月別アーカイブ: 2021年8月

clm.282:日本語でも優れたreality解説本がある

reality解説本として既に、カルロ・ロヴェッリのReality Is Not What It Seemsと、ペンローズのThe Road To Realityとを紹介した(コラム257267)。

日本語でも優れた<現実>解説本があるのを見つけた。まだ読みかけだが、皆さんにも知ってもらいたいのでメモしておく。

〈現実〉とは何か ― 数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書)、西郷甲矢人 (著), 田口茂 (著) 2019年12月刊。

既に紹介した前二書が欧米の物理学者が書いたものであるのに対して、本書は日本人、圏論(数学)を専門とする西郷甲矢人(はやと)と、現象学(哲学)を専門とする田口茂の共著。〈現実〉という具合にカギ括弧でくくって、普通の日本語で言いう「現実」とは違うことを表している。英語で言う「無冠詞のreality」。

興味を引いた点のメモ書き:
本書は、集合論に「選択公理」という議論百出の公理があることを紹介している。「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」(wikipedia「選択公理」)というとても単純な「公理」。しかしひとたびこの公理を認めると、「球を適当に分割して、組み替えることで、元と同じ球を2つ作ることができる」(wikipedia「バナッハ=タルスキーのパラドックス」)となってしまうとのこと。私としては「この選択公理を量子論の「波束の収縮」に適用すると、hidden realitiesから、私達がいると感じているようなa naive realityが沢山できることになるのだろうか?」と、多世界解釈(many-worlds interpretation)を思い出してしまった。(^o^)

clm.281:wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」

最近、wellbeingという英語が日本でも散見されるようになった。例えばここ。wellbeingを日本では「よく在る」「よく居る」という、極めてworldly (現世的、世俗的)な意味をあらわす概念ととらえているが、少し違うように私は感じている。メモしておく。

西洋では、wellbeingの意味は「virtue ethics的に善な形而上存在」に変化しつつあると私は感じている。その背景には、最近起きつつある二つの西洋社会意識変化がある。

一つ目は、コラム270「beingとexistence」で示した「beingは形而上存在、existenceは形而下存在」という意味の分離が起きつつあること。二つ目は、コラム279「Is virtue better than happiness?」に書いた「the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らない」という様に、現行社会構造の屋台骨であるutilitarian ethics(効用主義倫理)に対する疑問が大きくなってきたこと。

なお、ネット上の語源辞典によれば、wellbeingは1610年代に作られた概念。当時の西洋社会は、宗教改革(1517年~)によって一人一人のconscienceの重要性に力点を移すvirtue ethicsが主流になっていく時代。utilitarian ethics(効用主義倫理)はまだ形成されていない。

wellが意味する「善」と、beingが意味する「存在」とを、worldly (現世的、世俗的)に捕らえるのは誤りであると私は感じている。

20210905追記:コラム264で、wellbeingを「霊的幸福」と和訳した。和訳するならこれだが、意味するところは「virtue ethics的に善な形而上存在」であり、このニュアンスを日本語で表せるようになるにはまだ時間がかかるだろう。当面、wellbeingと残す半訳が良いと思う。

IPCC、温暖化人為説を公理化(axiomatize)

IPCC第6次報告書が、人間活動の温暖化への影響は「疑う余地がない」と断定した。(20210810日経朝刊一面記事、日経有料会員ならここで閲覧可)


私の感想:「断定した」という表現は不適切。科学を良く知らない人には誤解を招くと思う。ひと言注意を促すと、これは科学における「公理化」。だからfalsifiable (反証可能)。今後もし「疑う余地がある」というcontraly evidence(反証)が出て、それが検討されたのち「確か」となれば、誤りを認め訂正する準備は出来ている。

「断定」でなく「公理化」という表現を使って欲しかったが、それには「公理」という言葉の意味がもう少し一般に知れわたる必要があるのだろう…。

clm.280:自分達で地域を中心に経済と社会と文化を創造する

迫力のある本だった。結論部(Kindle位置No.860-862):

もはや国家や資本に依存して仕事と暮らしと文化と教育の将来を展望する思考は捨て去った方がいいのかもしれません。自分たちで地域を中心に経済と社会と文化を創造し、学校を中心に子どもたちの未来と地域社会の未来を創出する、その発想に立った改革の展望を拓くべきでしょう。

・・・が印象に残った。

clm.279:Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)

帯にある「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立するのか?」に惹かれ購入し一気に読んだ。関口正司によるJ.S.Mill, Utilitarianism(原英文1871年第四版)の新訳、岩波文庫『功利主義』2021年5月新刊。

この設問は、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)という質問に置き換えられる。つまり、この質問への答えが、No, virtue is not better than happiness.(いや、徳は幸福よりも善だとは言えない)となるとき、幸福を追求する生き方が有徳な生き方を内包する。

本書44,45頁(原英文第二章のここ)で、この質問に対しJ.S.Millは「有徳な生き方、あるいは自己犠牲の生き方は、世の中の幸福の総量(the amount of happiness in the world)を増加(increase)させるならば名誉(honour)あるものとされるが、増加させないならば、(関口訳補:苦しむこと自体を目的にして)柱の上に乗っている苦行僧と同様に、なんら賞賛に値しない」と言い切っている。つまり、No, virtue is not better than happiness.と言っている。

更にコテンパンに、「こういう生き方(柱の上に乗っている苦行僧)をする人は、人間は何ができる(can)かを示す点で刺激的かもしれないが、人間が何をすべき(should)かを示す模範例でないことは確かである」とまで述べている。

さて、この考え方の何がマズいのか。それは、量子論によってhidden realitiesの存在が明らかとなった現在、明かだ。つまり、the amount of happiness in the world(地上世界)を増加(increase)させることだけが「善」だとは限らないと分かった今となっては、Is virtue better than happiness?(徳は幸福よりも善なるものか)に、J.S.Millの様に「No」と答えることはできない。

J.S.Millが Utilitarianism(第四版)を書いた1871年から150年経った現在、分かったことは多い。最早「最大多数の最大幸福はソクラテスの有徳な生き方と両立する」とは必ずしも言えない。

なお、『功利主義』という邦題訳は不適切。関口正司氏も「今回は思い切って効用主義という代案はどうだろうなどと考えたが..」と本書巻末250頁で述べている。私としてはきっぱりと「思い切って」欲しかった。チョット残念!

