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“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、第二章の最終段落の訳を修正

第二章「根本となる様々な約因」の大事な結論部である最終段落の訳を、以下の様に大幅に修正し、他の段落にも手直しを加え、rev4としてアップした。

大幅修正:最弱者達のための部屋を持つ思いやりと包摂が住まう所としてのa society。それは、the benefit of all(各自全員の形而上益)のために富が使われる場です。またthe benefit of allとは、human beings(諸々の人間形而上存在)が心楽しく生活し容易に希望を持てる数々の場です。そういったa societyを構築するはずの彼自身・彼女自身はカヴァーで覆(おお)われ、儘(まま)なりません。このカヴァーをthe human person(それぞれの人間ペルソナ)が取り外し、自分自身を見いだし、社会構築に取りかかる。これを受容できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観しかありません。ですから、humanityをこのように自発的に再生し、私達が受け継いできた豊かな価値観に向かう幾つもの展望を再開することが、何よりも必要とされているのです。


なお、consideration(約因)に関する解説(日本語)は、日本には数人しかいない英米法学者による専門的なものは幾つか見つかるが、非専門家が書いたものは最近まで無かった。しかし、ネットを渉猟したところ、或る翻訳事務所が書いた「約因(Consideration)について」という記事を見つけた。

この記事の優れた点は「約因の相当性(adequacy of consideration)は問われないので、対価は必ずしも等価値である必要はない」と、所謂「約因の相当性の不審査法理」を述べた点。悪い点は、未だに西洋社会の法律を英米法と大陸法に分類している点。21世紀初頭からpost-secularization(ポスト世俗化)が本格化した欧米社会は、急速にlegal convergenceを進めている。

とはいえ、副題を「現行経済金融システムの諸相に関しan ethical discernmentするための様々な約因」とした本論考を読むには、consideration(約因)に関する知識は必修項目だと思う。


20240220追記:再び、第二章「根本となる様々な約因」の大事な結論部である最終段落の訳を、以下の様に修正し、他の段落にも手直しを加え、rev4aとしてアップした。

再修正:最弱者達のための部屋を持つ思いやりと包摂が住まう所としてのa society。それは、the benefit of all(各自全員の形而上益)のために富が使われる場です。またthe benefit of allとは、human beings(諸々の人間形而上存在)が心楽しく生活し容易に希望を持てる数々の場です。そういったa societyを構築するはずの彼自身・彼女自身はカヴァーで覆(おお)われ、儘(まま)なりません。このカヴァーをthe human person(それぞれの人間ペルソナ)は取り外せますが、これをpermit(許可)できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観しかありません。ですから、humanityのこのような自発的再生を率先して行い、私達が受け継いできた豊かな価値観に向かう幾つもの展望を再開させ、そういったa societyを構築することになります。即ち、この様なan initiative(或る自発的率先)が何よりも求められているのです。

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、第二章の終わりまで半訳

第二章「根本となる様々な約因」の最後まで半訳した。これで、全34節のうち第17節まで、即ち、ちょうど半分を半訳したことになる。rev.3aとしてアップした。

余談だが、サブタイトルにある「considerations for an ethical discernment」という「複数形 for 単数形」の表現は、the common good(共通善)というものが何なのか、その本質を的確に表していると思う。

20240212追記:第二章の最終段落に、訳し忘れ箇所があった。下記のように訂正し、rev.3bとしてアップしなおした。
第二章最終段落の訳訂正:弱者のための部屋を持つ思いやりと包摂が住む住居、万人の形而上益のために富を使う場、形而上存在としての人間達が心楽しく生活し、容易に希望を持てる数々の空間。そういったa societyを構築する本来の彼自身・彼女自身は、カヴァーで覆(おお)われています。 このカヴァーをthe human personが取り外す。これを容認できるのは、私達が受け継いできた豊かな価値観だけなのです。この豊かな価値観に向かう展望を再度開くために、humanityを刷新しようとするan initiativeが、何よりも求められています。

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、全34節のうち第12節まで半訳

去年10月にrev.1として第一章introductionの半訳をアップした。今回、第二章「基本的諸約因」の序盤、全34節のうち第12節まで半訳が出来たのでアップしておく。

本論考のタイトルや文中にあるconsiderationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更した。

