トウモロコシ

トウモロコシを植えた。種を直まきすると鳥に食べられてしまうというので苗床で育ててから植えた。アワノメイガという虫に食われやすいらしい。はてさてどうなるか。左端は例年通りミニトマトを植えてみた。こちらは上手くいくと思う。

区民農園 枝豆を植えた。

区民農園の抽選に当たりました。約10平米の畑。右の畝にマルチを敷いたあと早生枝豆を植えました。早生枝豆は自宅で育苗してみました。左の畝に2週間前、極早生枝豆を直まきしたのですが未だ芽が出てこない。ちょっと心配。

クラウス・シュワブ著『Shaping the Fourth Industrial Revolution』

『第四次産業革命をどの様な「形」にするのか』クラウス・シュワブ著
ザッと内容紹介をすると:

冒頭で:「岐路に立つ私たちに課せられた応答責任(resonsibility)はとても大きい。即ち、確かにこの機会にnew technologiesの形を、共通善をpromoteし、human dignityを高め、環境を保護する形に作りだすことは可能だ。しかし言い換えれば、もしこの絶好の機会を逃せば、現在の過酷な状況は悪化の一途をたどり、私利私欲とシステムの歪みが格差を更に拡大し、結果、あらゆるcountryで the rights of people(peopleとしての諸権利)がないがしろにされるのがほぼ確実となってしまう。」

更に:「第四次産業革命がもたらす恩恵を活用するには、次々と生まれる新技術達を、私達の意識下で完全にcontrolできる「単なるツール」と見なしてはい けない。かといって、それが進む先を私達が手引きできない外力と見なすべ きでもない。そうではなく、新しい技術のどこにどうやってhuman values(人間の価値観)を組み込むのか、組み込んだ上で更に、どのように形作ればthe common good(共通善)のためになるのか、environmental stewardshipを推進できるのか、human dignity (人間の尊厳)を尊重できるのか、これらをunderstandする必要がある。」
「今日の先端技術が2世代あるいは3世代かけて成熟した時、私たちの子孫は振り返ってどう思うだろうか。equity (衡平)、尊厳、共通善を尊重する技術開発をしてくれてよかったと私たちに感謝するだろうか。それとも、なぜそうする絶好の機会を逃したのだと、私たちの失敗を嘆くだろうか。」と述べ、

結語で:「もし私たちが主体的に自らの勇気を使い、共通善のために行動することが出来るならば、この先も人類はwell-beingと発展の軌跡を更新し続けられるはずだ。希望は十分にある。過去も現在も産業革命は、人類に進歩と豊かさをもたらしてきているが、その一方で環境破壊や広がるばかりの格差など負の外部性も生起し続けている。昔も今も、その解決は私たちの手に委ねられている。そして行く手(第四次産業革命)にも手強い課題が待ち受けている。即ち、どの様にして、技術の大変革がもたらす恩恵を分配するのか、必然的に生じる外部性を抑制するのか、そしてどうすれば、次々と生まれる先端技術を、私達人類の運命を決めるものにするのではなく、むしろ私達をempowerさせるものにできるのか。これら中心的課題の克服は、細大漏らさず全ての関連ステークホルダーが関わることで、大きく進むはずだ。」と述べています。

他の要所(共通善に言及した九箇所)の内容も~archivesの半訳に載せておきました。読後「ますますフランシスコ教皇とシュワブのタッグが強固となった」との印象を持ちました。

追記(20190402):第三段落を追加しました。
追記(20190407):第三段落を補強しました。
追記(20190415):連想せずにはいられない「未来への祈り」 (ダン・ブラウン『オリジン』)を付記

未来への祈り:
願わくは、我らの思想がテクノロジーに後れをとらぬことを。
願わくは、我らの情熱が支配力に後れをとらぬことを。
願わくは、恐怖ではなく愛が変化の源たらんことを。
そして敢えて言いましょう… 神のご加護を。

分科会 2019 開催ちらし

分科会2019 flyer

今年も、左記勉強会のうち赤枠で示した「分科会」の進行役を担当することになりました。奇数月第三土曜日の午後、全五回/2019年、年間テーマ:「教皇メッセージ詳読により ”the people” についての understanding を深める」。

第一回(3月16日土曜日)は、去年のテーマ:「justiceだけでは足りない」についてザッと復習した後、 ”the people” という「よく耳にするのだが今ひとつ意味が分からない」概念について、参加者の皆さんが現時点で持つ「こんな感じかな」をお聞きし、第二回(5月18日土曜日)以降の進め方の参考にしたいと思います。

第二回以降は、2013年の就任直後から教皇フランシスコがほぼ毎年開催している「The world meeting of popular movements:神の民 諸運動の地上会合」の冒頭挨拶、2014年2015年2016年2017年を「半訳」し、そこに使われている「日本語にはない概念」を掘り起こしていくことで、”the people”についての understanding を深めていこうと思います。

追記(20190303):第二回以降は、できればWork shop形式にしたいと考え始めました。参加者が各自あらかじめ、上記リンクで示した教皇各年挨拶を読んで、「日本語にはない概念」あるいは「普通の和訳ではシックリこない概念」を見つけ出し、各回はじめにそれについて短く発題し、その後に参加者全員で自由討議に入る、というようなことを考えています。この様な形式が可能か好ましいか、もっと良い形があるか、第一回目に参加者の皆さんと相談しようと思います。

日時2019年3月16日土曜日 13:30-15:30 (奇数月第三土曜日 全五回/2019年)
場所東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール
テーマ教皇メッセージ詳読により ”the people” についての understanding を深める

