著『教会会議の歴史 ニカイア会議から第二バチカン公会議まで』28頁)、開催を主導したニカイア宗教会議(西暦325年)において、それまでローマ帝国の禁教であったキリスト教を「国教」として正式に認める見返りに、父と子と同格のペルソナを、聖霊に持たせることを要求した、ということが「外史」として語り継がれている。

即ち外史的には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、自身の支配力の裏打ちとして、キリスト教の洗礼を受けることによって得られる聖霊(Holy Spirit)が、父と子と同格のペルソナを持つと、キリスト教に教義拡張を迫った、と考えられている。

つまり古代ローマ皇帝コンスタンティヌスは、ペルソナを持つことにより神のrighteousnessを体現できるとしたかった。所謂、神寵帝理念。類似のことは、ヨーロッパ中世に頻繁に起こった。16世紀末から17世紀初頭にイングランドで起きた王権神授説(divine right of kings)は、その典型例。

前置きが長くなった。ここからが本コラムの本題であるpersonhood(ペルソナ状態:the status of being a person。これは、違憲(unconstitutional)と違憲状態(unconstitutional state)の違いよりも、扱うのが厄介かもしれない。というか、personよりも更に意識的に意味曖昧なまま使われている言葉だろう。なので、以下に、personhoodという概念の発生経緯、更に、大きく取り上げられることになった局面幾つかをGoogle Ngramを使って探していく。これらヒントから、personhood(ペルソナ状態)という言葉のニュアンスを掴んで頂きたい。

ご覧の様に、personhoodという言葉は1774年、つまり、1775年に始まる米独立戦争の前年、1789年のフランス革命の15年前に、初めて造語された。更に、1774年に「何の」ペルソナ状態を主張したいがためにpersonhood概念が発明されたのかをNgramを使って調べると:

human personhood、即ち、支配者でも貴族でもない普通の人間(human)がペルソナ状態であることを主張するために造語されたことが分かる。平民が、貴族や支配者から権力を奪う。米国が英国王による支配から独立する。フランスがフランス国王による支配から脱する。このことの正当性が裏打ちされた。

しかし、敵もさるもの引っ掻くもの。ただでは引き下がらない。その後、personhoodという言葉が現れるのは:

1786年、イギリス国王の支配から独立した米国という「元植民地」を実効支配する事業組織体corporate、特にイギリス国王の勅令状を得たchartered corporateが、ペルソナ状態であることを主張するために、corporate personhoodという言葉がつくられた。国王による支配は終わったが、その手先であるcorporateによる支配の正当性が認められてしまった。

corporate personhood概念は、20世紀になった1980年代に再び取り上げられた。これは当時米国で「LLCはentityなのかaggregateなのか」つまり「LLCはpersonhoodを持ちcorporate income taxが課されるべきなのか」が議論された際、改めてcorporate personhoodとは何だったのかが議論されたためだ。

その後21世紀にかけて、ますますcorporate personhood概念は取り上げられるようになったが、これは、分科会2023年#1の資料の訳註で陳べたように、corporate personhoodに疑問符をつける潮流が勢いを増していったからだ。

human personhood概念が1970年代後半から1980年代前半に、特異的に取り上げられている。これについてはWikipedia英語版の「Beginning of human personhood]を読んで頂いて、皆さんの方で「何故か」を考えていただきたい。

6月のQuantum 2.0に、アスペとクラウザーがキーノート予定。

速報! 今年6月、二年ぶりで開催されるQuantum 2.0学会に、アスペとクラウザーがKeynote speakerとして登壇する。去年秋、彼らがノーベル物理学賞を受賞したことは記憶に新しい。

in person and virtual開催。私のような退職者にはデンバーまで出向くのはチト難しい。オンライン参加で、我慢しよう。(^o^)

分科会2023#1 (3月18日) 開催通知および配付資料

日時2023年3月18日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ 今日の経済を一変させ明日の経済に魂を吹き込む”a covenant”へ乗り出す

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2020 number of LLC = 3,022,022

2020年の米LLC数は3,022,022だった。この数字は、IRS siteのここに先月掲載されたPartnership Returns Line Item Estimates 2020のpage 4に載っている。その上欄Domestic limited liability companyの脇に青字で添えてある数値。

2019年末の記事で陳べた「トランプ政権のcorporate減税」で誘発された「LLCのcorporate成り」は、突発的異常事態だったようだ。2020年は、コロナ禍の中で自主的organization設立ラッシュも重なり、LLC数は一気に300万社を超えた。一年間で30万社弱のLLC起業。これは過去最高の増加スピード。

他方青ラインで示したactive corporate、即ちプラス額のcorporate income taxを納税するcorporateの数(IRS siteのここに掲載)は依然として減少傾向を維持している。米国における「根本的な経済システム変革」は、2019年のトランプcorporate優遇減税により一時的に乱れたが、やはり堅調に進んでいる。

分科会2022#5 (11月19日) 開催通知および配付資料

日時2022年11月19日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマ informal economyの重要性について

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先月末、「フランチェスコの経済」シンポジウム、対面で開催

現行経済システムとは根本的に異なる新たな経済システムを追求する、シンポジウム Economy of Francesco (略称EoF)が、先々週オンラインでなく対面で開催された。

EoF発会主旨は、2019年5月の教皇レター「To Young Economists and Entrepreneurs Worldwide」で示され、その後コロナ禍の中、対面を避けオンラインでEoF2020EoF2021が開催された。今年2022年9月、構想から三年越しでEoF2022実開催にこぎ着けた。

フランシスコ教皇の、根本的に新たな経済システムを追い求める思いはとても強い。周到に、ヴァチカン教皇庁の中で保守色が強い教理省に働きかけ、フランシスコ教皇肝いりの高次統合人類発展市民評議会と合同で、文書Oeconomicae et pecuniariae quaestiones(経済と金融の諸問題)をまとめさせたのが、2018年1月のこと。それから5年弱経って…。

EoF2022教皇スピーチから抜粋:
・・・a different approach, which we urgently need. For, if we speak of ecological transition but remain in the economic paradigm of the twentieth century, which plundered the earth and its natural resources, then the strategies we adopt will always be insufficient or sick from the roots. 

半訳:
・・・異なるアプローチ、これが緊急に必要です。なぜならば、もしも私達がエコロジーの激変を訴えているのにもかかわらず、惑星地球からその天然資源を強奪し続ける20世紀型の経済思考様式に留まってしまうならば、採用される諸々の対策は、常に、根本が病んだままの不十分なものになってしまうからです。