約因とは、西洋社会の契約法(contract law)で近年急速に形而下法律整備が進んでいる概念。固く言えば「契約締結に入る当事者の譲歩を基礎づける何らかの原因」を意味する。通常、約因はお金だが、拙ブログの「ブログ立ち上げ経緯」ページでは、corporateでは「約因はお金」、partnershipでは「約因は契約者間合意があれば何でもよい。例えば結婚契約の約因は通常はお金ではなく、幸せや楽しさが約因となる」と紹介した。

本論考を訳出するに当たり大きな変更だが、その理由は、お読み頂ければお分かり頂けると思う。

20240203追記:considerationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更するのを一つ忘れていた。それは第一章の最後部分、即ち、第二章と第三章の内容を一文で紹介する部分。和訳を下記のように訂正し、13節と14節の半訳も付加し、rev.2aとしてアップしなおした。

原英文:With this document, the Congregation for the Doctrine of the Faith, whose competence extends to moral questions, in collaboration with the Dicastery for Promoting Integral Human Development, offers some fundamental considerations and clarifications in support of such development and in defense of human dignity.
訂正和訳:本論考では、人間の尊厳を擁護し共通善展開を支持する上で、根本となる約因と解明できた事柄とを、モラル問題を扱う適任能力を持つ教理省が、高次統合人類発展市民評議会との協業の下に、提示します。

20240204追記:もう一箇所、considerationの和訳を「考察」ではなく「約因」に変更するのを忘れていた。第二章の最初の段落。ここは大幅に訳出しなおした。rev.2bとしてアップしなおした。

“Oeconomicae et pecuniariae quaestiones” – 現行経済金融の様々な問題点、序文のみ半訳

EoF大会への招待状を若者達に2019年に送る前年の2018年1月、フランシスコ教皇は、「現行経済金融の様々な問題点」という基調論文をまとめた。

序文・考察・解明・結論からなる本論文の序文だけ、先ず半訳した。今後手が空いたときに少しずつ半訳していく予定。まずは序文のみ半訳のrev.1からアップしておく。

教皇フランシスコ:10月4日に使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』発行予定

標記のニュースが飛び込んできた。Vatican News 30 August 2023. 11:52 以下半訳。


バチカンニュース 2023年8月30日 11:52

8月30日水曜日パウロ6世ホール。フランシスコ教皇は、毎年9月1日に設定されている「被造界を大切にする世界祈願日」を前に、今年のテーマを “Let Justice and Peace Flow”(正義と平和を大河のように)とすることをアピールした。

教皇は、the Season of Creation(「被造界の季節」エキュメニカル行事)が、この9月1日から10月4日(アッシジの聖フランシスコの記念日)まで設けられていることも付言した。

また既に8月21日、欧州委員会各国の法律家代表団を迎えた際にアナウンスしたことだが、来る10月4日に、回勅ラウダート・シの2nd Partを発行することを明らかにした。

環境的不正義の犠牲者の側に立つ

「その日に私は、使徒的勧告『2nd ラウダート・シ』を発行する計画です」「創造主からの聖なる贈り物である被造界のケアに参画する兄弟姉妹達に、私たちも加わりましょう」と教皇は陳べた。

8月30日水曜日、去る5月に発行した「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージの核心部を要約した。

「環境・気候に関する不正義の犠牲者の側に立つ。即ち、私たちの共通の家に対する意味の無い戦争、恐ろしい世界大戦を終わらせるよう努力する。これが必要です。皆さん全てが、私たちの共通の家が再び生命で満ちあふれるよう祈り働くよう強く要請します。」

public訳註1 policyの変革

上記メッセージで教皇は、「私たちの心、私たちのライフスタイル、私たちの諸社会を支配するthe public policies、これらを変革する」決意が必要だと陳べた。

更にエコロジカルな回心の話題に戻し、最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要があると陳べた。

「被造界を大切にする世界祈願日(9月1日)」教皇メッセージは、「私たちの諸社会を統治し、今日と明日のyoung peopleのlivesを形作ることになるthe public policiesを変革する」必要について強く主張している。

フランシスコ教皇はsynodalityの重要性を強調し、彼の希望をこう陳べ祈りを捧げた。「この被造界の季節に私たちは、シノドスの旅に共に参加するキリストに従う者として、祈り、働き、生活し、そうして私達の共通の家が再び生命で満ちあふれますように」と。

