分科会2022#1 (3月19日) 開催通知および配付資料
日時 | 2022年3月19日土曜日 13:30 ー 15:30 |
場所 | ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。 |
テーマ | peopleとは何か |
配付資料
clm.299:いでよ!オドアケル
いやここは、ブルータスではなく、ゲルマン傭兵隊長オドアケルの出番だ。
オドアケル:5世紀に活躍したローマ帝国の軍人。西暦476年、中央集権を強めた西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放し、西ローマ帝国を滅亡させた。(出典:Wikipedia。この資料の5page参照方)
皇帝をはじめ誰も殺してはならない。それは問題の解決策にならない。却って、拗(こじ)らせるだけかもしれない。
今回もこの様に考えて、プーチン露大統領を追放するに留め、ロシア社会構造を、多種の倫理が拮抗し合う精神構造を持った人達による分権自律的なものに変えていく必要がある。なぜならばこの惨状は、プーチンという特定の個人によるものというより、caesaropapism(皇帝教皇主義)という、一つの特定な倫理が常に最優先となる社会構造による罪なのだから。(a structural sin)
プーチンを排除しても、根本原因である精神構造・社会構造を変えなければ惨禍は必ず再発する。
clm.298:禁断、ケイサロパピズム
質問:国家権力が暴走したとき、これを止められなくなるのは四つの社会類型の内どれか。
ディアスポラ型はそもそも「国家」というものを排除している。イスラム型(単一宗教優位型)は国家よりも宗教が優位に置かれている。また、デュオスント型では拮抗する宗教がいざとなれば国家の暴走を止められる。だから、答え:ケイサロパピズム型、であることが分かる。
こう考えると、国家権力暴走の危険があるケイサロパピズ(皇帝教皇主義、caesaropapism)を「禁断」とすべきだ、という命題が導かれる。こう、ウクライナ情勢を見ていて思った。
以前この資料の5pageに述べたように、今から千五百年前、教皇ジェラシウスは東ローマ皇帝アナスタシウスに宛ててDuo Sunt書簡を送り、ケイサロパピズムを諫(いさ)めた。
いま、教皇フランシスコはプーチン露大統領に宛てて、現代版Duo Sunt書簡を書き送るべきではないだろうか。早朝、こう思いついたのでメモしておく。
20220228 追記:「宗教が暴走したとき止められなくなるのはどれか」と考えると、イスラム型とディアスポラ型は「危ない」ことが分かる。こう考えてくると、デュオスント型が一番安全なようだが、これももし、宗教も国家も暴走してしまったら止めようがない。(トランプ政権の米国?!)恐らく、「絶対的fail safe」は人間には実現不可能なのだろう。「地上の旅」を慎重の上にも慎重に進めたい、と私は思うが皆さんはどうだろうか。
20220228 更に追記:宗教と国家と科学とを三つ巴あるいは「三すくみ」にすれば、どれかの暴走に対して抑止力が働く「より安全な」社会構造が得られるような気がする。ただ、そういう精神構造をもった人間はとても少ない。・・・いちにもににも「人育て」が鍵だな…。(Tria Sunt)
clm.297:ブリンケンのディアスポラ精神に期待
緊張が続くウクライナ情勢だが、交渉に当たるブリンケン米国務長官(左)がユダヤ系であり、その心の奥底にあるはずのディアスポラ精神を発揮して、「国家存立のための戦争は愚かだ」「もっと視野を広くしよう」と周囲の目を開かせることを期待したい。
コラム296で述べた様に、2000年前のユダヤ人は「国家存立のために何かするのは最重要ではない」と思っていた。この考えをしっかり守ったことでローマ帝国から国外追放になりディアスポラ(国家を持たぬ民)になった。ブリンケン国務長官の父親はウクライナ系ユダヤ人、母親はハンガリー系のユダヤ人。地上世界に拘泥せず視野を超自然にまで広げる精神が、ブリンケン国務長官の心には宿っているはず。
ちなみに交渉相手はラブロフ露外相(右)。父親はアルメニア系アメリカ人、母親はロシア人。
アルメニアは世界最古のキリスト教国。パレスチナよりも東側、現在のトルコの東隣り、カスピ海と黒海の間に位置しながらも、イエスが着想しパウロが精緻化したキリスト教社会思想の元型を、世界で最も早く(四世紀)受け入れた国。五世紀後半に、西方キリスト教がデュオスントのカトリックに、東方キリスト教がケイサロパピズムのオルソドクスに分裂した(この資料の5頁目参照方)。その百年以上前に、キリスト教社会思想の元型を、世界で最初に国教として受け入れた国がアルメニア。