20210811追記:上記ではJ.S. MillがNo, virtue is not better than happiness.と言っているとしたが、実はそこまで直截な表現はされていない。彼が直截を避けた理由は恐らく、キリスト教教義としては、virtueは地上世界的なものよりもgoodであるとされているからだ。彼は、正確には、
 It is noble to be capable of resigning entirely one’s own portion of happiness, or chances of it: but,  after all, this self-sacrifice must be for some end; it is not its own end; and if we are told that its end  is not happiness, but virtue, which is better than happiness, I ask, would the sacrifice be made  if the hero or martyr did not believe that it would earn for others immunity from similar sacrifices?
という具合に、virtueにかかる関係代名詞whichにコンマ付き非制限用法を使って、「virtue, それは一般的には幸福よりも善であるが」と、巧(たくみ)にキリスト教教義に反抗することを避けている。しかし注意深く読めば「地上世界の幸福の総量を増加させないのであればvirtueのgoodnessは認められない」という極めて帰結主義(consequentialism)的な発言をしていることが分かる。これは「virtueは、それが地上世界的帰結をもたらさなくともその価値は認められる」というキリスト教教義に反している。

五輪ガンダム

オリンピック野球、侍ジャパン、金メダルおめでとう。50年ぶりくらいで作ったプラモデル、五輪ガンダムを記念にアップ。

clm.278:「安全安心」というfictionは、structural sinの一つ

日本対米国 3回裏日本2死二塁、吉田正の適時打で生還しベンチ前で笑顔を見せる坂本(撮影・河野匠)オリンピック、昨晩の野球「侍ジャパンが米国にサヨナラ勝ち!」は、今(午前四時、64歳は早起き!)ネットで知った。良かった!野球観戦好きな私としては嬉しい。しかし一方でコロナ禍の第五波が猛烈な勢いで襲ってきている。オリンピックをしている場合だろうか、なにか腑に落ちない。

…で少し考えた。オリンピックが「安全安心」というfictionのもとに行われているのではないか。そして、この「安全安心」というfiction、ここで紹介したstructural sin(社会構造による罪)の一つなのではないか。

つまり、現行の社会構造のもとに、コロナ禍の中オリンピックを強行しようとすれば、どうしても「安全安心」というfictionを必要としてしまうのではないか?

ひとつ、考えるヒントを書き残しておく。 sinとguiltの違いに着目する。すると、structural guilt(社会構造によるguilt、法律を犯す罪)というのは概念の定義上ありえないと分かる。なぜなら、人間の行為の(或る倫理学によって判断される)正当性(legitimacy)を規定するよう組み立てたものが「法律」であり、この様な「法律」を構成要素の一つとして組み立てたものが「社会構造」なのだから…。法律の中に「法律を破る行為を誘導する/強制する」法律が混じることはないと考えられる。

この「或る倫理学」の所にutilitarian ethics(効用主義倫理と私は訳す。功利主義倫理という和訳を私は使わない)を代入すると、この「社会構造」は「現行社会構造」となる。つまり、utilitarian ethicsが効用のあるものだけを是とし、「安全安心」というfictionというか嘘というか虚妄というか,,,を生み出しているのが現状だろう。

問題の解決には、恐らく、コラム264で紹介したsalutary unrest(健全な不安)の気づきが鍵となるのではないか。則ち、コロナ禍でオリンピックをするのは、安全安心だからではなく、健全な不安と、そして希望があるからだという気がする。ただそれには、健全な不安という、効用をすぐには「売り」に出来ない「お荷物」の価値や善を認識する新たな価値観倫理観が必要になるはずだ…。マッ、早朝の頭の体操はここまでかな? (^o^)

早朝は、頭の回転に文章化スピードが追いつかないが、とにかく、「安全安心」を強弁する菅首相が悪いのではなく、utilitarian ethics(効用主義倫理)のもとに組み立てられた現行社会構造が悪いのでは? そういう気がする。(^o^)

20210804追記:ネットで調べたところstructural guiltという用語使いは、案の定、見つけられなかった。ただ、structurally guiltyという副詞+形容詞が、BLM関連の記事で「黒人は、社会構造的に法律的罪の状態とされている」というように使われているのは見つけた。また、意味的にはconsciencious objection(良心的拒否)がstructural guilt(社会構造によるguilt)に近いかなとも思ったが、良心は社会構造がどうであろうと普遍的なものだから、「社会構造による」という部分は当てはまらない。従ってconsciencious objection(良心的拒否)とstructural guilt(社会構造によるguilt)は違う概念だとした方が良いと思う。

20210919追記:BLM関連の記事で使われていた副詞+形容詞”structurally guilty”から、ふと思いついたのでメモしておく。日本の皇族は、職業選択の自由、選挙権、被選挙権など幾つかのhuman rightsが著しく制限されている。これは、structurally guiltyとは言えないが、制度としてstructurally illegal(社会構造による法律違反)とは言えるのではないだろうか。また、皇族の方々に申し訳ないことをしているという点で良心がうずく。日本社会が持つstructural sinとも言えるかもしれない。