__________
訳註1)このpublicを「公共」と和訳するのは不適切。ここで示した様にフランシスコ教皇は、形而上概念を重視するpeoplesと、形而下概念を重視するIndividualsの二種類の集団が「拮抗併存」してpublicを形成すると考えている。日本語の「公共」には、この様な「重なる部分と重ならない部分が拮抗併存する二重構造」の意味は無い、または、薄い。


20230908追記:一般的に、creationの和訳としては「被造物」「被造界」の二つが考えられる。the Season of Creation、the World Day of Prayer for the Care of Creation、これらで使われているcreationの和訳として「被造物」「被造界」のどちらが適切だろうか。日本のラウダート・シ デスクでは「被造物」を採用している。しかし、上記半訳原英文の中程で教皇は、no longer consider creation as an object to be exploited, but as a reality to be safeguarded “as a sacred gift from our Creator”と陳べている。これは、「最早被造界を、搾取の対象ではなく、「創造主からの聖なる贈り物として」保護すべきa realityだと考える必要がある」と和訳するのが自然。…訳者としてはこのように考え、上記半訳のcreationの訳語を「被造界」に統一して訂正した。

clm.266:reality観 (the view of reality)

量子力学の教科書に、そのまま載せても何ら違和感のない記述を、フランシスコ教皇が書いた文章の中に見つけた。半訳しておく。

その記述は:
(原英文)The view of reality always depends on the gaze of the observer and the position in which it is placed.
(半訳)the view of realityは常に、観測者のgaze(意識的注視)と、その意識的注視が行われるposition(位置、意見)とに依存する
第五段落にある。

ちなみに第四段落には、inequality and inequity(不公平と不衡平)問題、という言葉も出てくる。「やっぱりね!」と思った次第。

equity (衡平)とは「当事者間で釣り合って平ら」を意味し、公平 (公 (おおやけ)に平ら)とは異なる

米国租税裁判所レポート 2004 July to Decenber簡素、柔軟、衡平」これがpartnership税制原則

これは、左掲した『米国租税裁判所レポート2004年7月-12月 Vol. 123』84頁を半訳してみれば分かる。

(以下半訳)米国国会は、米国連邦税制における幅広い権限をthe partners of a partnershipに与え今日に至っている。彼らpartnersが、事業体を形成し経営しそして解散するための管理協約から成る、partnership事業関係協約をnegotiateし、その結果simplisity, flexibility, and equity as between the partners(簡素、柔軟、当事者間衡平)を達成できるようにするためである。Foxman v. Commissionaer, 41 T.C. at 549-552(そこで引用された国会立法過程)も参照されたい。また、Moore v。Commissioner, 70 T.C. 1024, 1033 (1978); Kresser v. Commissioner, 54 T.C. 1621, 1630-1631 (1970)も参照されたい。(以上半訳)

註:T.C.とは、Reports of the United States Tax Courtのこと。全巻をここから見ることができる。

・・・何故これを今改めて陳べたかというと、日本の租税学の権威である金子宏先生が、未だに「公平」だけを主要な税制原則にする考えを述べているのを知ったからだ。それは、學士會会報No. 937(2019年7月)に寄稿された『~随想~ シャウプ勧告とわが国の税制』金子宏(東京大学名誉教授、東大・法・昭28)。全文をネットで見られる様になるのはもう少し先のことのようだが、目次はココないしココで見ることができる。機会があったら読んで頂きたい。

なお、coporate税制原則は、simple, fair, neutral(簡素、公平、中立)とするのが一般的。

経済的実体法理 economic substance doctrine

オバマケア演説 20090909オバマ政権 (2009年1月~2017年1月)の最大功績は、経済的実体法理を米連邦法の内国歳入codeに成文化したこと。(内国歳入codeは、日本でいう租税法に相当。)

経済的実体法理とは「partnershipによる租税回避は、そこに経済的実体(economic substance)があるならlawful(適法)とする」という法理のこと。(この場合、legalではなくlawfulという。日本語だとどちらも「適法」となって区別がつかない。)

partnershipでは、減価償却費用や利益(≒所得)や内部留保金の認識権限が国家当局ではなく事業当事者(partner)にある。というかそもそも、その様な勘定科目を持つ発生主義会計が強要されない。用いる会計手法を自由に選択して良い。例えば、年度会計でなく20年後に会計を閉めるのでも良い。そのため、国家は事業組織の年度毎に所得(=収入ー費用)を強制的に定めることが出来ない。結果、corporate income tax(日本でいう法人税)の様な税をpartnershipは回避できてしまう。これを租税回避(tax shelter)という。

corporate income taxを回避できる。これは、corporatismで経済を運営することを常とする国家にとっては一大事。corporatismとは「国家とcorporatesが二人三脚で足並みを揃えて国家経済を成長させていくこと」と以前説明した。例えば、自動車を製造販売して儲けたcorporateからcorporate income taxを、その従業員達からindividual income taxを国家は徴税する → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり国家税収が増える → その税収で国家は道路網を整備する → 更に自動車が売れるようになり・・・という経済成長のこと。