ラブロフ外相の父親は、その様なアルメニア系のアメリカ人。流暢な英語を話すラブロフ外相が、ディアスポラ精神、即ち、国家倫理を絶対視しない精神を持っていると期待したい。
毎日一万歩のご褒美
clm.296:困惑! 国税庁発行「宗教法人の税務」
左のような『宗教法人の税務』という20頁強のパンフレットを日本政府の国税庁は、2015年から毎年その年初に発行するようになった。2015年版はここ
これに私は困惑している。というのは、私は、カトリック東京教区の或る小教区教会の財務会計担当をしているからだ。「ああナルホドね」と、ここ2, 3回のコラムをお読み頂いている方には分かってもらえると思うが、少し説明する。
『宗教法人の税務』という考え方を、仏教や神道に適用するのは問題ない。というのは、これらの宗教は、数千年前ゴータマ・シッダールタなどの貴族や支配層によってconceiveされた宗教であり、国家倫理に親和する倫理を持ち、国家税制とは別に独自の「徴税権」「税制」を持つことを主張しないからだ。
他方、この「宗教法人の税務」を、キリスト教に適用するのは無理がある。なぜならキリスト教は、二千年前の奴隷層によってconceiveされた宗教であり、国家倫理に拮抗する倫理を持ち、コラム295で述べたように、国家税制とは別に独自の「徴税権」「税制」を持つことを求めるからだ。
「キリスト教は、奴隷層によってconceiveされた宗教」について少し説明すると:
・・・今から四千年ほど前、エジプト、メソポタミア、ギリシャなど四大文明の錚々(そうそう)たる大国メンバーに囲まれた小域であるパレスチナの地に、ユダヤ人達は住み始めた。そしてその後何度も、周りの大国からの侵略と「奴隷化」に悩まされた。
今から三千数百年前、ユダヤ人達はまず最初に、エジプトに強制連行され奴隷にされ、ナイル川の治水等の強制労働をさせられた。モーセが現れ、彼に引率され辛(から)くもパレスチナに逃げ帰ったユダヤ人に、しかし試練はつづく。その後も、周辺大国による強制労働「奴隷化」は何度も続いた。アッシリア、メソポタミア、バビロニア…。強制連行され奴隷化され強制労働させられ、からくも逃げ帰り…。これを何度も繰り返すうちにユダヤ人達は、「大国による支配」に対抗できる倫理を持つ「ユダヤ教」をconceiveしていった。エジプト王ファラオの言うような「地上世界の栄華」のために働いてはならない、「超自然の価値」を追い求めよう、という倫理。
今から二千年前、デナリオン銀貨を発明し「貨幣経済」を人類史上初めて本格化させ、国土を急拡大させるローマ帝国に、このユダヤ人達は襲われた。といっても今度は強制労働による「奴隷化」ではない。「税金を納めろ!」という「奴隷化」。言わば「税金奴隷」になれと強要された。
ユダヤ人達は困った。ローマ帝国に税金を納めれば「大国の奴隷になってはならない」というユダヤ教の教えに反するし、税金を納めなければ「ローマ帝国の法律に違反」ということで処刑されてしまう。
そこにイエスという一人のユダヤ人青年が現れた。「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」と彼はいった。ユダヤ教にも税金を納め、ローマ帝国にも税金を納めれば良い、と。
このイエスの考えに一部のユダヤ人達は猛反発した。「大国の奴隷になってはならない」「地上世界の栄華のために働いてはならない」というユダヤ教の教えに反する、と。彼らはローマ帝国に税金を納めることを拒み徹底抗戦に入った。三度のローマvsユダヤ戦争(Jewish–Roman wars)に敗れた後に「ローマ帝国の領土から出ていけ」との処分をうけて、国土を持たぬ民・国家を持たぬ民(diaspora)となった。世界中に散り散りバラバラとなって各地の地域社会に紛れ込んでいった。
他方、このイエスの考えに「国家支配に対抗できる社会思想」の芽を見つけた若者がいた。パウロだ。ユダヤ人(ヘブライ人)でありながらローマ帝国市民権を持つ裕福な家系に生まれたサウロ(のちのパウロ)は、ローマ帝国支配(つまりローマ帝国への納税)を拒むユダヤ人達を次々と虐殺する中で、自分の行いに「迷い」を感じていた。そんなある日、『サウロ,サウロ,なぜわたしに危害を加えるのですか』と言う声(イエス)を心の中に聴いた。ハッ、とした。
