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分科会2024#1 (3月16日) 開催通知および配付資料

日時2024年3月16日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマEoF基調論文「Oeconomicae et pecuniariae quaestiones 現行経済金融の問題点」精読
 第1節~第9節 今の時代を生きる私達は、それぞれの人間ペルソナの限られたvisionしか示していない。

配付資料

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、第二章の最終段落の訳を修正

第二章「根本となる様々な約因」の大事な結論部である最終段落の訳を、以下の様に大幅に修正し、他の段落にも手直しを加え、rev4としてアップした。

大幅修正:最弱者達のための部屋を持つ思いやりと包摂が住まう所としてのa society。それは、the benefit of all(各自全員の形而上益)のために富が使われる場です。またthe benefit of allとは、human beings(諸々の人間形而上存在)が心楽しく生活し容易に希望を持てる数々の場です。そういったa societyを構築するはずの彼自身・彼女自身はカヴァーで覆(おお)われ、儘(まま)なりません。このカヴァーをthe human person(それぞれの人間ペルソナ)が取り外し、自分自身を見いだし、社会構築に取りかかる。これを受容できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観しかありません。ですから、humanityをこのように自発的に再生し、私達が受け継いできた豊かな価値観に向かう幾つもの展望を再開することが、何よりも必要とされているのです。


なお、consideration(約因)に関する解説(日本語)は、日本には数人しかいない英米法学者による専門的なものは幾つか見つかるが、非専門家が書いたものは最近まで無かった。しかし、ネットを渉猟したところ、或る翻訳事務所が書いた「約因(Consideration)について」という記事を見つけた。

この記事の優れた点は「約因の相当性(adequacy of consideration)は問われないので、対価は必ずしも等価値である必要はない」と、所謂「約因の相当性の不審査法理」を述べた点。悪い点は、未だに西洋社会の法律を英米法と大陸法に分類している点。21世紀初頭からpost-secularization(ポスト世俗化)が本格化した欧米社会は、急速にlegal convergenceを進めている。

とはいえ、副題を「現行経済金融システムの諸相に関しan ethical discernmentするための様々な約因」とした本論考を読むには、consideration(約因)に関する知識は必修項目だと思う。


20240220追記:再び、第二章「根本となる様々な約因」の大事な結論部である最終段落の訳を、以下の様に修正し、他の段落にも手直しを加え、rev4aとしてアップした。

再修正:最弱者達のための部屋を持つ思いやりと包摂が住まう所としてのa society。それは、the benefit of all(各自全員の形而上益)のために富が使われる場です。またthe benefit of allとは、human beings(諸々の人間形而上存在)が心楽しく生活し容易に希望を持てる数々の場です。そういったa societyを構築するはずの彼自身・彼女自身はカヴァーで覆(おお)われ、儘(まま)なりません。このカヴァーをthe human person(それぞれの人間ペルソナ)は取り外せますが、これをpermit(許可)できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観しかありません。ですから、humanityのこのような自発的再生を率先して行い、私達が受け継いできた豊かな価値観に向かう幾つもの展望を再開させ、そういったa societyを構築することになります。即ち、この様なan initiative(或る自発的率先)が何よりも求められているのです。

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、第二章の終わりまで半訳

第二章「根本となる様々な約因」の最後まで半訳した。これで、全34節のうち第17節まで、即ち、ちょうど半分を半訳したことになる。rev.3aとしてアップした。

余談だが、サブタイトルにある「considerations for an ethical discernment」という「複数形 for 単数形」の表現は、the common good(共通善)というものが何なのか、その本質を的確に表していると思う。