即ちcorporate income tax(とその従業員達からのindividual income tax)は二人三脚を行う国家とcorporatesの足を結ぶハチマキの役割。このハチマキが外れてしまえば足並みはそろわなくなり、corporatismによる経済成長が保てなくなる。ということで、租税回避の要件である経済的実体とはいったい何なのか、実は20世紀の間中(正確には1935年のGregory v. Helvering判決以来)米国租税法学者達は大論争を続けていた。

経済的実体の定義を、狭くすれば租税回避はやり難くなるし、広くすればやり易くくなる。

写真の様にオバマは、大統領就任から僅か8ヶ月の2009年9月9日の上下両院合同国会で、オバマケアの必要性を訴える演説をした。この演説は大成功で、その結果オバマケアは成立にこぎ着けた。その中、経済的実体法理が成文化された。(法文の英文はここ。スクロールを長く最後近くまで行って、(o) Clarification of economic substance doctrineという箇所を見つけて欲しい。)

私は2010年に主要箇所を半訳しておいた。7月20日分科会の資料にしようと思いここに再掲する。経済的実体の定義が狭いのか広いのか、あるいはもっと別次元の定義なのか皆さん自分で確かめて頂きたい。

20190709追記:
‘(1) 経済的実体法理の適用 – 以下の場合のみ・・・経済的実体を持つものとして扱われる。–

‘(A) 当該取引が、(連邦所得税の効果とは別の)意味ある方法によって、当該納税者の経済的ポジションを変化させ、且つ、
‘(B) 当該納税者が、(連邦所得税の効果とは別の)実体のある目的をもって該取引を行っている。

の部分、特に赤字で示した「方法」「目的」を読んで頂けたと思う。重要なのは「連邦所得税の効果とは別の」の部分。(注記:米国の連邦所得税はcorporate income taxとindividual income taxとを合わせて意味する。)

お分かりだろう。従来の経済、即ち国家がcorporatesと足並みを揃えて行うcorporatismによる経済、これとは別の経済として、経済的実体を定義している。従来の経済の意味で「狭い広い」を定義しているのではない。別次元の定義。

更にお分かりだろう。オバマは、オバマケア提案の際に経済的実体法理の成文化を提案している。そう、オバマはヘルスケアという産業を、国家がcorporatesと行うcorporatismによる経済とは別の経済として捉えている、ということが分かる。

国家が、非国家経済(non-state economy)の有用性を正式に認め、それに国家が干渉してはならないことを認めた(20190712, 20190718 追記)

法文の (o)-(5)-(c) Determination of application of doctrine not affected、は半訳すると:
(C) 本法理が適用できるかどうかの判断に影響を与えない – この経済的実体法理が或る取引に適用可能かどうかの判断は、このsubsessionが立法化されなかったかの如くに行わなければならない。
・・・となる。

下線を引いた「立法化されなかったかの如くに」の部分には、否定形の仮定法過去完了:as if ナニナニ had never been enacted、が使われている。法文に仮定法が使われるのは珍しい。ましてや「この法文は無かったことにして、或る取引の租税回避がlawful (適法)かどうか判断してくれ」というのは前代未聞。

或る取引に経済的実体があるのかどうか、即ち、該取引の租税回避が適法なのかどうか、これを法文に従って客観的に明確に判断できないのでは、何のためにこの法文を設けたのか良く分からない、というのが初学者の印象かもしれない。

しかし良く考えてみると、繰り返される「連邦所得税とは別の効果」(apart from Federal income tax effects)という言葉から、それ位、非国家経済(non-state economy)に国家が干渉してはならないことを重要視している、換言すれば、非国家経済(non-state economy)が「連邦所得税とは別の効果」を生み出すことを期待している、と分かってくる。

