植村邦彦氏の近著『隠された奴隷制』を読んだ。本屋に平積みにされていたのを、帯のアイキャッチ:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか、に引かれて購入し一気に読んだ。
本書は、国家や現行経済を基盤とする現在の社会システムはその根底に「隠された奴隷制」を含んでいると主張する。フランシスコ教皇の「新たな隷従形態」と通底する主張であり、カトリック社会思想(CST)の用語で言えば、Liberation Theology(解放の神学)による現代社会システム分析に近い、というか「そのものズバリ」の印象を持った。
著者の植村邦彦氏はマルクス研究を専門とし、解放の神学はマルクシズムに近いとされたこともあるので、両者の主張が類似するのは合点が行く。
ただ、カトリック社会思想(CST)の方は、2013年のフランシスコ教皇着座以来、解放の神学から次の段階であるTheology of the people(the peopleの神学)に進んでいる。善悪を判断するethics(倫理学)において大きな変化が起きた。旧来の、義務論倫理 ー 嘘はいけない、盗みはいけないといった行為固定的な倫理、および、功利主義倫理 ー 行為のconsequence (帰結)に効用(utility)が多いか少ないかで善悪を判断する倫理から、virtue ethics ー 不適切だが徳倫理と和訳されることが多い。各人の内面から響く或る種「良心の声」にrespond(応答)するのを「善」とする ー 新たな倫理へと、大きな変貌を遂げた。
virtue ethicsを基底に据えた現在のカトリック社会思想では、libertyとfreedom ー 日本語ではどちらも同じく「自由」と訳される概念 ー を峻別する。libertyは、public welfare(公共福祉)を目指す国家などが定める法律体系の中で許される「自由」を意味し、freedomは、その上位概念であるthe common good(共通善)の中で許される「自由」を意味する。
(註:共通善の定義はここで紹介したように学派ごとに様々な定義がある。私自身はライプニッツの「human understanding(人知、人間知性)を超越しながらもeach personによるdiscernmentによってcommonにsenseできる「善」の概念」がシックリくる。)
即ち現在のカトリック社会思想では、libertyは旧来の倫理(義務論倫理ないし功利主義倫理)によって規定されると考え、freedomは新しい倫理つまりvirtue ethicsによって規定されると考える。従って現在のカトリック社会思想では、「隷従状態からの解放」つまり「自由」は、単に国家や現行経済による支配からの解放を意味しない。現在のカトリック社会思想での「隷従状態からの解放」つまりfreedomは、フランシスコ教皇ないし国連人間環境会議(1972)の言葉を借りれば、その人がa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持つときgrant(要求に応じ付与)される、と考える。
・・・前置きが長くなったが、本書は「隠された奴隷制」からの「解放」を旧来の倫理観で模索しているようだ。例えば第5章の2「自立と自己責任」で、個人が持つ自立心や自由意志は「自己責任」というキーワードを国家や企業に与えてしまい、「悪いのは社会構造・社会制度でなくあなた個人」という理屈を与えてしまうから、諸手を挙げて「賛成」とは言えないとしている。
私はこの辺りに「違和感」を覚えた。自由意志(freewill)をa greater sense of responsibility for the common good(共通善に関し一段感度を増した応答責任)を持とうとする意志、ととらえれば、自己責任(self-responsibility)とは「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」であり、結果(consequence)を出すことでも既存の法律を遵守することでもない。国家や企業から「悪いのは社会構造・社会制度ではなくあなた個人」なんて言われる筋合いのものではない。
整理しよう。日本語では単に「責任」と訳されるresponsibilityは、libertyとfreedomを峻別する現在のカトリック社会思想においては「応答(respond)する責任」詳しく言えば「共通善に関し一段感度を増して応答する責任」を意味し、必ずしも結果を出す責任(consequencibility)を伴わず、必ずしも既存の法律を遵守することを意味しない。
本書の帯の質問:「自由」に働く私たちはなぜ「奴隷」にすぎないのか? 答え:私たち日本人が知る「自由」が、libertyであってfreedomではないから。・・・と、現在のカトリック社会思想からは答えることが出来る。