20240212追記:第二章の最終段落に、訳し忘れ箇所があった。下記のように訂正し、rev.3bとしてアップしなおした。
第二章最終段落の訳訂正:弱者のための部屋を持つ思いやりと包摂が住む住居、万人の形而上益のために富を使う場、形而上存在としての人間達が心楽しく生活し、容易に希望を持てる数々の空間。そういったa societyを構築する本来の彼自身・彼女自身は、カヴァーで覆(おお)われています。 このカヴァーをthe human personが取り外す。これを容認できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観だけなのです。この豊かな価値観に向かう展望を再度開くために、humanityを刷新しようとするan initiativeが、何よりも求められています。

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、全34節のうち第12節まで半訳

去年10月にrev.1として第一章introductionの半訳をアップした。今回、第二章「基本的諸約因」の序盤、全34節のうち第12節まで半訳が出来たのでアップしておく。

本論考のタイトルや文中にあるconsiderationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更した。

約因とは、西洋社会の契約法(contract law)で近年急速に形而下法律整備が進んでいる概念。固く言えば「契約締結に入る当事者の譲歩を基礎づける何らかの原因」を意味する。通常、約因はお金だが、拙ブログの「ブログ立ち上げ経緯」ページでは、corporateでは「約因はお金」、partnershipでは「約因は契約者間合意があれば何でもよい。例えば結婚契約の約因は通常はお金ではなく、幸せや楽しさが約因となる」と紹介した。

本論考を訳出するに当たり大きな変更だが、その理由は、お読み頂ければお分かり頂けると思う。

20240203追記:considerationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更するのを一つ忘れていた。それは第一章の最後部分、即ち、第二章と第三章の内容を一文で紹介する部分。和訳を下記のように訂正し、13節と14節の半訳も付加し、rev.2aとしてアップしなおした。

原英文:With this document, the Congregation for the Doctrine of the Faith, whose competence extends to moral questions, in collaboration with the Dicastery for Promoting Integral Human Development, offers some fundamental considerations and clarifications in support of such development and in defense of human dignity.
訂正和訳:本論考では、人間の尊厳を擁護し共通善展開を支持する上で、根本となる約因と解明できた事柄とを、モラル問題を扱う適任能力を持つ教理省が、高次統合人類発展市民評議会との協業の下に、提示します。

20240204追記:もう一箇所、considerationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更するのを忘れていた。第二章の最初の段落。ここは大幅に訳出しなおした。rev.2bとしてアップしなおした。

分科会2023#5 (11月18日) 開催通知および配付資料

日時2023年11月18日土曜日 13:30 ー 15:30
場所(東京都 新宿区 信濃町 33 -4 カトリック真生会館 1Fホール)
ZOOMによるオンライン勉強会を予定。参加を予定する方は私(齋藤)までお知らせ下さい。
テーマフランチェスコの経済 — 無冠詞economyの実践とは、taking care of the common homeすること。

配付資料

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“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、序文のみ半訳

EoF大会への招待状を若者達に2019年に送る前年の2018年1月、フランシスコ教皇は、「現行経済金融の様々な問題点」という基調論文をまとめた。

序文・考察・解明・結論からなる本論文の序文だけ、先ず半訳した。今後手が空いたときに少しずつ半訳していく予定。まずは序文のみ半訳のrev.1からアップしておく。

教皇フランシスコ:10月4日に使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』発行予定

標記のニュースが飛び込んできた。Vatican News 30 August 2023. 11:52 以下半訳。


バチカンニュース 2023年8月30日 11:52

8月30日水曜日パウロ6世ホール。フランシスコ教皇は、毎年9月1日に設定されている「被造界を大切にする世界祈願日」を前に、今年のテーマを “Let Justice and Peace Flow”(正義と平和を大河のように)とすることをアピールした。

教皇は、the Season of Creation(「被造界の季節」エキュメニカル行事)が、この9月1日から10月4日(アッシジの聖フランシスコの記念日)まで設けられていることも付言した。

また既に8月21日、欧州委員会各国の法律家代表団を迎えた際にアナウンスしたことだが、来る10月4日に、回勅ラウダート・シの2nd Partを発行することを明らかにした。