つまり、既存の連邦所得税によるcorporatism経済が、新たな非国家経済の創出を妨げてはならない。このことを肝に銘じている。この様なオバマの経済的実体法理codify(成文化、code化)は、partnership組織論研究者にとって「待ちに待ったこの日が遂に来た」というものだった。

ここに、フランシスコ教皇の言うpopular economyとは何なのか、探るための一つのヒントがある。

クラウス・シュワブ著『Shaping the Fourth Industrial Revolution』

『第四次産業革命をどの様な「形」にするのか』クラウス・シュワブ著
ザッと内容紹介をすると:

冒頭で:「岐路に立つ私たちに課せられた応答責任(resonsibility)はとても大きい。即ち、確かにこの機会にnew technologiesの形を、共通善をpromoteし、human dignityを高め、環境を保護する形に作りだすことは可能だ。しかし言い換えれば、もしこの絶好の機会を逃せば、現在の過酷な状況は悪化の一途をたどり、私利私欲とシステムの歪みが格差を更に拡大し、結果、あらゆるcountryで the rights of people(peopleとしての諸権利)がないがしろにされるのがほぼ確実となってしまう。」

更に:「第四次産業革命がもたらす恩恵を活用するには、次々と生まれる新技術達を、私達の意識下で完全にcontrolできる「単なるツール」と見なしてはい けない。かといって、それが進む先を私達が手引きできない外力と見なすべ きでもない。そうではなく、新しい技術のどこにどうやってhuman values(人間の価値観)を組み込むのか、組み込んだ上で更に、どのように形作ればthe common good(共通善)のためになるのか、environmental stewardshipを推進できるのか、human dignity (人間の尊厳)を尊重できるのか、これらをunderstandする必要がある。」
「今日の先端技術が2世代あるいは3世代かけて成熟した時、私たちの子孫は振り返ってどう思うだろうか。equity (衡平)、尊厳、共通善を尊重する技術開発をしてくれてよかったと私たちに感謝するだろうか。それとも、なぜそうする絶好の機会を逃したのだと、私たちの失敗を嘆くだろうか。」と述べ、

結語で:「もし私たちが主体的に自らの勇気を使い、共通善のために行動することが出来るならば、この先も人類はwell-beingと発展の軌跡を更新し続けられるはずだ。希望は十分にある。過去も現在も産業革命は、人類に進歩と豊かさをもたらしてきているが、その一方で環境破壊や広がるばかりの格差など負の外部性も生起し続けている。昔も今も、その解決は私たちの手に委ねられている。そして行く手(第四次産業革命)にも手強い課題が待ち受けている。即ち、どの様にして、技術の大変革がもたらす恩恵を分配するのか、必然的に生じる外部性を抑制するのか、そしてどうすれば、次々と生まれる先端技術を、私達人類の運命を決めるものにするのではなく、むしろ私達をempowerさせるものにできるのか。これら中心的課題の克服は、細大漏らさず全ての関連ステークホルダーが関わることで、大きく進むはずだ。」と述べています。

他の要所(共通善に言及した九箇所)の内容も~archivesの半訳に載せておきました。読後「ますますフランシスコ教皇とシュワブのタッグが強固となった」との印象を持ちました。

追記(20190402):第三段落を追加しました。
追記(20190407):第三段落を補強しました。
追記(20190415):連想せずにはいられない「未来への祈り」 (ダン・ブラウン『オリジン』)を付記

未来への祈り:
願わくは、我らの思想がテクノロジーに後れをとらぬことを。
願わくは、我らの情熱が支配力に後れをとらぬことを。
願わくは、恐怖ではなく愛が変化の源たらんことを。
そして敢えて言いましょう… 神のご加護を。

2018 Davos会議 冒頭挨拶 教皇フランシスコ

表記資料を~archivesの「半訳」にアップしました。Stiglitzの2017年注目論文:Markets, States and Institutionsを参照し、その論旨:「国家(States)と市場(Markets)という枠組み内の制度整備(institutional arrangement)では納まりきらない経済文化圏がemerge(唐突に顕在化)してきており、そこへのundersupplyにより格差が拡大している。従来型、あるいはWashington Consensusに沿った“improve markets” and “increase resources”ではこの問題を解決出来ない。」を踏まえて、カトリックとしての現状把握と対処法の骨子:「the human personのdignityをsafeguardすること」を述べています。