そうだ、宗教にも国家にも税を納めればいい、これを地上世界の社会思想にしよう、と思い立ったサウロは、パウロと名前を変え、「イエスはそんなこと言ってなかったぜ」というペトロやヤコブの反発を押しのけて、宣教活動を猛スタートする。幾多の困難を乗り越えて、ローマ帝国の首都ローマにたどり着いたパウロは、ローマ帝国による支配に人知れず根強く抵抗するための、地下活動拠点(カタコンベ、地下墳墓空間)を、ローマ帝国の中心である首都ローマの地下に設立することを思いつく…。
・・・欧米人の言う所の the best hidden secrets, Christian social teaching の核心部。キリスト教は「国家に税金を納めろと言うなら、キリスト教にも「徴税権」を認めてくれ」と主張する。
一方的に「税を納めろ」と強制する日本政府国税庁発行『宗教法人の税務』に、私は困惑する。二千年前、「税金を納めろ」と強要するローマ帝国にユダヤ人達が感じたのと同じ「困惑」。
本来、社会の中に多種類の倫理が互いに互いを尊重しあいながら共存していて、その倫理それぞれが、それぞれの「徴税権」「税制」を、どの税に納税されるかは人々の良心(conscience、共科学心)に委ねた形で、持っているのが「健全な社会」なのではないだろうか。夢みたいに「unforced force」に委ねた社会ではあるけれど、コラム295で述べたことを敷衍すれば、究極的にはこう考えられる。
20220217 追記:“unforced force” +”Habermas” +”Taylor”でググることをお薦めする。興味深い記事が沢山読める。
20220225 追記:上記ではパウロの回心前の行いについて、「ローマ帝国への納税を拒むユダヤ人達を次々と・・・」と述べたが、そうではなく「ローマ帝国への納税を行うユダヤ人達を次々と・・・」とする見方もある。ローマ帝国市民権を持ちながらユダヤ人でもあるサウロ(のちのパウロ)が、実際にどちらの側に残虐行為を行っていたのかは分からない。(あるいは、両方に?) しかしそんなサウロにとって「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」つまり「両方に納税」「両権拮抗併存」というイエスの着想は、目からウロコ、衝撃的に斬新な「発想の転換」だったに違いない。
20220226 追記:上記は、西洋キリスト教社会のナラティブ(narrative、人々が暗黙のうちに共有する物語)としての the best hidden secrets, Christian social teaching。キリスト教神学における「教義」と混同しないように注意したい。
clm.295:国家税制と宗教税制の拮抗併存
economic substance doctrine ー 経済の本質を伴う営みには国家は課税しないという法理 ー は、両権社会(church and state, Duo Sunt)に特有な法理。これを確認するために:『2016年Kluwar出版社発行Comparative Tax Law, 2nd edition 4章9節 Religion and Religious Law(原英文はここ)』を半訳し精読した。確証を得るとともに他にも知見が得られたのでメモしておく。なお、「economic substance doctrineは、両権社会に特有な法理」の確認は、以下を読めば自然な論理展開となるので、ここには記さない。
「国家税制と宗教税制の拮抗併存」
世界中の国(country)は、国家倫理(state ethics)と宗教倫理(religious ethics)の包含関係の違いによって、四種類に分類できる。(承前。例えばここ)。
即ち、ケイサロパピズム型 (国家倫理 ⊃ 宗教倫理); 単一宗教優位型 (国家倫理 ⊂ 宗教倫理、以下「イスラム型」と呼ぶ); デュオスント型 (包含関係なし、且つ、国家倫理 ∩ 宗教倫理 ≠ 空集合。両権社会とも呼ぶ); ディアスポラ型(宗教倫理のみ)の四種類。
この四種類の内、「国家税制と宗教税制の拮抗併存」が起きるのは、イスラム型とデュオスント型に限る。なぜならば:
「税」とは何なのか。それは、国家ではなく社会の維持・発展のためのresource (資源)。このことに注意したい。この「発展」の意味するところ、すなわち「社会が目指すべき方向」は、その社会がどの様な倫理を持つのかに依存する。だから当然、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会では、「税」を徴収する「徴税権」あるいは「税制」を、それぞれの倫理が持つことになる。