 

分科会2018要約 「 justiceだけでは足りない」

2018年一年間にわたって、カトリック教皇フランシスコの思想を説明した。

3月 社会規範の拡張 — Is justice enough?
5月 主権者の変遷 — virtue ethicsの興隆
7月 Love God and love people — 律法全体は、この二つの掟に基づいている
9月 freedom to develop the capabilities — 特有能力の社会展開自由
11月 カトリックの経済学 — economyの本来の意味を求めて

延べ10時間の説明。そのエッセンスを話すと・・・

教皇フランシスコの思想を一言でいえば、「単なるjusticeだけでは足りない」とまとめられる。justiceの他にrighteousnessが必要だということ。それは、2015年大勅書Misericordiae Vultusいつくしみのみ顔』第21節第2段落に、以下の様に述べられている。

『もしGodがjusticeのみにこだわるのであれば、Godであることをやめることになるでしょう。そして、the law(律法、法律)の遵守のみを主張するhuman beingsと同じになってしまいます。そう、ただ単なるjusticeだけでは足りません。justiceのみに訴えることがjusticeを台無しにしてしまうことは、経験が教える教訓です。だからこそGodは、misericordiaと赦しを携えてjusticeを越えるのです。ただこれは、justiceを軽視し余計なものとしようと言っているのではありません。むしろ逆です。過ちを犯した人は報いを受けなければなりません。しかしそれだけで終わりではありません。むしろそれは、the tenderness and misericordia of Godを感じることによって回心へと向かう始まりなのです。Godはjusticeを拒みません。Godはjusticeを包み込み、私達にtrue justiceの礎である愛を体験させるというもっと素晴らしい出来事によって、justiceを越えるのです。もし私達が、パウロの時代のユダヤ人達が犯した過ちを避けたいならば、パウロがそれを非難した言葉に私達は十分に注意を払う必要があります。即ち、「イスラエルの人々は、the righteousness that comes from Godに気付かないで、自分達でそれを確立しようとし、God’s righteousnessに従いませんでした。Christこそthe lawの目標です。the lawの目標とは、faithを持つ全ての人がjustifyされることです。」(ローマ10・3-4)という非難の言葉に注意を払う必要があります。God’s justiceとは、全ての人(everyone)に与えられるmisericordiaのことであり、それは、Jesus Christの死と復活によってもたらされた恵みでもあります。即ちthe Cross of Christは、私達全員と全地上世界に対するGodのjudgementです。このことによってGodは私達に、愛と新たな命の確証を与えたのです。』

justiceだけでは足りない —とてもシンプルだが、実は今の世の中を根底から変革する力を秘めている。何故ならば、現代社会はjusticeの上に形成された倫理観を土台にしたものだからだ。justice、即ち人間たちが地上世界において正しい(just)と感じる事柄の上に、今の社会は形作られている。具体的に言えば、最大多数個人の最大happiness (地上世界に於ける幸福)を目指す功利主義倫理 (utilitarian ethics)による善悪判断の上に、現代社会は形作られている。

当初これは上手くいった。justiceを土台にしたこの社会は、1980年頃まで上手く機能した。物質的高度経済成長による豊かさを、日本をはじめ世界の多くの人々にもたらした。しかし、オイルショック (1979年)からベルリンの壁崩壊 (1989年)・ソ連崩壊 (1991年)にかけて変調が始まった。そして、サブプライムショックとリーマンショックに始まる世界金融危機(2008年)は、justiceを基礎にした社会構造が最早何をどう改めても上手くいかないこと、即ち本質的に破綻することを決定的に露わにした。

破綻は、現在の社会現象を見ても明かだ。トランプ大統領はパリ協定から離脱して地球温暖化防止よりもAmerica Firstに走り、英国もEUを脱退し「痛み分け」よりも自国利益を優先し、日本でも憲法九条が覆されかねない。私達の日常生活においても、既存のthe law(律法、法律)を遵守するか、または、身近な者達の利益を守る新たな法律を作るかに留まっている。根本的に新しい共通善を求める姿勢を失っている。

では、どうすればこの苦境を打開できるのか? フランシスコ教皇の答えは「justiceの他にrighteousnessが必要」と極めてシンプル。それはキリスト教の主祷文にも明確に記されている。即ち、御心(God’s will)が天に行われるとおり地にも行われますように。つまり、地に行われることが天でも行われるとは限らない。御心が天に行っていることは、この地上において人間達が繰り広げていることとは違うのかもしれない。

日本から世界を眺めていると気付きにくいことだが、実は50年ほど前から西洋社会では、justiceでなくrighteousness — 神の右(right)の座につく者の正しさ(rightness) — を土台にした新たな社会構造の枠組みがどの様なものになるのか模索が始まっている。即ち、righteousnessの上に形成される倫理観とは何か。その新たな倫理観による善悪判断の上に構築される社会はどのようなものか。

ここで問題となったのは、righteousnessをとらえる諸能力がhuman nature(人間本性)に残されているのかどうか。(原罪により)失われたと考える者達(例:ジャンセニスト)と、いや残されていると考える者達(例:イエズス会士)とに見解は分かれていた。長らく前者の方が優勢だったのだが、50年ほど前から後者が優勢に変わってきた。

そして2013年、その様なイエズス会のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が遂に教皇となった。彼は、virtue ethicsという新たな倫理を前面に出して、功利主義倫理 (utilitarian ethics)による経済とは異なる新たな経済の実現に乗り出した。

・・・といった内容。詳しく聞きたい方は声をかけて下さい。説明に参ります。