環境的不正義の犠牲者の側に立つ

「その日に私は、使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』を発行する計画です」「創造主からの聖なる贈り物である被造界のケアに参画する兄弟姉妹達に、私たちも加わりましょう」と教皇は陳べた。

8月30日水曜日、去る5月に発行した「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージの核心部を要約した。

「環境・気候に関する不正義の犠牲者の側に立つ。即ち、私たちの共通の家に対する意味の無い戦争、恐ろしい世界大戦を終わらせるよう努力する。これが必要です。皆さん全てが、私たちの共通の家が再び生命で満ちあふれるよう祈り働くよう強く要請します。」

public訳註1 policyの変革

上記メッセージで教皇は、「私たちの心、私たちのライフスタイル、私たちの諸社会を支配するthe public policies、これらを変革する」決意が必要だと陳べた。

更にエコロジカルな回心の話題に戻し、最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要があると陳べた。

「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージは、「私たちの諸社会を統治し、今日と明日のyoung peopleのlivesを形作ることになるthe public policiesを変革する」必要について強く主張している。

フランシスコ教皇はsynodalityの重要性を強調し、彼の希望をこう陳べ祈りを捧げた。「この被造界の季節に私たちは、シノドスの旅に共に参加するキリストに従う者として、祈り、働き、生活し、そうして私達の共通の家が再び生命で満ちあふれますように」と。

__________
訳註1)このpublicを「公共」と和訳するのは不適切。ここで示した様にフランシスコ教皇は、形而上概念を重視するpeoplesと、形而下概念を重視するIndividualsの二種類の集団が「拮抗併存」してpublicを形成すると考えている。日本語の「公共」には、この様な「重なる部分と重ならない部分が拮抗併存する二重構造」の意味は無い、または、薄い。


20230908追記:一般的に、creationの和訳としては「被造物」「被造界」の二つが考えられる。the Season of Creation、the World Day of Prayer for the Care of Creation、これらで使われているcreationの和訳として「被造物」「被造界」のどちらが適切だろうか。日本のラウダート・シ デスクでは「被造物」を採用している。しかし、上記半訳原英文の中程で教皇は、no longer consider creation as an object to be exploited, but as a reality to be safeguarded “as a sacred gift from our Creator”と陳べている。これは、「最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要がある」と和訳するのが自然。…訳者としてはこのように考え、上記半訳のcreationの訳語を「被造界」に統一して訂正した。

clm.310:霊的資本(spiritual capital)は、近代資本主義揺籃期、最重要資本だった。そして今再び最重要に…。

spiritual capital(霊的資本)という日本人には耳慣れない用語が、来月の分科会用に私が用意した教皇メッセージ対訳資料4頁目に出てきた。調べてみた。メモしておく。

1st finding:近代資本主義揺籃期、霊的資本(spiritual capital)は最重要資本だったのかもしれない。
近代資本主義(modern capitalism)という用語の初出をGoogle Ngramで調べると、1797年、18世紀最終盤であることが分かる。つまり19世紀の百年間が近代資本主義揺籃期。この百年間、1800年から1900年の間、文献が各種資本を引用する頻度を調べてみる(下図)と、霊的資本(spiritual capital)が金融資本(financial capital)を抑えて最頻で言及されていたことが分かる。なお、期間を1900年から2019年にして調べると、21世紀現在の最頻引用資本は金融資本だが、霊的資本も二番目の頻度で言及されていることが分かる。また近年は、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本も生まれ、それらを含めて調べるとこの二種類の資本が現在では最重要視されているが、それでも霊的資本は金融資本の次の頻度、即ち頻度四位で言及されていることが分かる。

1900年から2019年の間、社会資本(social capital)と人的資本(human capital)という新たな資本と金融資本(financial capital)を除いて調べてみると、21世紀に入って霊的資本の引用頻度が急激に上がっていることが分かる。その理由は以下の様に推察されている。