20220215 追記:確かに、上掲資料にある様な偽装宗教税問題という厄介ごとが増えるかもしれない。discernment(ホンモノかどうか識別すること)はとても難しい。しかし、もしそれがホンモノの倫理であるならば、倫理それぞれが、それぞれの「徴税権」「税制」を持つべきだ。
そして、社会倫理の中に国家倫理とそれとは異なる部分を持つ宗教倫理との二つが含まれる社会はデュオスント型とイスラム型だけ。結果、この二つの型の社会においてのみ国家税制と宗教税制の拮抗併存が起きる。
・・・さて、私達が生活する日本社会は、優位に置かれた国家倫理が宗教倫理を内包するケイサロパピズム型。カエサル(皇帝、国家首長)がポープ(教皇、宗教指導者)を選ぶ権限を持つタイプ。ウェーバーが名付けた社会類型であり、国家支配層がconceiveした宗教を持つ社会の多くがこれに分類される。国策宗教が不可抗力的に作られてしまう危険があり、徴税権は国家に属し宗教には属さない。
結果日本では、例えば、宗教者が「死刑反対」「自衛隊の海外派遣、反対」「原発反対」と主張しても、社会をその方向に持っていく実効力はほとんど無い。このことに「慣れ」た私達には、にわかには信じがたいかもしれないが、他のcountry(国)ー イスラム社会とデュオスント(両権社会)では、確かに宗教が社会を変えていく実効力を持つ。このことが、この資料を読むと良く分かる。
・・・この辺りに、フランシスコ教皇が最新刊『兄弟の皆さん』で、さかんにイスラムへの接近を図る要因があるのかもしれない。
20220212 訂正:上記全体で、「規範」と記載していたものを「倫理」に訂正した。具体的には、国家倫理はutilitarian ethics(効用主義倫理)であり、宗教倫理は、宗教を進歩派カトリックと想定すれば virtue ethics(徳倫理)であることは、当ブログ読者には明かだろう。コラム251で、「倫理が変われば経済も変わる」というようなことを述べたが、この考えの下に訂正を行った。
20220212 追記:日本政府の「新しい資本主義実現会議」も、もし本当に新しい経済を考えたいなら、まず先に「新たな倫理」についてconceiveする必要があるのではないだろうか。
clm.294:宗教性(超自然性)が低い国は医療費がかさむ
economic substance doctrine(経済的本質を有する事業には国家は課税しない、という法理)は、church and state(両権社会、下図の社会分類図で第三象限(Duo Sunt型))に特有の考え方なのではないか。
そう考えて”economic substance” +”church and state”でググっていたら、面白い資料に出くわした。それは Are faith and health care substitutes?(信仰心は医療の代替となり得るか?)という記事。その結論は「Yes、代替となり得る。宗教行事に参加しない度数と、国費に占める医療費割合とは、正の相関を持つ」というもので、記事の二番目のグラフに示されている。
ご覧の様に、不信心性(縦軸)と医療費(横軸)の間には正の相関が見て取れる。不信心であるほど医療費がかさみ、信仰心が厚いと医療費がかからない。
実際にどういうことか、想像してみる。例えば、癌になって死期が近づいた人がいたとしよう。その人が不信心で現世欲が強い人ならこの世のいのちに執着して「どんな高額医療でも受けたい」となるだろう。他方、信仰心が篤くこの世に執着しないなら「周りの人に祈ってもらいながら静謐に死を迎えたい」となり医療費は多額にはならないだろう。こういうことが起きているのだろう。
右上のフランスはライシテ(政教完全分離)という考えの下、国家運営に宗教性を一切持ち込まない。先程の社会分類図でいえば、Duo Sunt型でありながらも宗教規範と国家規範の重なり部分が空集合(Φ)である(ことを目指している)社会。従って国家としては不信心性が高く、医療費が多額になっている。左下のブラジルやメキシコは南米特有の、現世界のことよりも超自然界のことの探求に重きを置く進歩派カトリック国であり、不信心性が低く、医療費が低額になっている。
保守派カトリック国であるイタリアは、不信心性が低いのに医業費がかさんでいて、宗教ー医療費の相関から外れて右下に位置している。現世への執着が強いのかもしれない。