The Oxford Handbook of Christianity and Economics

2nd finding:Spiritual capital has come to prominence in recent years due to the combination of three related trends: the failure of secularization/modernization theories to account for reality; a rise in religiosity globally; and, the lack of ethics and virtue evidenced in the financial crisis and an ongoing plague of corporate scandals. 
   (出典:左掲書籍第24章論文「Spiritual Capital」Abstract

半訳:霊的資本(spiritual capital)は近年、関連する次の三つの傾向が組み合わさったために、卓越して注目を集めるようになっている。 「世俗化理論または近代化理論ではrealityを説明しきれなくなった」「世界的な宗教性の興隆」「金融危機、および現在も続いている複数のcorporate不祥事で証明される、ethics(倫理)とvirtue(美徳)の欠如」。

3rd finding:霊的資本(spiritual capital)の現在での定義の例。
The notion of “spiritual capital” has been the subject of growing interest in recent years; however, the concept remains poorly defined.  Based on a review of the academic literature and on interviews and focus groups conducted with leaders and volunteers of over fifteen NGOs and community groups in Hong Kong, Macau and Taiwan, this paper proposes a preliminary conceptual framework for understanding, generating and applying spiritual capital.  We discuss the problematic aspects of the concept and its potential for offering a critical, engaged perspective on the social relations of capital and identifying the means for transforming them through the application of spiritual motivations and values.  We define spiritual capital as “the individual and collective capacities generated through affirming and nurturing people as having intrinsic spiritual value”.  In contrast to some other definitions and theorizations of spiritual capital, this conceptual framework stresses (1) that spiritual capital is an autonomous form of value which is not merely a subset of social, cultural or religious capital; (2) that spiritual capital is based on the affirmation of intrinsic value and, as such, offers a critical perspective on instrumental concepts of capital and its conversion; (3) that spiritual capital generates and transforms social and material relations.  Spiritual capital is generated through the affirmation and nurturing of each human being as having intrinsic, infinite spiritual value.  When this affirmation and nurturing are built into the organizational culture of a third sector organization, it enhances individual and group capacity to pursue intrinsic goals and serve the common good.
        (出典:Clarifying the Concept of Spiritual Capital – Abstract, David Alexander Palmer)

半訳:「霊的資本」概念は近年、日増しに関心を集める対象であり続けている。しかしながら、この概念は未だにほとんど定義づけられていない。本論文では、香港、マカオ、台湾の15団体以上のNGOsとcommunity groupsの、leaders and volunteersが集まって2013年7月に開催された「宗教に関する社会科学研究会議」での集中討議、および諸インタビューと学術文献に基づいて、霊的資本の適用・生成・理解のための予備概念的枠組みを提案する。ここにおいて私達は、この概念の未だ問題含みの側面と、各種資本を社会的に関係づける上で不可欠な実視野を提供する潜在力とを考察し、霊的価値観と諸々の霊的動機を実際に適用する際に用いられる、霊的資本変革方法を同定した。私達は霊的資本を「peopleを、本質的に固有な霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出されるthe individual and collective capacities(個人的・集団的潜在能力)」と定義する。他にも色々ある霊的資本の定義づけ・理論づけと異なり、この概念枠組みは以下の点を強調する。『(1)霊的資本は或る一つの自律的形態を持つ価値であって、他の社会資本・文化資本・宗教資本の単なる部分集合ではない。(2)霊的資本は、本質的に固有な価値の肯定に基づくものであって、そうであるからこそ、諸々の資本概念が有する器機性とその収束に関してとても重要な視野を提供する。(3)霊的資本は、社会と物財との諸関係を創出・変革する。』 霊的資本は、each human beingを、本質的に固有で無限の霊的価値を持つものとして肯定・養成することで創出される。例えばこのような肯定・養成が、或る第三セクター有機組織の、有機組織的文化の中に構築されるならば、本質的に固有なゴールの追求と共通善への奉仕に関する、個人的団体的潜在能力は強化される。