同じく興味深いのは、例外的に右下に位置する日本だ。これも信仰心が篤いのに医療費がかさんでいる。何故だろう。私の考えを陳べる:日本の宗教は、仏教や神道など元々国家支配層が作り出した宗教なので、国家を支える現世欲が強い。現世御利益(ごりやく)型。上図の社会分類でいうと第一象限(ケイサロパピズム型)。なので、不信心性が低い国としては例外的に医療費がかさむのだろう。形而上界での健康(well being)ではなく形而下界での健康(health of existence)を望んでいる、と言えるかもしれない。(この一文と下図は20220206追記)
恐らく、church and state型社会に見られる、国家規範に拮抗併存する宗教規範を持つ宗教においてのみ、不信心性と医療費の間に正の相関が顕著に表れるのだろう。
この推測は、記事の下の方にあるペンネームDeterminannt(決定因子)さんの、「これは経済学者の意見だけどね」(This is how an economist thinks.)で始まる意見によって補強される。曰く:
These various aspects of churches’ institutional structures are only relevant to this post the extent that they impact the degree of religious competition and/or the interaction between church and state.
半訳:ここで見られる様々な性質は、宗教が持つ競争力、且つ/または、church and state間の相互作用に、churchesが持つ制度的社会構造が、影響を及ぼす範囲においてのみ、成り立つ。
言い換えると、国家を支えるのでなく国家にもの申せるタイプの宗教であるときのみ、その宗教の信仰心は医療費削減に有効に働く。
「オバマは、この辺りのメカニズムを上手く活用して、オバマケアにeconomic substance doctrineを組み込み、国費としての医療費の削減を図ったのだろう」と、私は推測している。
clm.293:相続税・贈与税の廃止はeconomic substance doctrineの「当然の帰結」
OECD38加盟国では、一般的に相続税が軽微または皆無(上図の左11ヶ国)。例えば米国では相続する遺産が約10億円以下であれば相続税はかからない。日本(上図右から4番目)は例外的に高い相続税の部類。(出典はここ, Exelイメージ)・・・ 昨年11月の国税庁税務大学校公開セミナーの渋谷雅弘氏講義『相続税・贈与税の動向と課題』でこう聞いてから、なんだかモヤモヤしている。一見、格差平準化や公財政充実に逆行している様で簡単には腑に落ちない。
ひょっとしたら、経済的実体法理(economic substance doctrine) ― 経済実体を持つ事業体にはcorporate income taxが課されないという法理。非国家経済であるpopular economyの発達を促す。オバマが2009年にcodifyした。 ― の「当然の帰結」なのかもしれない。まだ思いつきの段階。忘れないようにメモしておくことにした。
20220204追記:economic substance (経済的実体、経済の本質)とは、いったい何なのだろうか。今、現行経済システムではそれは、利益追求であり「社会における効用関数の総和の最大化」だが、かつて、即ち、産業革命が効用主義倫理(utilitarian ethics)を生み出して、economyの意味を一変させる前は、economic substance(経済の本質)の意味は今とは全く違っていた。それは:
the Greek oikos and nomos, from where we get the word “economics”: the art of household management. — Francis, Pope. Let Us Dream (p.67).
即ち、オイコス(家)をノモス(切り盛り)すること、家庭経営、を意味していた。従って、親から子へ家庭経営を引き継ぐための遺産相続は、economic substance(経済の本質)の1丁目1番地。決して国家が、現行経済運営のために取り上げてはならない。こう、economic substance doctrineでは考えられる。以上、とりあえず、考えの道筋をザックリとまとめてみた。